メルマガ色鉛筆第65号「僕と音楽」

タイトル 「僕と音楽」その1
ペンネーム トンボのメガネは水色メガネ♪(60代 男性 全盲)
 レポートの要旨です。
 僕が音楽に興味を持ち始めたのは中学2年の頃。
休み時間になると、オルガンを弾いたり友達の書いた詩に曲をつけたりして遊んでいた。
 視力はわずか0.1~0.2の弱視ゆえ、進学には悩んだ。
僕は、先生から「目が悪いのなら好きな音楽の道に進んではどうか」というアドバイスを受け、
本格的にピアノと声楽を学び始めた。
そして、昭和43年にピアノ調律師として京都の楽器店に就職した。
 視力がどんどん落ちてくると調律に伺うお宅を探すのが困難になり、
悩みに悩みぬいて三療の道に進んだ。
 僕は視力を失いつつある中、楽団での編曲や指揮、合唱サークルの活動を続けた。
視覚障害者5名、健常者のピアニスト、このメンバーで活動をするようになり早12年。
 平成24年から毎年、「マッサージとコーラス」を手土産に福島へ慰問に行っている。
僕たちは福島の皆様に元気になっていただこうと京都から出かけているのに、
逆に僕たちが勇気と元気をいただいて帰ってくる。
 そんな僕の人生、僕にとっての音楽について振り返ってみた。
 ここから本文です。
 僕が音楽に興味を持ち始めたのはあのすさまじい伊勢湾台風の翌年、
中学2年の頃であった。
昭和35年の1月、疎開先から帰ると、ヘドロだらけだった教室もきれいに掃除されていた。
4月頃から少しずつ足踏みオルガンや鉄琴(てっきん)などの楽器がそろっていった。
休み時間になると、
クラスメイトとオルガンを弾いたり友達の書いた詩に曲をつけたりして遊んでいた。
これが僕が音楽に目覚めた頃の記憶である。
 視力わずか0.1~0.2の弱視ながら県立高校に入学。
進学を目指して勉強していたが、低視力であったために将来どうすればいいのかと非常に悩んだ。
そんな中、担任の先生から「目が悪いのなら好きな音楽の道に進んではどうか」というアドバイスを受けた。
先生は大反対の親父を説得してくれた。
それから僕は本格的にピアノと声楽を学び始めた。
合唱クラブにも所属した。
 しかしながら、高1の秋からピアノを練習したぐらいでは一流の音楽大学は無理だ。
当時の某学芸大学に入れるぐらいの実力はつけたが、
その大学の校医さんに相談しに行ったところ、「入学はできても、その視力では就職はないですよ」と言われた。
 高校の卒業が近づく中、名古屋大学付属病院のカウンセラーから、
「大阪の盲学校にピアノ調律を教えてくれる学科があると聞いています。そちらへ行かれたらどうですか」と教えられた。
盲学校の3年間では、水を得た魚のようにピアノ調律はもとより、
ピアノ・声楽・楽典・和声学・アナリーゼなどの音楽の基礎知識を学んだ。
そして、昭和43年にピアノ調律師として京都の楽器店に就職した。
 その後まもなく、楽器店に出入りする大学生から「高校生・大学生10数名でつくる楽団がある。入らないか」と誘われた。
当初、その楽団で編曲者・指揮者として活動した。
視力が落ちて楽譜が書けなくなっても高校生に編曲の仕方などを教え、
その楽団で10数年指揮者として活動を続けた。
 視力がどんどん落ちてくると、調律に伺うお宅を探すのが困難になった。
溝に落ちたり、池にはまったりもした。
このまま仕事を続けるのは無理、浜松のピアノ工場に行き調律を続けるか、
盲学校に行き鍼灸マッサージの免許を取り新たな仕事をするか、
僕は悩みに悩んだ。
そんな時、そっと肩を押してくれたのは楽団の仲間たちと親父だった。
 その頃の楽団では、アマチュアながら年に10数回の出演依頼を受けていた。
楽団の仲間からは「一緒に活動を続けてほしい」と言われた。
また、親父からは「新しい場所で仕事をするのは大変や。
京都に友達も多いようなので、資金援助をしてあげるから、鍼灸マッサージの資格を取って仕事を変えたほうがいい」と言われた。
 僕は6年間勤めた楽器店を辞めて盲学校に入学した。
 楽器店退職後も嘱託として仕事を回してもらい、
送り迎えをしていただきながらピアノ調律の仕事を10年ほど続けた。
楽団の演奏活動は、
団員が就職したり結婚したり住まいを変えたりして、昭和57年には消滅状態となった。
僕が結婚したのはその頃だった。
 視力がほとんどなくなったこともあり、勤めていた病院をやめ、自宅を設けて鍼灸院を開設した。
鍼灸院を開設して、勉強しなければならないのに普通字が読めない。
テープを借りて勉強するが、メモをしてもそれが読めなかった。
 京都ライトハウスの訓練施設・鳥居寮に通い点字の勉強に励んだ。
訓練を受けるまでは白い杖を振り回しての我流の歩行であった。
白い杖の正しい使い方も鳥居寮で教えていただいた。
 昭和60年、当時の盲人協会に入会した。
協会には軽音楽バンド・民謡・合唱の3つの音楽系サークルがあった。
そのどれかのサークルに参加して活動したいと考えたが、
開業したばかりで心の余裕もなくあきらめていた。
しかし、昭和63年の春に合唱サークルに入れていただくこととなり、活動を始めた。
 合唱サークルに入って最初に驚いたことは、
メンバー全員がのびのびと明るく振る舞い、難しい曲にも平気で挑戦している姿だった。
20数名の会員、そのうち健常者が2~3割。
なんでこんなに明るいんだろう、
なんでこんなに難しい曲を平気で歌えるんだろうと感じた。
 そして、このサークルは勤労者音楽祭、歌声祭典などのコンクールに参加したり、
老人ホームへの慰問、歌声喫茶の開催など、多彩な活動を続けていた。
 その合唱サークルだが、30名ほどいた会員が平成10年頃から徐々に少なくなり、
15年頃には15名ほどに減ってしまった。
そして、16年には指揮者が急にやめることとなり、それにともなって会員が現在の6名に激減した。
 このようにして少人数の合唱サークルとなったが、今までどおりの活動を続けようと、
勤労者音楽祭、歌声祭典に積極的に参加してきた。
 僕たちの演奏が終わると、他のサークルよりも格段に大きな拍手が起こる。
視覚障害者である僕たちが手をつないで舞台に登場し、
演奏が終わるとまた手をつないで舞台から降りる様子が観客に何か感動を与えていると感じた。
「目が不自由なのに生き生きと頑張ってるな!頑張れよ」という励ましの拍手、
「皆がそれだけ頑張ってるのだから僕たちも頑張ろう」という、
そんな拍手が怒涛のように会場内に響きわたる。
こんな拍手はどのサークルの演奏後にもない。
僕たちの演奏が観客の皆様に勇気と感動を与えていると実感する瞬間である。
 視覚障害者5名、健常者のピアニスト、このメンバーで活動をするようになり早12年。
勤労者音楽祭で知事賞(優勝)を受賞したり、
長年の活動に対して厚生労働大臣表彰を受けたりした。
これらのことを励みとして頑張って活動を続けている。
 長年にわたって僕たちの活動を温かい目で見守っていただいていた人たちから、
「福島に慰問に行きませんか」と声をかけていただいた。
車・宿泊先・慰問先の全てを手配してあげるとのことだった。
 サークルのメンバーは全員マッサージの免許を持っている。
平成24年から毎年、「マッサージとコーラス」を手土産に福島へ慰問に行っている。
福島の皆様は数年前からの知り合いのように親しく話をしてくださり、
僕たちは皆様から励まされたりする。
福島の皆様に元気になっていただこうと京都から出かけているのに、
逆に僕たちが勇気と元気をいただいて帰ってくる次第だ。
 福島の皆様、ありがとうございます。
 僕たちの合唱はお世辞にも素晴らしいとはいえない。
しかし、こんな僕たちの姿を見ていただくことにより、観客の皆様に少しでも勇気と元気を与えられればと思う。
 ともに手をつなぐ仲間と歌は僕の人生を豊かにしてくれる。
僕はこれからも音楽とともに歩き続けたい。
♪春を 愛する 人は 心 清き 人
すみれの 花のような 僕の 友達♪
編集後記
 どんな時も音楽は自分とともにあった。
悩んだり迷ったり、苦しい決断をする時も音楽から離れなかった水色メガネさん。
歌う姿勢は生き方そのもの、
しっかりと足で体を安定させ体の奥底から声を出す、
そしてそれが生み出すのはハーモニー。
友と手をつなぎ生み出す音色はそこにいる人の心に溶け込み、
障害の有無を越えた調和へと広がる。
そこには、「励ましたい」から「励まされている」へと響く世界がある。
 歌は水色メガネさんの魂と一体化しているようだ。
その姿に♪岩を砕く波のような♪生きる強さを感じる。
-- このメールの内容は以上です。
発行:   京都府視覚障害者協会
発行日:  2016年4月8日
☆どうもありがとうございました。


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