メルマガ色鉛筆第38号(「愛しき My bitter home」)
タイトル 愛しき My bitter home
ペンネーム 大きな青いキャッチャーミットと真っ白なボール(40代 男性 全盲)
レポートの要旨です。
失明して辛かった日々、しかし、辛かったのは私一人だけではなかった。
家族の辛さを頭では分かっていたはずなのに・・・。
妻に言われて初めて心に突き刺さった一言は、
「私の気持ちが貴方に分かる?」。
思いきり金槌で殴られたような気持ちだった。
辛かったのが自分一人じゃないことを突きつけられて以来、
夫婦の会話は苦くとも苦さゆえのバランスを保ち、
「それも俺のせい?」と今では笑ってやり過ごせる我が家に・・・。
ここから本文です。
あれはもう10年以上前のこと、私の失明は突然にやってきた。
目の病気で幼少期に医師に病名を宣告され、
将来は失明する可能性があると言われた仲間達の気持ち、私には分からない。
何年もの間、とても重い荷物を背負っての人生、おそらく辛いことだろう。
生まれてからずっと見ることに全くの支障もなかった私が、
突然の交通事故で失明した。
心の中のどの部分にも存在していなかった現実を受け入れないといけない私の辛さも、
幼少期に目の病気を宣告された友人には分からないことだろう。
もちろん、その辛さは家族にも分からないだろう。
逆に、失明した夫や父親を持つ妻子の気持ちは私には分からなかった。
当時、我が家は社宅に住んでいた。
同じ会社の人間、家族が何十世帯も住んでいる大きな社宅だ。
昼間の社宅の敷地内では子供達が走り回って遊んでいて、
お母さん達は子供の様子を見ながらあれこれ談笑している。
そんな社宅の光景に、片手に白杖を持ってフラフラと歩いているお父さんの姿、
目立たない訳はない。
私は毎日、お父さん達が出勤した後、
歩行訓練のために白杖を振りながら敷地内を歩いていた。
そんな私の姿を見た社宅のお母さんや子供達が私のことをどのように言っていたのか、
私の耳には入ってこなかった。
事情を知らないお母さん達の噂になっていてもおかしくない。
また、子供達はそういったお母さん達の噂話を聞いて、オブラートに包むこともせずに、
私の子供に「○○ちゃんのお父さんは目が見えないの?」と言っていたかもしれない。
その頃の妻は、失明した私に決して優しいばかりの妻ではなかった。
それが妻なりの優しさだったのかもしれない。
急に失明して何もできなくなった私に「自分でできることは自分でして」と、
何もかも手伝ってくれるようなことはなかった。
ある意味当然なのかもしれないが、
私の将来のことを考えて敢えて何でもやみくもに手伝わない、
そういった考えの元に厳しく接してきてくれたのかもしれない。
今ではそう考えられるものの、
その当時の私は「何で手伝ってくれないんや。何でもかんでもできる訳ないやろう」と、
心の中で叫ぶ日々が続いていた。
ある日、妻が言った。
「お友達が、今度お芝居を観に行くらしいの」。
私は何気なく言った、
「じゃあ、お前も一緒に行ってきたらええやん」と。
私が失明してからお友達と出かけることもなかった妻、
良い息抜きにでもなればと思った。
「誰が貴方の食事の用意をするの?そんなに簡単に言わないでよ」と、
妻は烈火の如くきつい口調で返した。
おにぎりでも準備してくれたら子供と二人で勝手に食べるのにと思っていたのだが、
妻は頑として私の意見を受け入れなかった。
家族旅行の相談で「あそこに行きたいなあ~」という話になっても、
妻はいつも「簡単に言わないでよ。貴方を連れて歩くのがどれだけ大変なのか・・・。
それは全て私がしないといけないんだから」と、
何をするにしても見えていない私がいるから大変なんだ、
何もかも私のせいだと言わんばかりの態度だった。
日々そういった妻からの言葉を耳にすることは大変辛く、屈辱的にも感じた。
「何でもかんでも俺のせいなのか?
俺だって自分で好き好んで失明した訳ではないんだ。
あの事故がなければ普通に生活していたはずなのに、
事故のせいなのに、なぜ、何でもかんでも俺のせいにするんだ!」と、
それを声に出して言えば大喧嘩になる。
子供にかわいそうな思いをさせてしまうから、
「なぜ」と叫びたい思いを私は来る日も来る日も心の中にグッと押し込めていた。
だから、私の心の中は愚痴やら不満で溢れんばかりになっていた。
いつまで休職しているか分からない、いつ職場に戻るか分からない、
そんな何も将来の保障がない私の姿を見ながら妻なりに焦っていたのかもしれない。
私だけではなく、子供にもきつく当たっていたことがあった。
何かに当たりたい心境だったかもしれない。
しかし、私にはそんな妻の気持ちまで考えられるだけの余裕はなかった。
その頃、社宅の周辺には新築のマンションがあちこちに建設されていた。
私の妻も、社宅のお友達と何度となくそのような新築マンションを見にいっていた。
そして、「買うの?買わないの?」等の会話が繰り広げられていたようだ。
しかし、私が失明して昼間に白杖を振りながら社宅内を歩くようになってから、
お友達から妻にそういった話題が振られることは一切なかった。
「皆、私には話題を振りにくいのやろうね。
買える訳ないやんて思っているんやろうね。
貴方のことも、どうして目が悪くなったの?今、会社はどうなっているの?とか、本当は聞きたいと思っているんやろうけど、
きっと私に遠慮して何も言わないねん。
不自然なぐらいに何も聞かないねん。
そんなんおかしいよね。
どうせやったら何でも聞いてくれたほうがええのに。
そやなかったら、マンションの見学に私を誘わなくてもいいのにね」。
そう言う妻の声は半ば笑っていたが、その目には悔し涙が溜まっていただろう。
そして、妻はポツリと続けた。
「突然目が見えなくなった貴方は辛いと思う。
きっと一番辛いと思う。
でもね、目が見えない配偶者を持った私の気持ちが貴方には分かる?
そんな父親を持った子供の気持ちが分かる?
分からないでしょう?
普段、私や子供がどんな思いをして生活しているかを」。
最初は静かだった妻の言葉も、
最後には大声で私に挑むような、訴えかけるような声になっていた。
その言葉を話している妻の目からは、悔し涙が溢れていたことだろう。
「スマン、俺のせいで・・・。本当にすまない」と、
私には頭を下げることしかできなかった。
妻も辛い思いをしながら社宅で生活していたんだなあ~、
日々悔しい思いをしながら社宅の友人達と接していたんだなあ~、
私には何も言わなかったが、子供なりに辛い思いをしていたんだなあ~、
辛いのは自分だけではなかったんだなあ~と、
改めて金槌で頭をドカーンと殴られた心境だった。
その後も「それも俺のせいなのか?」といった妻からの言葉は続いたが、
妻や子供の辛さや悔しさを知ってからは、
笑って「ホンマ、申し訳ないことです」とさらりと返せるようになった。
そして、毎日のリハビリを重ねて、私が会社に戻る復職の日が見えてきた。
「あと何か月」、そう思うと私のリハビリにも力が入り、
気のせいか妻の言葉にも元気が出てきたようだった。
ある夜、ダイニングで妻と二人でお酒を飲んでいた時、
妻が「そうそう、全て貴方のせいなの」と笑いながら言う。
そして、妻は更に続けた、
「私は何もかも他人のせいにしないと自分がやっていけなかったの」と。
妻も自分のことを分かっていたらしい。
行き場のない妻の気持ち、その安定を保つための矛先が私だったのだ。
いよいよ会社に戻る復職の日が近づいてきた。
妻が新聞に入っていた近隣の不動産の広告を見ていた。
「○○駅から徒歩10分、○○万円・・・。やっぱり高いよね」と独り言のように言っている。
コーヒーを飲みながら妻の独り言を聞いていた私はおもむろに言った、
「家を買おうか!」と。
その私の言葉を聞いた妻の顔、
驚きを通りこして鳩が豆鉄砲をくらったような顔だっただろう。
そして、無言・・・、私は続けた。
「いや、マジやで。会社に戻って仕事をするんやし、ローンが組めたら家を買おうや」。
「でも・・・」と躊躇する妻に私は続けた。
「もちろん、ローンが組めたらやで。でも、組めたら買おう。
俺らには絶対に家は買えないって思っていた人達を見返してやろうや。
で、あの人達より早く家を買って社宅を出ていこうや。
俺も復職して、仕事を続けるのにローンがあったほうが励みにもなるし、
モチベーションも上がるしな」。
私のその言葉に、妻は「そやね、そうしようか」と言ってくれた。
その時の妻の顔は笑顔で一杯だったに違いない。
そして、私は復職して自宅を購入した。
今も日々楽ではないが、仕事を続けてローンを返済している。
先日、妻が「今度の夜、お友達とお芝居を観にいってきてもいい?」と言うので、
「ああ~、たまには息抜きでもしてきたら」と私は答えた。
「ありがとう」と妻は明るく出かけた。
その夜は、もう大きくなった子供が私の食事の準備をしてくれた。
家族旅行の話になった時には妻が相変わらず言っている、
「そこに行くのはいいけど、お父さんを連れて歩くのは私なんやで。
それ、大変やん。だからやめとこうよ」と。
やはり、今でも「俺のせいか?」は続いているが、今ではそれもご愛嬌。
ほろ苦くとも愛しきマイホーム、
「大変なのは私なんやで」、「それも俺のせいか!」と苦い言葉が行ったり来たり。
繰り返される対話も旨みを増し、
気付けばあの突然の日から生まれた「我が家の味」となっている。
編集後記
想定外の失明、それは家族の元に訪れた現実。
「苦しい時も、そうでない時も・・・」と誓約して夫婦となったはずなのに、
「貴方を愛し、敬い、支える」という思いだけでは心のバランスを保つことは難しくなるのですね。
張り裂けそうな苛立ちや葛藤を抱え、
相手の気持ちは「分からん」、自分の気持ちも相手には「分からん」と思いながら、
一緒に重ねた我が家の歴史はマイホームという見える形を成し、
復職の一歩を力強くしたのですね。
ビターな夫婦の対話、ナイスバッテリーですね。
-- このメールの内容は以上です。
発行: 京都府視覚障害者協会
助成協力: 京都オムロン地域協力基金
発行日: 2015年3月20日
☆どうもありがとうございました。