メルマガ色鉛筆第332号「強度弱視者の農業奮闘記」

タイトル 強度弱視者の農業奮闘記
ペンネーム チョコアンドライトグレーのクキベキ(60代 男性 弱視)
★レポートの要旨です。
 今回のレポートでは米作りの体験が語られる。
「よい視覚障害者の皆さんは決して真似をしないでください」
と但し書きがつけられたレポートである。
見えていた時、見えにくくなる中でのこと、
先祖から守り継がれてきた大地との約束のこと、
大地そのものが語ること、
自分が求められることと求めること、
米作りと向き合う中で生まれた大地とライターさんとの対話とは。
★ここから本文です。
 3月、注文してあった農場の2トンダンプカーが我が家の農業倉庫の前の広場に
堆肥をどさっとおろしてくれる。
山積みされた堆肥を息子と娘がスコップでコンテナに入れていく。
コンテナが8杯入ったところで私が運搬車にコンテナを積み上げ、
エンジンをかける。
田んぼは9枚、中山間地のなだらかな南向きの扇状地に広がる田んぼへ
満遍なく堆肥を入れる作業から、我が家の1年の米作りが始まる。
山の際の休耕田には山羊のクッキーとベッキーがのんびりと寝そべっている。
ここからは大台ケ原や大峰山といった紀伊山地の山々を広く見渡すことができる。
 父が亡くなり20年近くなる。
両親は私が生まれたころから完全無農薬有機農法を行ってきた。
父亡き後もそのようなお米を必要とする方々のために、
私たち息子夫婦は完全無農薬有機農法を引き継ぐことになった。
40代前半のことだった。
農薬も除草剤も化学肥料も一切使わず、有機肥料で作物を育てる。
それが完全無農薬有機農法だ。
そのころから、平日は勤めに出て、土日は米作りという生活になった。
いわゆる兼業農家で、米づくりをしなければ生活できないというわけではない。
いや、むしろ米作りをすると赤字にしかなっていない。
経済合理性などというものとは全く無縁でしかない。
先祖代々受け継がれてきた土地や農業を維持していくための生活スタイルだ。
農業が好きなわけでもなく、農作業はどちらかといえば苦手で、
勤めに出て職場で仕事している方がずっと楽しかった。
正直なところ、仕方なしに農家の長男として引き継いだものだった。
 米作りの作業の話に戻ろう。
米の漢字が八十八もの手間がかかることに由来していると言われるように、
米作りにはたくさんの手間がかかる。
私の地域のローカルな農業用語で、米作りの手間をざっくりと挙げてみる。
3月の堆肥撒きが終わったら、草刈、元肥まき、荒おこし、
ゴールデンウイークは苗床つくり、籾まき、苗代づくりでつぶれる。
連休明けからは2度目の荒おこし、苗代の苗の生育状況の管理、あぜぬり、
アゼシート設置、水口整備、土嚢設置、用水路整備とこなしていく。
6月に入るとようやく田んぼに水を入れる。村で当番制で水の係を担当しながら
水田をこねる作業、代掻き、苗箱の分配作業、苗代の片づけ、ようやく田植え、
植え終わると差し苗、除草機による草取り、追肥、梅雨が明けるとアゼ草刈、
水の管理、土用干し、穂肥まき、アゼ際の除草作業は猛暑の中での作業だ。
8月になると早生の穂が出てお盆が明けると晩稲(おくて)の穂が出る。
稲の生長状況と向き合いながら水のコントロール、そして稲刈りの準備
10月に稲を刈るがそれまでに、台風や大雨が襲ってきたりする。
一般的な近代農法は人間が作り出した化学肥料や農薬の力で稲を大きくし、
できるだけお米を多く「獲得しよう」という考え方である。
これに対し、完全無農薬有機農法は、土作りを大切にし、
稲が自ら大きくなろうとするのを支援し環境を整えながら
その成果として大自然からお米を「いただく」という理念にもとづいている。
八十八の作業はお米を「大自然からいただくための作法」なのだ。
完全無農薬有機農法は土を育てるところから始まる。
土や環境がこの農法向きに出来上がってきて、
近代農法にさほど劣らないような生育状況に近づいていくためには何年もかかる。
こうして何年もかかって得た恵の作物は味が良く、
なんといっても安心していただける。
私はそういった段階の田んぼを親から引き継いだのだ。
重労働であるし、休みはほとんど潰れるし大変なことばかりなのであるが、
不思議なもので、稲刈りが終わって、いつものように田んぼにやってくると、
お世話をする稲がいなくなってしまっていることに寂しさを覚えたりする。
そして、冬が過ぎ、温かくなってくると田んぼが、
「今年もこの田んぼで稲を植えて育ててよ」と語りかけてくる。
多くの作業は自分のペースで自然の中で行う。
猛暑の中での作業もあれば、雨の中での作業もある。
自然を感じながらの作業は心が落ち着き嫌なことを忘れさせてくれる。
農業にはそんな癒しの効果がある、それは確かだ。
 40代前半、私は自覚症状的には晴眼者だった。
進行性の病名は医師からきいてはいたが日常生活には支障がなく、
平日は車を運転して働きに出て、
土日はトラクターやコンバインといった農業機械を乗り回していた。
もっと若いころから父親に素直に教えてもらっておけばいいものを、
「俺は農業はできるだけやりたくない」と
最小限の農作業を手伝う程度のことしかしてこなかった。
そのせいで、主になってやり始めたころはわからないことがとても多かった。
数年間繰り返してようやく慣れ始めたころに、視覚障害が徐々に進行し始めた。
最初は田植え機の作業に支障が出た。
細い苗を水が入った田んぼに植えていくのだが、苗のすじがわかりにくく
しばしば失敗するようになった。
次に除草機。
少し大きくなった苗と苗の間を除草装置を回転させながら進んでいくのだが、
何度も失敗して苗を傷つけたり倒したりした。
目の状態がさらに進みだすと、コンバインで稲を刈るときにも失敗が多くなり、
後方支援をしてくれていた妻と、機械を使っていた私の役割を交代した。
妻は、「機械を使っている方が楽」と行って引き受けてくれた。
アゼ塗り機は農機具屋さんの技術の人にお願いしたりして
限られた時間の中で作業を前に進めていかなくてはならなかった。
 50歳ころには軽トラックを運転できなくなり、ますます困ったことになった。
公共の道を通って機械を運ばなければならない場所にある田んぼは休耕した。
ほとんど私有地だけで機械を移動できる場所にある田んぼだけでも
十分大変な枚数があった。
「トラクターで田んぼを耕すことはせめて自力でやっていこう」と、
見えにくさをカバーするためにはどうすればよいかを考えた。
ホームセンターで水やり用のホースの巻き取り機と太い白いひもを買ってきて、
ホースの代わりに100メートルほどの白いひもを巻き取り機に接続し、
巻き取れるようにしておく。
田んぼの周囲に沿って杭を立て、耕す部分がわかるように白いひもを張る。
こうすることで自力でトラクターによる耕耘作業を続けることができるようになった。
 しかし、60歳手前になるとトラクターの移動がしにくくなってきた。
もちろんこの作業は私有地内で自己責任でやっていることなので
決して公道でやることはあり得ない。
視野の中心部と上の部分が見えなくなり、
下と左右に視野が残っている状態になってきたのは50代半ばのころからだった。
年齢とともに見えない中心部の面積が広がっていき、
感度も全体的に落ちていった。
そういえば、最近は普通に道を歩くときに白線があるととても歩きやすいが、
白線も点字ブロックもない道はとても歩きにくくなった。
トラクターを運転する際に水路や道の端が白線の役割をしてくれていれば
それを確認しながら移動できるから、
こまめに水路やアゼ道の際がわかるように草刈りの徹底につとめた。
また、要所要所に見やすい目印を置いたことで移動しやすくなった。
60歳を超えた今、見え方はさらに悪くなってきた。
今私が考えているのはこの視力(右も左も0.02)でも
なんとか運転できる方法はないかということだ。
そのために幅の広い長い糊がついていないテープを探している。
道路の白線の代わりをしてくれるテープだ。
これを使って作業できる方法を確立したい。
 今、見えにくさに対応してどうにかやれていても、
しばらくたつとまた見えにくさが進行する。
さらに、その障害を克服する工夫をする。
でもまた見えにくくなり、「来年は無理かもしれない」という思いがよぎる。
やがて本当にできなくなるのかもしれない。
どうなっていくのか、「神のみぞ知る」だ。
農業を本格的にやり始めたころ、子供は小学校低学年と保育所だった。
しかし今は2人とも仕事をしている。
夫婦だけではどうしても無理な時は、子どもたちが頼りだ。
いやいやながらも手伝ってくれるわが子は、若い頃の私よりはずっとましだ。
この農業はそもそも一人でできるようなものではない。
家族、親戚を巻き込んで、助けてもらいながら、
できることはできるだけ自分でやりながら、どうにかここまできた。
妻には本当に苦労を掛けている。
心よりの感謝しかない。
さらに言えば、地域の方々にもどれほどお世話になったり
許してもらったりしているかと思うと、感謝してもしきれるものではない。
自立していく子どもたちが、この限界集落にある田んぼをどうしていくかは
正直分からない。
今は「来年は無理かもしれない、でも、できるところまではできることをやる」、
ただ、それだけだ。
そして、今年も堆肥撒きの3月はやってきた。
編集後記
 クキベキ


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