メルマガ色鉛筆第64号「介護が身近になった その2」
タイトル 「介護が身近になった」その2
ペンネーム ホワイトキャンパス(30代 女性 全盲)
レポートの要旨です。
父の介護を通して私の生活スタイルは移り変わりました。
娘としてやってあげたいことと見えないことでの制限のはざまで揺れ続けている介護奮闘記の話その2です。
ここから本文です。
父は、施設での半年間の生活を終えて実家で一人暮らしを始めました。
同じマンションで別々の階に住む生活がスタートしました。
75歳の父は介護保険を利用しています。
1日1回、ヘルパーが自宅に食事づくりや掃除をしに来てくれます。
施設での暮らしとは違い、ボタンを押しても誰かが来てくれる環境ではありません。
1日の大部分を1人で暮らすことになりました。
父は壁を伝ってお手洗いや食卓には行けますが、
足腰がかなり弱っているので転倒しないかとハラハラします。
しかし、父はつかめるものをうまく見つけて歩いています。
体の動きが悪くなっていっても「かっこいい父」でいたいと思っているのかもしれません。
父が施設を出て自宅で暮らしたいと言い出した時、私は迷いました。
共働きの私たち夫婦は、父に何かがあってもすぐには駆けつけられません。
それに、1日に1度しかヘルパーが来られないのに、どんな生活になるのか不安でした。
最終的には「父には父の人生がある。私たちなりにできることをしよう」と考え、
父と離れて暮らすことにしました。
高齢の親と離れて生活をしている人なら、
多かれ少なかれ、このような気持ちになったことがあるのではないでしょうか。
親子それぞれの生活が始まり、私は朝起きると、
自分たちの朝食を準備しながら父の朝食をお弁当箱に詰めます。
出勤前に父の家に寄り、ベッドサイドに朝食を置いてから出かけます。
父の昼食は配食サービスのお弁当、夕食はヘルパーに用意してもらいます。
私は帰宅途中に父の分まで買い物をし、洗いものなどを片付けます。
こんな生活を約1年間続けてきましたが、今年5月に父が倒れました。
その場に居合わせた私でしたが、父の顔色も状態もわかりません。
どうにか救急車を呼び、父を病院に運んでもらいました。
父が診察を受けている間、ただもう不安でした。
父は大丈夫なのか。
初めて訪れる病院だったため、どこに診察室があるかわからない心細さも感じました。
物音や話し声で周りの人の動きを探りながら、
どこに何があるか知ろうとする間も不安は増していきました。
ようやく名前を呼ばれました。
白杖で足元を探りながら声がしたほうへ歩き出すと、看護師さんが診察室に連れていってくれました。
「お父さんのレントゲン写真。娘さん、見えないんだよね。どうしよう・・・」、
医師の困ったような声。
見えない・見えにくい人と接したことがなかったのでしょう。
私は「言葉で説明してください」と言いました。
言葉での説明を交わすうちに、医師の戸惑いが薄れていったように思います。
そして、父はしばらく入院することになり、私が付き添うことになりました。
全盲の私にとって病院内を1人で歩くことはとても難しく、気を遣います。
せめてお手洗いや団らん室の場所だけでも覚えようとしましたが、
他の患者さんにぶつかるのではないかと思うと足が進まず、
1人で動けないもどかしさを感じました。
とはいえ、悩んでばかりはいられません。
看護師さんに頼んでお手洗いや院内の売店に連れていってもらったり、
タクシー乗り場まで案内してもらったりしました。
ただ、そうするまでには何度もためらいました。
ただでさえ忙しい病棟ですから、患者へのケア以外のことをお願いしてもいいのかと悩みました。
看護師さんから「遠慮せずに言ってください」と言われ、ずいぶん気持ちが楽になりました。
父は、一人暮らしを続けることは難しいと医師から諭され、私たち夫婦と同居を始めました。
同居者がいる場合、食事づくりや掃除などの家事に介護保険制度は使えません。
つまり、父の介護の大部分を私たち夫婦がすることになりました。
壁につかまり棒を取り付けて父が歩きやすいようにしたり、
家具も父の動線を第一に考えて配置しなおしました。
同居生活も数か月が経ち、
現在、父は週数回のデイサービスと訪問リハビリなどを利用しています。
父の介護を通して、
今の社会では障害者が親を介護する場面が来ることがそれほど意識されていないのではないかと感じました。
臨時の通院や散歩、介護内容においても、
同居者がいる場合は「家族で対応してください」と言われます。
私が父の車椅子を押すわけにもいかず、どうしようもないことへのいらだちを感じます。
「もし見えていたらいくらでもやっています」と言いたい気持ちになることもありました。
この2年間は生活スタイルが次から次へと変わっていきました。
その時々の悩みに頭を抱え、時には見えない自分にしんどくなる場面もありました。
でも、そこに留まらずにその場でできることに目を向けられたのは、
母の死、父の施設・一人暮らし、結婚という周囲の状況の変化と向き合わないわけにはいかなかったからです。
この間、仕事、家事、介護と、女性ならではの楽しさとしんどさを感じてきました。
意気込んで頑張っていた頃もありましたが、頑張るほど顔がゆがんでいました。
家庭の中にも嫌な空気が流れていたと思います。
特に女性はライフスタイルの変化を直接受けやすいので、
私が私らしく生活できるスタイルを、背伸びをしすぎずにこれからも探し続けていきたいと思います。
編集後記
見えない・見えにくい私たちが親を介護することになった時、
「見えてさえいればいくらでもやっています」と言いたくなる場面が出てきます。
特に同居の場合には、視覚的判断の不足から十分な介護ができない現状があります。
つまり、家族だからこそその限界を親に寄り添いながら感じ続けることになるのです。
「父には父の人生がある。私たちなりにできることをしよう」と、
新たなライフスタイルをスタートさせたキャンパスさん。
仕事、家事、在宅介護のどれもおろそかにすることはできません。
そこには家族をつなぐ扇の要ならではのしんどさがあります。
さらに、不測の事態への対応には見えないゆえの難しさも出てきます。
女性ならではの奮闘の日々、なんとか乗り切るしかない、でも自分らしくありたい、
もがきながらも光を求める明日に春のやわらかな陽がふりそそぎますように
-- このメールの内容は以上です。
発行: 京都府視覚障害者協会
発行日: 2016年3月18日
☆どうもありがとうございました。