メルマガ色鉛筆第77号「弱視あるあるを共有する」シリーズ第4弾「見えにくさゆえの葛藤はあるけれど・・・」
「弱視あるあるを共有する」シリーズ第4弾
タイトル 「見えにくさゆえの葛藤はあるけれど・・・」
メルマガ色鉛筆編集チーム
「弱視あるあるを共有する」シリーズ第4弾は、40代の男女お2人の登場です。
男性は中途、女性は先天の弱視の方です。
見えにくい自分とその気持ちとの折り合いについて、これまでを振り返りながらのトークです。
★語り手さん
ペンネーム 青(40代 男性 弱視)
現在、私の視力は両眼0.4くらい(矯正視力)、視野は2~3度くらいです。
見えにくさを感じたのは27歳、今も徐々に見えにくくなっています。
パソコンの画面は白黒反転で、フォントサイズは16ポイントくらいが見やすいです。
文字を読むときや移動するときに見えにくさを感じています。
見えにくいゆえの独り言ハプニングはありますね。
人がいないのに話し続けたり、
人にぶつかったと思い込んでものに謝ったりしています。
例えば、電柱に律儀に謝罪なんてこともしばしば、思わず笑ってしまいます。
そんなとき、「まあまあ見えること」ならではのしんどさを感じます。
先天の眼科疾病で、重度弱視もしくは全盲で、
視覚以外の感覚をフル活用して元気に生活している方もたくさんおられますよね。
校舎の中や部屋の中を白杖なしで普通に歩いておられるのを見るとすごいと思います。
聴覚や触覚がとても優れているのかなと感じます。
見えにくくなり始めたころは、視力検査で、
前の人の検査を見て視力検査表の配置を覚えていたりしたことがあります。
つい、見えないのに見えるふりをしてしまいました。
目が悪いことを隠したかったんですよね。
私は、サポートをしてもらったりあきらめたりを使い分けています。
サポートをお願いするのは、時間に余裕があるときやどうしても必要なときです。
1人で外出するときは、知っているところを歩きます。
慣れている道でも、たまにどこを歩いているかわからなくなります。
そんなときは、通りがかりの人に助けを求めます。
買い物に行ったときに欲しいものが衝動的に頭に浮かんでも、それがどこにあるのかわかりません。
そんなときは店員さんを探しますが、見つからないときにはあきらめます。
目に入ったものは見えているのに、視野が狭いため、ものにぶつかったりすると悲しくなりますね。
また、ぶつかるのがこわくて、走りたいのに走れないでいます。
そんなとき、見えにくい自分として生きる中での葛藤を感じます。
僕の見えにくさはゆっくりと進んでいます。
極端な見え方の変化はありませんが、
以前見えていたものが見えなくなっていることを実感したときは悲しくなります。
これから目がどれくらい悪くなるかわかりませんが、
あまり悩まずに明るく生きていきたいと思います。
★聴き手さん
ペンネーム 桃色(40代 女性 弱視)
私は先天性緑内障で、左はかろうじて光が感じられます。
右は0.08から0.1ぐらいです。
パソコンは音声で操作し、文字はゴシック体で16ポイントぐらいが見やすいです。
読書は眼鏡をかけます。
見えにくさゆえのハプニング、これまでにも弱視の方からたくさんお聞きしています。
私は遠くのものが見えないので、挨拶されてもわからずに素通りしたり、
「あの看板の右を」と言われて見えているふりをしたりしているときもあります。
私は盲学校出身なので、周りに全盲の方や重度弱視の方がおられました。
全盲の方は視覚以外の感覚でいろんなことを表現されますね。
触覚や味覚の表現で「なるほど」と思うことがありますよ。
見えているふりをして話を聞く、買い物をする、道を歩く、ものを見るなど、
弱視の皆さんと同じようなことはありますよ。
とはいうものの、当事者団体の役員をするようになってから、サポートを受けることが難なくできるようになりました。
視覚障害者としてわからないことを尋ねるのは恥ずかしいことではないと思えるようになったんです。
100%とはいきませんが、とても気持ちが楽になりました。
普通校だった小学校時代、盲学校の中等部時代、いずれも見えにくさゆえに悔しい思いをしたことはありました。
ゆっくりやれば自分にもできることがあるのに、ポツンと自分だけしない場面がありました。
何人かで流れ作業をしたり配りものをするときには、
「しなくていいよ」という態度をとられたり、あるいはストレートにそう言われたりしました。
みんなと同じ速さでできなくても、取り組む必要はあったんじゃないかな?
どうしてだったのかな?、今でも思います。
私も青さんと同じで、これ以上視力が悪くならないように願う毎日です。
生活している中で、今ある視力を使わずにというのは難しいことですし、
そんなことをする必要もないと思います。
弱視の人たちならではの悩みや苦しみ、悔しさを感じることはお互いに今後もあると思います。
でも、それらを一つずつ乗り越え、仲間で共有し、ときには発散し、明日への力にしていけたらいいなあと思います。
どうぞ、今ある視力を大切になさってくださいね。
そして、私たちの思いを多くの方に伝え、誰もが自分らしく生きていける社会の実現を目指しましょう。
編集後記
悲しい思いは、誰もしたくありません。
ですが、不自由すること、弱い立場に立つことがしばしばで、
避けることができないこの身は悲しむことを宿命づけられているとも言えます。
誰もしたくない悲しい思いを、してみてわかる。
これが人の痛みを知ることだと。
悲しい思いになったとき、そのときにはまた一つ、人の痛みを知る経験をしたとも思ってほしいです。
語り手の青さんと聴き手の桃色さん、これからも「あるある」をもっと語り合ってください。
-- このメールの内容は以上です。
発行: 京都府視覚障害者協会
発行日: 2016年9月16日
☆どうもありがとうございました。