メルマガ色鉛筆第129号「鉄子の部屋へようこそ!」

タイトル 「鉄子の部屋へようこそ!」
メルマガ色鉛筆編集チーム
 こんにちは、メルマガ色鉛筆編集チームです。
 今回は、人気の鉄道レポをお届けします。
日ごろはクールだけど、鉄道の話になると急に表情が明るくなっちゃう鉄子さんの登場です。
タイトル あのころの私に戻ってワイド周遊を
ペンネーム EVERGREEN(60代 女性 弱視)
 1977(昭和52)年に戻って、友達のハルちゃんとヒトミちゃん、私の3人で
また北海道旅行をしてみたい。
 3人はみんな兄貴がいて、末っ子の一人娘という境遇だった。
今になって思えば頼りなくて、何をするにも危なっかしかっただろう。
30代前半ぐらいまでは会うこともあったが、
それ以後は、遠く離れていたことや暮らしに追われていたこともあって連絡をしなくなっていた。
それが、50を過ぎてたまあに連絡をするようになった。
 私はこのころ、兄の影響からか、貧乏旅行でいいから、
とにかく若いうちに長期間ゆっくり旅をしておきたいと思っていた。
それで、2人を計画に誘った。
ちょうどその年は、石川さゆりの『津軽海峡・冬景色』が大ヒットしていた。
藤井大丸に行ってユースホステルの会員になって、ユースホステルを宿泊先にすることと、
京都駅で北海道ワイド周遊券を買ってくることだけを兄から教えてもらった。
そして、時刻表の見方すらよく知らない私たちだったが、
ワクワクしながらプランづくりを始めた。
 当時の北海道ワイド周遊券は、出発駅から北海道までの往復に急行の普通車自由席と青函連絡船が利用でき、
道内では急行の普通車自由席と国鉄バスが乗り放題だった。
親からは旅行費用は出してもらわないと決めていて、ケチケチ旅行のつもりだったのに、
「夏の混雑期に日本海側を通って青森を目指すのでは、
始発駅ではない京都からでは、自由席にはなかなか座れませんよ。
自由席特急券代は別にかかるけど、新幹線で東京まで行ったほうがいいと思います。
上野からなら青森行きの夜行列車がたくさん出てるから、おそらく座って行けると思いますよ」と
みどりの窓口のおじさんが教えてくれた。
そりゃあ、当然座りたいから、背に腹は代えられない。
 ユースホステルの予約は、確か往復はがきだったと思う。
難しいのは、1日にどれくらい移動するかで予約先を決めなければならないことだ。
列車やバスの出発から到着までの所要時間と、観光にあてる時間などを考慮して
予約の申し込みをするのだ。
行きたいところに優先順位をつけて、道内を一周できるように考えていった。
 2人がどこへ行きたかったのか、どんな主張をしたのかはまったく覚えていないが、
私がこだわったのは宗谷岬と礼文島だった。
日本最北端の地に行ってみたいし、晴れた日なら樺太が見えるかもしれないと主張した。
 3人の要望のすり合わせをして、8月に入ると、ついに2週間にわたる北海道への旅に出発した。
 上野駅を利用するのは初めてだったが、子どものころから、お盆や年末年始の
帰省ラッシュのニュース中継はテレビでよく見ていた。
ウキウキ気分と、おそらくこの先来ることないかなという気もしたので、
ここぞとばかりにキョロキョロと見渡した。
 上野駅のホームは2階建てになっていて、特急や急行が発着するのは主に下の地上ホームである。
私たちはこの地上ホームにいた。
線路が行き止まりになっているこのホームは、上を高架ホームが覆っているからか、薄暗い。
そのほの暗い中に北国の空気が漂っているようで、駅舎の古さもあいまって独特の雰囲気があった。
東北線回りの青森行き急行「八甲田」が入線するまでの間、
私たちはベンチで駅弁を食べながら上野駅を楽しんだ。
 動き出した列車は、しばらくは大都会のネオンの中を進んでいく。
しばらくおしゃべりしたあと、3人とも寝てしまった。
途中の停車駅で、私が目が覚めたのは郡山だけだった。
郡山を発車すると、車内はおやすみモードになった。
車内灯が薄暗くなるので、いやでもみんな寝静まってしまう。
明け方まで車内放送はない。
車内放送が始まるまでの間、途中の停車駅で降りる人はたいへんだ。
 青森駅が近づいてくると、車掌さんが青函連絡船の乗船名簿を配ってくれる。
記入して、乗船時に係員に渡すのである。
連絡船への乗り換えは意外なほど便利で、
降りた列車の前の方向へ少し行って階段を上がったところが連絡船乗り場だった。
函館まではけっこう遠くて、確か4時間近くかかっていたように思う。
「北へ帰る人の群れは誰も無口で…」って、上野から青森まで約11時間半。
そりゃあ、あんなに時間がかかったら、疲れきって無口になるというものだ。
 襟裳岬の夏は、やはり何もない夏だった。
 「愛の国から幸福へ」というキャッチフレーズで大流行した切符を、
わざわざ愛国駅まで行って買ったのに、ブームが去ったらこの線は廃線になった。
 摩周湖は、霧に抱かれてなんかいなかった。
 阿寒湖のマリモは、「へえ、これが…」ってところ。
それより寒くて困った。
 網走刑務所では、正門の看板といっしょに写真を撮っただけで終わり。
そりゃあ、中を見学させてくれるわけないか。
もちろん健さんもいなかった。
 宗谷岬では、残念ながら樺太は見えなかった。
二等辺三角形というか、矢印みたいな形をしたモニュメントといっしょに記念写真を撮って終わり。
それより気になったのは、
そばにあるお土産屋さんがダ・カーポの『宗谷岬』という曲を繰り返し繰り返し流していたことだ。
こんなところにもご当地ソングがあるのかと、3人で感心していた。
今でもちょっと歌える。
 礼文島へは、稚内から船で2時間ほどかかった。
この島にはレンタサイクルがあり、私たちだけでなく、道中いっしょになった人
たちなど、大勢でサイクリングを楽しんだ。
自然豊かで、とにかくきれいな島だった。
 札幌の時計台はしょぼかった。
クラーク博士も、うーん…。
 北海道からの帰りは、日本海側を経由して青森から大阪へ直通する急行「きた
ぐに」に乗った。
普通車の自由席で19時間ほど揺られ、おまけにお盆の帰省ラッシュに巻き込まれながら、
なんとか京都まで帰り着いた。
お盆を過ぎてから帰ればいいのに、すっかり忘れていたのだ。
 あれから41年経ってもこれだけ覚えているのだから、行ってよかったことに
間違いはないだろう。
若者が安い費用で北海道をゆっくり楽しめたいい時代だった。
 この数年後には東北新幹線が開業し、さらに続いて国鉄が分割・民営化された。
それにともなって在来線の特急や急行が次々に廃止され、道内の鉄道の赤字路線の多くも廃線となってしまった。
 どうせなら、還暦を迎えた今の3人で、あの時代に戻って同じ行程を旅してみたい。
今や10代ではない私たちは、いったい何に興味を持ち、何に深く感動するだろうか。
まあ、まず体力的に無理かな。
--
 さて、鉄子さんのお部屋にお友達の鉄郎さんがやってきました。
なんだかマニアックに盛り上がりそうですよ。
 続きをどうぞ!
タイトル 「ヨンサントオ」から50年
ペンネーム オレンジバーミリオン(40代 男性 全盲)
 皆さんは、「ヨンサントオ」と聞いて何のことかわかるでしょうか?
すぐにわかる人は病気の人です。
それもかなり重症です(笑)。
 それは、日本国有鉄道(国鉄)が昭和43(1968)年10月1日に実施し
た白紙ダイヤ改正を指す言葉です。
このダイヤ改正で日本全国にたくさんの特急や急行が誕生し、
昭和50(1975)年の完全無煙化に向けてSLがいよいよ姿を消していく、
大鉄道ブームの始まりでした。
 今年は「ヨンサントオ」から50年。
SLは昔の乗り物となり、国鉄はJRとなって久しく、新幹線は北海道まで伸びました。
撮り鉄が追いかけていた人気のブルートレインも、今は思い出です。
 昭和50年に生まれた私はSLブームは知らないものの、
鉄道好きの父親と12歳年上の兄の影響を受けて、物心ついたときには手にプラレールを持っていました。
そして小学生になると、カメラを持って兄に大阪駅に連れていってもらい、
鉄ちゃんとしてすくすく成長していきました。
 昭和50年代後半から平成の初めにかけては、国鉄の分割・民営化、JR発足の時期と重なり、
新しくできるものよりは、消えていくものがいろいろありました。
そのころは「さよなら○○」というのがやたらと多くありました。
私が、今でも新しくできる車両や路線よりもなくなりそうなものに魅力を感じるのは、
そのころの影響があるからかもしれません。
 鉄子さんがお友達と北海道を冒険された時期は、
国鉄の合理化が強まる直前のいちばん華やかな時期だったのかもしれませんね。
お話に出てくる列車や、おそらく乗車されたであろう路線が、私にはどれも魅力的に感じられます。
また、北海道のいろいろな旅先を鮮明に覚えていらっしゃるのは、
きっとそれだけとても楽しい冒険だったからなのだろうと想像しました。
 私は23歳で視覚障害と身体障害を持ち、最初はもう鉄道ファンはできないだろうと思っていました。
撮り鉄はさすがにしていませんが、でも、その他は案外なんでも楽しく、今でも鉄道好きは変わりません。
 何年か前、定期運行が終了したあとの臨時の急行「きたぐに」に大阪から新潟まで乗りました。
それは、「ヨンサントオ」のころから全国で活躍してきた583系寝台電車の現役最後の雄姿でした。
このときの先頭車には、今も京都鉄道博物館で会うことができます。
 そして、新潟から会津若松までは「SLばんえつ物語」号に乗車。
SLブームは知らずとも、SLもちゃっかり楽しんでます。
 私の目が見えていたころの車両はどんどん引退し、少しさみしさも感じますが、
新しい車両はとても乗り心地がよく、それはそれで大好きです。
これからも、私の鉄道好きはきっと止まりません。
--
 鉄子さんの部屋に鉄郎さんがやってきましたね。
どうも鉄な話になると、いくらでも続いていくようです。
ただ列車に乗っているだけで、ただ列車の音を聞いているだけで幸せな気持ちになれる。
この思いに、「そうだそうだ」という声があちこちから聞こえてきそうです。
 今の鉄道事情、乗り心地事情、駅サービス事情などについても、
いつか鉄子の部屋でおしゃべりできたらと思います。
-- このメールの内容は以上です。
発行:   京都府視覚障害者協会
発行日:  2018年8月10日
☆どうもありがとうございました。


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