メルマガ色鉛筆第99号「食べる私」
タイトル 「食べる私」
ペンネーム 抹茶ミルクDX(40代 女性 弱視)
レポートの要旨です。
懐かしい思い出のかき氷は、今となっては食べるのがとても難しいものになっ
てしまいました。
そのことを思いながら、料理のあしらい、彩りを味わうということを考えました。
見えなくなった今も、イメージしながら味わいたい。
そして、私の思いはまたかき氷に戻っていきます。
ここから本文です。
デラックスなかき氷、思えばすっかり昔話になりました。
浅めの器に山高にそそり立つ抹茶の氷山。
ほんのりと白いミルクの帽子をかぶっています。
そこに抹茶やほうじ茶のアイスとゼリー、わらび餅、白玉、小倉など、これでも
かと盛りつけられたゴージャスなやつ。
聞いただけで甘そうと感じられるかもしれませんが、抹茶みつも抹茶本来の味が
濃く、
盛りつけられたすべてにきちんとお茶の味がするぜいたくな夏のデザートです。
女子高生だった頃、土曜の午後に母と祇園で待ち合わせして、お目当てのお洋
服を買ってもらって、
帰りにバスに乗る前に二人で食べた、それは懐かしい味です。
「これ食べたら生き返るわ」、それが母の口ぐせでした。
あれから30年、私の視力はずいぶん弱くなりました。
今の私でも食べられるだろうか。
手さぐりで盛りつけの配置を確かめるわけにもいかないので、バランスを見なが
ら、上手にくずしながら食べなきゃならない。
アイスや白玉があちこちにコロンコロンとなるかもしれない。
そう考えると、崩壊のおそろしさでヒヤヒヤ。
だから、ずいぶんご無沙汰しています。
シンプルに小さく盛られたかき氷は地味に食べてますけど。
かつてはいつでも気軽に食べていた「都路里(つじり)」や「永楽屋」のデラ
ックスなかき氷、今はどこのお店も行列で1時間待ち。
やっと座って注文となっても、やっぱりおいしくきれいに食べられない。
そう思うと、デラックスなパフェに寝返りです。
パフェの器は背が高くて、はみ出した部分もなんとかクリアできる程度の高さで
す。
夏の終わり、キャンプから帰ってくる息子のお迎えでママ友と待ち合わせした
日のこと。
行列してまで甘いものを食べる機会なんてほとんどありませんが、
時間がやたらあったので抹茶スイーツ目当てで並ぶことに。
ママ友は眼科のお医者さんで、私の見えにくさもわかってくれているので、
「かき氷食べたいけど難しいよね」っていう私のつぶやきをやさしく聞いてくれ
ていました。
「器は浅いし、写真で見ているだけでも食べるの難しそうよ」と、彼女はちゃん
と教えてくれました。
「これ、見えてても難しい。絶対こぼれる」という彼女の言葉が、ほんのりと私
をなぐさめてくれました。
「でも、・・・前はきれいに食べられたもん」、そんな子どもじみたつぶやき
を押し込めて、
「デラックスなパフェは食べたことないから、きょうはこのパフェにしようっと」
と気持ちのハンドルを切り替えました。
その結果、やっぱり不完全燃焼に。
「ほんまはかき氷やねん」、この気持ちは消えません。
夏が来るたびフツフツ思う、甘くない話です。
それとは別に、「これ大丈夫」っていうのがデザートプレートです。
単品でなく、ケーキとかジェラートとかパンナコッタとか、盛り合わせになった
デザートです。
たいていケーキやムースやタルトなど、重めのスイーツにアイスやシャーベット
が盛られて、ソースが描かれています。
このタイプのプレートには必ずフォークとスプーンが添えられます。
プレートは平らで食べにくいものです。
ケーキはフォークで食べるのですが、最後はどうしても取りにくくなります。
フォークで寄せてきて、スプーンに乗せてきれいにすくいます。
二刀流、たいていこれでお皿の上はきれいに回収です。
デザートもお料理も、盛りつけは大切な味の一つ。
きちんと説明を聞いて、心に描いて、見えなくても楽しみたいという気持ちは持
っていたいものです。
「どんな色なの?」とか、「へえ、だったらオレンジとクリーム色できれいね」
とか、
自分のイメージと実物が近いかどうか、私はご一緒する人との会話ですり合わせ
をします。
そんなコメントをすると、「見えるの?」と聞かれます。
「まったく見えてないよ。私の前には真っ白なお皿しかないよ」と、さらっと返
します。
そこで絶句しちゃう人もいるし、
「すごいね。聞いただけでイメージできるの?」と言う人もいます。
「みかんのオレンジ色じゃなくて、もっと赤いオレンジ色だよ」とか、ちゃんと
本当のことを教えてくれる人もいます。
また、お店の人がいちいち言わないミントの飾りとか、さっとふられた金色のパ
ウダーシュガーとか、
そんなのもちゃんと教えてくれる人もいます。
見えなくても口に入れたらわかるだろうみたいな対応は、やっぱり悲しいです
ね。
そして、よけいな飾りは最初から抜いてしまおうというのは、本当の配慮ではな
いと私は思います。
例えば八寸に添えられた穂紫蘇(ほじそ)、
食べるときにはお皿の端によけたとしても、それが手にふれることで思い出せる
風情もあります。
料理にはあしらいというものがありますね。
そこにはちゃんと意味があります。
季節や温度感、行事などの風情を盛り込む中に物語があります。
作り手の思いを食べたい、それは見えていた頃も今も同じです。
配慮として省略されてしまったら、その思いを食することはできません。
見える私、見えにくい私、見えない私、全部私です。
食べる私はずっとつながっている、だから誰とでもちゃんと分かち合って時を過
ごしたい、ただそれだけです。
「食べる私」、このテーマは私にとって実はため息の出る話です。
なぜなら、あのデラックスなかき氷を母と一緒に食べることはもう不可能だから。
母は重い心臓病と不自由な足を抱え、車いすになり、私と二人きりで出かける
ことは無理になりました。
どこかに行けたとしても、必ず誰かのサポートを必要としています。
もうあの頃の母には戻れない。
母をどこかへ連れていってあげたくても、今の私にはもう車いすを押すことがで
きない。
そして、あのデラックスな分量を母には食べることができません。
テレビ番組で夏の冷たいスイーツが出てくるたび、
母がどんな気持ちでそれを見ているのか、そう思うと胸が痛みます。
「あの頃はどこにでも行けた」、「自由で希望があって楽しかった」、
そんな母の言葉は愚痴ではなく、ましてや切ない懐古でもありません。
確かにそこにいた、母と娘の時間をただただ愛おしく見つめる言葉です。
「お母さん、タクシーに乗って思い切って行ってみよう。
二人でシェアすれば大丈夫。
器をもう一つもらって分けて食べよう。
せめてもう一度だけでも」。
私はのど元まで出る言葉を飲み込み、階段しかなかった店を思い出し、一人うつ
むいて思案します。
新しくできた姉妹店ならエレベーターで行けるかもしれない、二人きりで。
そんなたくらみを実行するには、ちゃんと事前リサーチが必要です。
今年の夏はなんとかこのたくらみをかなえたい、玄関から葉桜を見上げる、そん
な5月です。
平成29年 五月雨の中で
編集後記
思い出となって心の中にずっとある甘味処のかき氷。
思い出すとお母さまの声がするかき氷。
スプーンを器用に使い、形をきれいに保ちながら食べていきます。
いろんな味が楽しめます。
そのゴージャスなかき氷は、「抹茶ミルクDX」という名前なのでしょうか。
それをペンネームにした抹茶ミルクDXさんとお母さまに、もう一度ぜひ食べて
もらいたいと思います。
ですが、現実には越えるのが難しいハードル、バリアがあるでしょう。
私たちがぶつかるハードルやバリアが色鉛筆のレポートになり、今回はこんな色
あいになりました。
ここに何を見い出していけるでしょうね。
-- このメールの内容は以上です。
発行: 京都府視覚障害者協会
発行日: 2017年8月10日
☆どうもありがとうございました。