メルマガ色鉛筆第135号「コーヒーと本」
タイトル 「コーヒーと本」
ペンネーム 若芽(70代 男性 弱視)&茶葉(40代 女性 弱視)
レポートの要旨です。
こんにちは。
メルマガ色鉛筆編集チームです。
今回は、「解放から開放、そして快方へ」という流れで描かれたストーリーを、3通に分けてお届けします。
物語は、若芽さんの「私の人生、一度戻ってみたら」という場面から始まります。
そして、実際の人生とは違う想定で自己を解き放ち、自由に物語の扉は開かれていきます。
茶葉さんは、そこでバトンを受け取りました。
そして、その開かれた世界で起きる物語を快い方向へと運びます。
読書の秋、三つの「かいほう」で構成された物語をお届けします。
ここから本文です。
私の役目は終わった。
仕事の区切りもついた。
「I have done my duty,thanks to God」とつぶやきながら、
楽しかった舞台を彩り支えてくれた小道具たちに感謝しつつ、
机の引き出しやロッカーを空にした。
書物や拡大器なども処分し、絡みついたしがらみも同時に放り棄てた。
櫻がチラホラ咲き始めた65歳の春、30年近く勤めた職場を去った。
見送りも花束も断り、独りだけになって建物を出た。
前の年に植え替えたモミの木が見送ってくれた。
「今年のクリスマスには綺麗に光り輝くのだよ」と言いながら校門を出て、
振り返りもせず坂道を下った。
初めてこの坂を上がった時のことを思い出す。
喜びと希望と感謝に満ちあふれながらも、どこか後ろめたかったことを。
この思いはいつも離れなかった。
坂道を下りきった時、
ここでの歩みは消せないけれど、なぜか「ヨシ」というかけ声が聞こえてきた。
スッキリする。
これからは損得とは絶縁し、不善不悪を生きるのだ。
独りでいることを恐れず、独りでいることを求めて。
自己否定を忘れず、自己を肯定するように。
櫻の花が散り、蜜蜂の羽音がブンブンと騒がしくなった頃、
坂の下で意味不明な言葉を吐いていた私はもういなかった。
株価に一喜一憂したり、町内会の人とボランティアで山の掃除をしたり、自分の
正当性だけを主張したり。
私は、たんたんとした静かな生活に飽き足らず、いつしか若い人のにぎやかな
声が聞きたくなっていた。
高校生が帰宅する頃を見はからってマクドを訪ね歩くようになっていった。
ある日、東大路に面したマクドに入ろうとした時、
私は聞き覚えのある声に呼び止められた。
すぐに思い出した。
学生時代から20年近く毎日のように通い、居座っていた喫茶店の娘さんである。
「ここは妹のビルで、貸しているの。私は少し南側で喫茶店を開いているの」。
「あの店はどうしているの」。
「数年前に閉じたわよ」。
「どうして」。
「いろいろあるのよ」。
彼女の店でしばらく思い出話をした後、そのまま昔の店に向かった。
外観は昔通りで、ドアの向こう側に日焼けしたカーテンがかかっていた。
寂しそうなそれが閉店中を示していた。
後日、私は久しぶりにオーナーと会った。
オーナーもとても喜んでくださり、活気のあった古き良き時代を懐かしく語り合った。
そこで、私は「お店がしたい。貸してください」と申し入れた。
「貸すことはできないが、雇用ということではどうかな」。
私は、その場でOKした。
こうして、私は雇われマスターになった。
店はカウンターが6席、4人がけのテーブルが六つ、
内装などはすべてコーヒー色で統一されていた。
いかにも昭和の喫茶店という雰囲気だ。
音楽系の女学生さんたちが順番に入ってくれているのは、昔通り。
私は、レジの傍でニコニコしながら古本屋の店主のようにじっと座っている。
「ああ、もっとお客さんが来てくれたらなあ」。
店には古いオーディオセットがあった。
私はクラシックに精通しているわけではないが、流行歌を1日耳にしているのは好みではない。
古いLPレコードを、ジャケットのデザインやタイトルのイメージだけで適当に買いあさった。
クラシックなら耳にわずらわしくはないだろう、そんな何の根拠もない理屈だけで。
それでも、毎日LPをかけていると、パチパチという独特な針の音に心が癒された。
盤が回り音楽が流れ出す。
そのわずかな時間の小さな声を、私は必死に拾う。
その瞬間、入り口のドアがカランカランと鳴ることもある。
でも、私は振り向かない。
急ぐことは何もない。
ここでは、歓迎の言葉も感謝の言葉も私のリズムでいいのだ。
そして、不思議とここには急ぐ人は来なかった。
私は、いつもここで待つ人となった。
誰を待つわけでも何を待つわけでもない。
次があるわけでも約束があるわけでもない。
ただ、週5日、同じ場所に座りなんとなく本を読み、LPのパチパチを愛おしみ過ごした。
お客は、たいてい数名の女学生か高齢の男性独りだった。
人気メニューの考案もしない。
ただ、じっくり焼くホットケーキと酸味も苦味もひかえめなコーヒーだけを看板
メニューにあげた。
不思議とそれだけで何人かの常連さんができた。
昭和を知らない若い学生のテーブルから「昭和っぽいよね」という声が聞こえる。
「なんか落ち着く」という声も。
知らない時代にもノスタルジーを感じるものなのか、そんな問いかけもすぐに消える。
ここでは、何かを深く考察することもその結論を導くこともしやしない。
ここはそのための場所じゃない。
ただ流れ過ごすための場所、私はその場所と時間を必要としている、コーヒーの香りとともに。
毎週木曜日の夕方になると、独りでやってくる女性がいる。
その規則性に気づくのに数か月かかった。
私は、そのようなことに何の関心も持たないでいたかった。
でも、いつの間にか彼女の生活が気になり始めた。
2時間ほどただ本を読み、閉店10分前には帰っていく。
学生でもなさそうな、OLでもなさそうな、正体が想像できない彼女、
私は彼女が来る木曜日を待つようになっていた。
私は、今まで読まなかった、避けていた作家やジャンルの本を手にとることにした。
かつて読んだ本を手にすれば、その頃の自分を思い出すことにもなる。
ここにかつての自分を連れてきたくなかった。
どこの誰でもない自分としてここにいたかった。
ただ、読んだ本を店の片隅の本棚に置くことにした。
家に持ち帰ることも気がすすまなかったし、捨てるのもどこか後ろめたい。
「よければどうぞ」と差し上げることにして、本棚から本があふれないようにした。
ある木曜日、私は彼女の本に興味を抱いた。
彼女のことよりも、彼女が読みふける本が何か知りたかった。
彼女はあくびも伸びもせず、ときおりカップに口をつけるだけで、ひたすら読書に没頭していた。
その姿に興味がわいた。
「本がお好きなんですね」。
思い切って声をかけたが、彼女は私のほうにちらっと視線を向けてかすかな笑顔を浮かべただけだった。
ブックカバーのかかった本からはタイトルが想像できない。
私は、もやもやとした気持ちで何度かの木曜日を過ごした。
6月の木曜日、少し濡れた彼女がやってきた。
コーヒーを注文し、バッグの中の何かを探している。
しばらくして、彼女は悲しそうな目をしたかと思うと、両手で顔を覆った。
私は、見てはいけないものを見てしまった罪悪感を覚えた。
心がざわざわと落ち着かない。
それを隠すように本に目を落とし続けた。
ふと顔を上げると、私の前に彼女が立っていた。
「何を読まれているんですか」。
私は驚いて、あわてて本を閉じた。
「いや、別に」。
なぜそんな言葉を吐いたのかもわからないままに続けた。
「特に読みたい本ではないんですけど、でも、ただ読んでいます」。
なんてかっこうの悪いセリフなんだ、何を言ってるんだ、左手に汗がにじんできた。
「よかったら本を貸してください」。
唐突な彼女の言葉に私の心臓は大きく波打った。
「どうぞ」。
彼女は黙ってうなずき、自分の席に戻っていった。
私は、所在なく本棚の整理を始めた。
再読などという読み方はしないと決めているので、そこにある本を手にする気は起こらない。
でも、どうにも手持ち無沙汰だ。
LPを意味もなく交換し、パチパチを大切に聞き取った。
気持ちを落ち着かせる道具はそこにしかなかった。
「どういう意味なんだろう、本はここにいっぱいあるのに」。
私は、何かを考察することもその結論を導くこともしないと決めた場所で、その約束を自ら破った。
彼女によって破られてしまった。
以来、木曜日になると、彼女は私が読んでいる本を借りにきた。
そして、閉店前までの時間を過ごしていった。
私は、木曜日の本が彼女が読む本になることを意識しなくてはならなくなった。
グロテスクな暴力シーンや下品な性的シーンが何度も繰り返されるような本は困る。
なぜか、そんなしばりを感じながら本屋の棚から本を選ばなくてはならなくなった。
その理由はわからない。
もしかしたら彼女はそうしたシーンを嫌わないかもしれない、求めているかもしれない。
にも関わらず、私は彼女にそのようなシーンに出会ってほしくなかった。
そのようなものを、私が求めて読んでいるとも思われたくなかった。
あの場所は、そしてそこを流れゆく時間は、
私にとっても彼女にとってもひたすら穏やかで意味のないものでなければならないから。
いつの間にか、私はそんな身勝手な理屈を描くようになっていた。
3月のある木曜日、彼女はいつものように私から本を借りた。
そして、いつものように帰り際にその本を手に私の前に現われた。
「よければどうぞ」と、私は何度か彼女に声をかけた。
いつもならば、彼女は会釈をして私のテーブルに本を置いて帰っていく。
でも、その日は違った。
「ありがとうございます」。
彼女は自分の胸にその本を愛しそうに抱き、まっすぐな笑顔を私に投げた。
私は少し戸惑ったが、高揚する気持ちを抑えられず、なぜか握手を求めた。
彼女はそれには応じず、ただ深く頭を下げ、もう一度まっすぐに私の目を見て笑顔を投げた。
「ありがとうございました」。
私は、振り向かない彼女の背中を見送った。
その日、店の片づけを終えた私は、たまらない虚無感に襲われていた。
彼女はもうここには来ないだろう。
何の根拠も理屈もなく、そんな思いが私を支配していた。
私は、次の木曜日を迎えることを望まなかった。
来週の水曜日、閉店しよう、ここでの時間はどこまでも穏やかに流れゆくものであってほしい。
このまま、私の心の中でずっとそんな場所であってほしい。
私は、ただ家に帰るだけでいいんだ。
そう決めた、もとに戻るだけだと。
私は、水曜日までの時間をいつも通り過ごした。
常連さんにあいさつもしなかった。
いつも通り本を読み、LPをかけ、パチパチを愛おしく聞きながら過ごした。
そして、従業員には月末までの給与と少しの謝金を渡した。
突然の申し出にオーナーも驚いておられたが、体の不調という嘘があっさりと受け入れられた。
最後に一つだけオーナーにお願いをした、カーテンを新しいものに替えさせてほしいと。
私はできるだけその店に似合わないポップな絵柄のカーテンを選び、そこにかけた。
もしこれから先この店の前を通っても、かつての場所を思い出すことがないように。
木曜日の朝、私はいつものように店に入った。
そして、独り彼女の席に座り、自分の手を見つめた。
差し出した右手を思い、左手を重ねた。
閉店のお詫びのあいさつの下に少しだけ思いを添えた。
「あなたが求める物語に出会えることを、私は祈っています」。
私は鍵をしめ、扉に向かって手を振った。
独りで歩き出すのはこれで何度目だろうか。
どんよりとした問いがどこからか聞こえた。
意味のないことを考えるのはやめたはずじゃないか。
私は首を振り、歩を止めることはしなかった。
私は、毎日コーヒーを飲む。
落ち着いて飲める場所を求めている。
そこで、読みたいと思うわけでもない文字に目を落とす。
そんな場所をいくつか見つけては不規則に回遊している。
ある日、私の前にコーヒーを運んできた女性に声をかけられた。
「本をお借りしてもいいですか」。
まっすぐな笑顔の彼女がそこにいた。
「はい、どうぞ」。
私は、なんとなく選んだ本を戸惑いなく彼女に手渡した。
そして、彼女はエプロンのポケットから本を出し、無言で私の前に置いていった。
彼女の読みかけの本だった。
私は、しおりにしたためられていた言葉を目にした時、思わず両手を組み額に当てた。
「あなたが求める物語に出会えることを、私は祈っています」。
私は、彼女に会えるであろう店に、決まった曜日に出向くことはしなかった。
でも、なんとなく回遊する中で、彼女のまっすぐな笑顔と本は何度か私のもとに届いた。
私も、まっすぐな彼女の目に吸い込まれるように笑顔で本を差し出した。
規則性のないその無言の約束は、かすかなパチパチの音を拾う喜びと重なっていった。
だからどうだということではない。
手でふれられるものでもない。
実態もなく重さもないもの、そんなものの中に私は平安を感じるようになっていた。
私は、毎日コーヒーを飲む。
私を満たすいくつかの場所がある。
10月のある帰り道、キツネの嫁入りにあった。
少し濡れた6月の彼女の姿が浮かんだ。
私は、無意識に周りを見渡した。
色あせたカーテンのかかった喫茶店が、そこにあった。
なぜか、私は2杯目のコーヒーがほしくなった。
扉を引くと、パチパチとレコードが動き出す声が聞こえた。
「お世話になります。ホットで」。
私は、いつものように物語の続きに目を落としていった。
編集後記
三つの「かいほう」物語、若芽さんは解放から開放を、茶葉さんは快方を担当されました。
お2人が物語を創作される過程で、視覚障害ゆえの不自由さはあったのでしょうか?
もちろん、入力には根気が必要です。
音声だけでは誤字だって出てくるでしょう。
でも、自由に描くことに不自由さはないかもしれない。
それは、物語の広がりから伝わってきます。
3ステップで寄り添い紡がれた世界は、どこまでも穏やかでした。
色鉛筆だからこその取り組みの一つとして、またいつかすてきな物語をお届けしたいと思います。
-- このメールの内容は以上です。
発行: 京都府視覚障害者協会
発行日: 2018年10月12日
☆どうもありがとうございました。