メルマガ色鉛筆第26号(「統合教育の中で僕が感じたこと、培ったこと」)

タイトル  「統合教育の中で僕が感じたこと、培ったこと」
ペンネーム グレー(40代 男性 弱視)
 レポートの要旨です。
 こんにちは。
ペンネーム『グレー』です。
グレーと聞いて(見て)、皆さんはどのようなイメージをもちますか?
 子供の頃から弱視だった僕は統合教育を受けました。
社会人20年目になった今、修学してから大学卒業するまでのことを振り返ってみました。
色濃く思い出されるのは、こんなことで困っている、こうしてほしいという素直な気持ちが表現できないモヤモヤ感。
まさにグレーな世界、それは今も続いています。
グレーで、でも後ろ向きじゃないこれまでの時間について書いてみました。
 ここから本文です。
 僕は生まれつきの弱視で、現在の状況は右は0で、最近は左0.01の視力が測れなくなってきました。
幼少時から視覚障害者でしたので、見えないことが当たり前の中で日常生活をしてきました。
小学生の時はまだ0.1ぐらいの視力がありましたので、小学校を含め高校まで統合教育を受けました。
高校卒業後は大学に進学し、新卒で全国規模の民間企業に就職しました。
常に見える人の中で僕だけが見えにくい、見えない状況で、今もその状況です。
 今回は、見えにくい状況で過ごした学校生活を振り返り、今感じることを書きます。
 学校時代を過ごした20年から35年前は、ロービジョンケア、拡大読書器など、視覚障害者への理解や支援環境はありませんでした。
小学校の時は、一番前の席に座ると黒板の字も見えましたし、教科書も見えました。
しかし、見えにくいことへの理解や支援環境があるわけではありませんので、
授業では見えにくいことが原因でわからないことがたくさんありました。
何をするにも時間がかかり、運動も思うようにできないことがほとんどでした。
 野球ではバットを振っても空振りすることが多く、守っている時はボールがとんできてもわからず、
「お前と一緒のチームになったら負けるからいや」と言われました。
サッカーではボールがとんできてもちゃんとけることができず、相手チームにボールがとられてしまい、
「どこ見てるねん」ときつい口調で言われました。
楽譜を読むことや芸術系も同じで、
「お前の絵はおかしい!」と言われました。
見えにくいことが原因でできないことがある、そんな僕の人格はひたすら否定され続けました。
「失敗することなく時間が過ぎてほしい」、
「どうして自分だけができないのか。見えていたら簡単にできるのに」と、我慢するだけの生きづらい毎日でした。
そんな中、僕を責めることなく接してくれた友達と一緒に遊びながら小学校を過ごしました。
 中学校は地元ではなく、大阪市西区にある公立の花乃井中学校という弱視学級が設置された学校に通いました。
大阪市教育委員会が、地域の中学校に弱視学級を設置しています。
授業はみんなと一緒に受け、6時間目の授業が終わった後、別の教室に行きます。
そこでは、見えにくいことが原因でわからないこと、困っていることを解消するためのサポートを受けることができます。
 中学になり英語の授業が始まったのですが、
アルファベットがきちんとAからZまで書けるのか、
大文字と小文字の区別ができるのか、
社会では世界地図がきちんと確認できているのかなど、
授業で見えにくいことが原因で理解できていないことがあった時のサポート体制が、
弱視学級では整えられていました。
また、体育や技術・家庭など、みんなと一緒にできない授業は、
1人の先生が個別についてサポートしてくれる体制でした。
 「今日は困ったことはなかったのか?」と聞かれます。
「地図が見えなかったです」と言うと、
地図帳でその場所を開いて「ここはわかりますか」と、もう一度ゆっくり時間をかけて説明してもらうことができました。
 小学校の時は、見えにくいことが原因でわからなくてもそのまま放置していましたが、
中学校ではそれを解決できる場所がありました。
見えている人のことを気にせずに、改めて聞ける場所があったというのはありがたかったです。
 弱視で同じ立場の生徒は僕を入れて4人でした。
僕1人だけが見えにくいのではなく、同じ思いをしている生徒がいたということです。
そのため、日々の勉強、進路、友達関係など、気軽に話ができました。
見えにくい中で勉強をしますので、文字の読み書きに晴眼者の数倍の時間がかかりました。
見える人と同じようにできないことに辛さは感じましたが、弱視学級の他の生徒も同じでしたので、
僕1人だけではないという共感の思いが支えになりました。
孤立しながら我慢するだけの小学校と異なり、
弱視学級のある中学校で共感できる仲間と出会えたことは最も大きな変化でした。
 今、その当時を振り返ると、奈良県から大阪市西区まで、1時間20分かけての通学は時には辛いものがありました。
それでも、この中学時代は僕にとって大きな意味がありました。
サポート体制、共感による不快感の軽減、同じ立場の仲間との出会いなどから、
見えにくくても対等にやっていけることを実感できたのです。
この体験は、「自分にもできる!あきらめない!」という自信につながっていきました。
現在、通勤に1時間40分弱かかりますが、
中学校の時の1時間20分の通学が身についていますので苦にはなりません。
 見え方は人それぞれ違います。
その見え方に合った支援があれば、保有能力を発揮することができます。
支援を求める以上は、それをやり遂げ、結果を出すことが必要になると思います。
結果を出すことが自信につながり、支援があればできることを周りにわからせることができます。
その繰り返しが自分を成長させ、晴眼者と対等にやっていけるという自信になります。
小学校の時はそんな支援があることを知らず、我慢し続けるものだと思っていました。
当時は辛かったですが、今となれば、社会の理不尽さに直面した時にその経験が役立っています。
小学校時代に培った忍耐と、統合教育の中で得た自分にもできるという自信、
それぞれが後ろ向きじゃない僕の土台になっています。
 今回、子供時代を振り返りつつ、グレーな世界に生きる自分の色について考えてみました。
モヤモヤ感のあるグレーな世界に、決して後ろ向きじゃない自分がいます。
モヤモヤ感から抜け出すということで、正直な素直な気持ちになるということで、
この決して後ろ向きじゃない自分は「真っ白」です。
僕は、執筆にあたりグレーという色を描きつつ、結びにあたり「真っ白」な色と出会うことができました。
これからも後ろ向きじゃない自分として、「真っ白」な色を想いつつ歩いていきたいと思います。
 ここからは、ちょこっと情報コーナーです。
 国連の障害者権利条約第24条においては、
教育を受ける権利として『インクルージョン教育体制』の実施を初等、中等教育のみならず成人教育、生涯学習の段階においても締結国に求めている。
 インクルーシブ教育とは、障害児と健常児を区別せずに同じ場所で教育する方法。
障害の有無に関わらず児童は皆等しく、発達や能力に応じて個別的な教育的ニーズを持っているという理念に基づいている。
そして、これを実現するために少人数学級、複数指導、学習相談センターの設置、
全ての生徒や学級全体の支援のためのサポート・スタッフ常駐等、様々な方法が提案されている。
 統合教育とは、障害児を健常児と区別した上で同じ場所で教育する方法。
統合教育では、障害児は普通学校の通常学級に通級し、適宜入り込み / 取り出し指導等の特別な支援を受ける。
 入り込み指導とは、児童が一時的に通常学級から離れ、別室で個別に指導する方法。
 取り出し指導とは、通常学級における一斉指導の中で、専用のサポートスタッフや支援員が児童に付き添って学習を支援する方法。
 分離教育とは、障害児を健常児から分けて教育する方法。
分離教育では、障害児が普通学校とは異なる特別支援学校に通学する場合や、
普通学校に併設されている特別支援学級に通級しながら通常学級と交流及び共同学習を行う場合等、分離の程度には差がある。
また、特別支援学校でも普通学校との交流及び共同学習を行う場合がある。
 交流及び共同学習とは、国内外の地域を含む広義の学校間 / 学級間交流全般のこと。
 交流教育とは、特別支援学級、特別支援学校の児童が相互理解や社会性を養うため、普通学校や地域の人々と行う狭義の交流のこと。
編集後記
 ひたすら我慢するだけの生きづらい毎日、
見えにくくても晴眼者と対等にやっていけるという自信を見いだせたこと、
統合教育を受ける中で感じた二つの思いは対極にありました。
どちらも、グレーさんの「後ろ向きじゃない!」という今につながっています。
 抜け出す、素直な気持ちになる、その思いに込められたものは?と考えてみました。
子供時代から今、未来へと、希望を握り締める姿が浮かびました。
 前向きという言葉でなく、「後ろ向きじゃない!」という思いに込められたものは?と考えてみました。
真っ白な姿に大地を踏みしめるような力を感じました。
-- このメールの内容は以上です。
発行:   京都府視覚障害者協会
助成協力: 京都オムロン地域協力基金
発行日:  2014年10月3日
☆どうもありがとうございました。


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