メルマガ色鉛筆第52号「夢のプレイボール」

タイトル 夢のプレイボール
ペンネーム 赤いバットマン(50代 男性 全盲)
 レポートの要旨です。
 今ではラジオを片手に毎年甲子園に行き、阪神タイガースを応援している僕。
今年も3回甲子園に足を運んで、愛しの虎を応援してきました。
 そんな僕が小学生の時に初めて観たプロ野球、それは今はなき阪急ブレーブス!
近くて遠かった球場・・・。
今、親として母の気持ちが分かるような・・・。
ありがとう、おふくろ!
 ここから本文です。
 今年の野球も、夏の高校野球、U18の高校ジャパンのワールドカップが終わり、
残すはプロ野球のクライマックスシリーズと日本シリーズとなりました。
それでシーズンオフとなることを考えれば少し寂しい気もしますが、
1年間の総決算ともいえるこの季節を心ゆくまで楽しみたいと思います。
愛しの虎はどうなるのか?と考えると思わず笑顔になります。
 しかし、プロ野球のことを考える時、必ず思い出す光景があります。
失明して10年以上経ちますが、あの40年近く前の光景が今でも僕の頭の中で鮮やかに蘇ります。
 僕は、金銭的には貧しい家庭で育ちました。
父親がいわゆる「飲む、打つ、買う」の三拍子揃った人でしたので、家には常にお金がないという状態でした。
母が毎日汗だくで働いて家庭を支えてくれていました。
 母は、僕が小学1年生になると同時に家の前の工場に働きに出ました。
だから、僕は小学1年生から鍵っ子でした。
学校から帰っても「勉強しなさい」という世間のお母さんの言葉はなく、
真っ暗で静かな家が迎えてくれます。
そんな誰もいない静かな家が嫌だったこともありますが、
毎日僕は玄関にランドセルを置いたまま外に遊びに出かけていました。
 当時の遊びといえば草野球でした。
日が沈むまで、近くのグランドでドロドロになってボールを追いかけていました。
友達が塾の時には、ブロック塀が僕のキャッチボールの相手でした。
 僕は来る日も来る日も野球ばかりしていたので、そこそこ上達していきました。
右打ちだけでなく、独力で左打ちの練習もして、
そのうち左右どちらでも普通に打てるスイッチヒッターになっていました。
学校のクラス対抗野球の試合でもいつもメンバーに入り、
打順は常に1番から5番までの上位にいました。
守備もどこでも守れるユーティリティープレイヤーでした。
 その当時はあちこちに少年野球チームがありました。
もちろん、僕が住んでいた地区にも有名な少年野球チームがありました。
クラス対抗のチームのメンバーもその少年野球チームに所属していました。
そんな中、僕は唯一少年野球チームに所属していない選手でした。
 他の選手以上に活躍していた僕は、有名少年野球チームの監督さんの目にとまり、声をかけられました。
「君、野球うまいなあ~。よく学校でやっている試合を見させてもらっているよ。
僕は○○チームの監督をしているんだけど、君、よければうちのチームに入らないか?」。
僕には夢のような一言でした。
 その場で「はい、入ります」と喉まで言葉が出かかっていましたが、
その瞬間、少年野球チームに入っている友達の言葉が頭に浮かびました。
「お金かかるみたいや。毎月の月謝、ユニフォームにスパイク、いつも母ちゃんがブツブツ言っているわ」。
また、毎週の練習や試合には父親も見学しに来ないといけないらしい・・・。
そして、いつも母から聞いている「お金ないから頑張らないとね」という言葉。
毎日汗だくで朝から晩まで働いている母の姿。
加えて父といえば、毎週日曜日には朝から競馬場か麻雀・・・。
そんな家庭環境でどうして少年野球チームに入れるか?
苦しい現実が頭をよぎり、僕の顔はこわばっていたことでしょう。
 監督さんが「どうした?一緒にやりたくないのか?」と僕の顔を覗き込み、
「君ならレギュラーも狙えるぞ」とまで言ってくれました。
しかし、入りたい、一緒にやりたいという気持ちを僕はぐっと押さえました。
「お金がないから、お父ちゃんがいつもいないから僕には無理なんだ」と心でつぶやきながら、
「僕はいいです」とだけ言ってその場を離れました。
 貧乏が憎かった、いつも遊んでばかりいる父が憎かった。
そして、あれだけ子供のために汗だくで頑張ってくれている母に対してまでも、
貧乏くさい・・・と嫌な気持ちになっていました。
 その頃、学校のクラスの男子の間では「阪急こども会」なるものが流行っていました。
それはプロ野球、阪急ブレーブスのこども会員の名前です。
クラスの中では、
「昨日、お父さんと西宮球場に行ってきた」とか、
「福本選手のサインボールを買ってもらった」とか、
毎日のようにブレーブスの話で賑わっていました。
当然のことながら、僕は年会費のいる阪急こども会には入っておらず、
写真入りの選手名鑑も友達から見せてもらっていました。
 阪急ブレーブスの本拠地は兵庫の西宮球場であり、
僕が住んでいる所からは西宮はとても遠く、
絶対に行けるはずもない場所でした。
しかし、ブレーブスは準フランチャイズとして京都の西京極球場を使用しており、
年に10試合以上はその西京極球場で試合をしていました。
いつも草野球をしているグランドの近くに西京極球場はありましたが、
そんな近い球場でもプロ野球を観に行くとなれば僕にとっては遠い場所でした。
 クラス対抗の野球の試合に出ている連中は、全員西宮球場にブレーブスの試合を観に行っていました。
また、普段それほど野球に熱心でない男子が「昨日、お父さんと西京極にブレーブスを観に行ってきた」とか話すと、
別の男子が「へえ~、西京極か。やっぱり西宮球場に行かんとアカンで」と言いました。
そんな友達の会話を僕は笑顔で聞いていましたが、
心の中では「西京極でもええやないか。ブレーブスの試合を観られただけで十分やないか」と叫んでいました。
 友達が僕に対して「○○ちゃんはどっちに行ったことあるの?」と聞いてきました。
その言葉に迷いながら、
「うん、実は去年に西宮球場に行く予定やったんやけど、雨で中止になってしもて。
今年は西京極に観に行くってなっていたけど、それもまた雨やったんやねん」と、
僕はない話ばかりを並べていました。
「へえ~、雨ばっかりって可哀想やなあ~。今度は晴れたらいいのにな」と、
友達は何の疑いも持たずに僕の話を聞いていました。
「そやなあ~」と笑顔で答えながら、
「僕には次はないんや、雨で中止も全部嘘なんや、お金がないから行けないねん、貧乏やし行けないねん」と心の中では泣きながら、
嘘をついている自分の心をグチャグチャに切り裂いていました。
「嘘をつく自分が嫌いや、貧乏が嫌いや、何で堂々と本当のことが言えないんや・・・。
野球なんてなくなってしまえ、ブレーブスなんてどっか行ってしまえ」とまで思っていました。
 ある保護者懇談会の後のこと、
数名の母親が集まって子供達のことについて談笑していたそうです。
その中でも母の頭に残ったのは、クラスの男子の間では阪急ブレーブスが人気で、
ほとんどの男子が本当の試合を観に行ったことがあるということでした。
それを耳にした時の母の心境はどうだったんだろう・・・。
 その夜、母が父に話しているのを僕は寝たフリをして聞いていました。
「○○のクラスでは、皆、阪急の試合を観に行っているらしいのよ。
○○だけが行っていないって可哀想だし、お父さん連れていってやってよ」。
その母の言葉に、
父は「そんなもん、お金がもったいないやろう。テレビで観ていたらええんや」と言って、
話は終わってしまいました。
「少し期待した僕がアホやったんや」と、出てくる涙を枕で拭きながら寝ました。
 それから数日後、仕事から帰ってきた母が言いました。
「○○!明日の夜、西京極球場に野球を観に行こうか?」。
僕は、一瞬母が何を言っているのか分かりませんでした。
「お母ちゃん、野球って?」、そう尋ねる僕に、
母は満面の笑顔で「そんなん決まっているやん、ブレーブスの試合や」。
僕には信じられませんでした。
「やったあ~」ではなく、
「でも、お母ちゃん、お金が・・・。それに工場の仕事が・・・」と、
子供らしくない言葉が僕の口からボソボソとこぼれました。
母は笑って、
「そんなん心配せんでもかまへん、工場は明日は午後から休みをもろたから。
学校の皆、観に行っているんやって、あんた何でそれを言わんかったんや。
全くいらん気をつこてアホやなあ~」、
そう笑顔で話す母の目にはうっすら涙が溜まっていました。
 いよいよ本物のブレーブスの試合を観に行く日が来ました。
僕は朝からそわそわして学校の授業もほとんど頭には入らず、
「嘘ついたから、ホンマに雨が降らへんかなあ~」と空を見て心配ばかりしていました。
 放課後、一目散に家に帰ると、母が準備して待っていました。
「お母ちゃんは西京極球場って行ったことないから、少し早く行こうか」、
そう言って僕と母はおのぼりさん状態で球場に向かいました。
 母は本当に野球の「や」の字も知らない人で、
球場に着いたものの、一塁側、三塁側も分からない人でした。
「せっかく来たんやからええとこ入ろう」と、
料金だけ見て高いバックネット裏の中段あたりの席を買ってくれました。
 僕はすでに心臓がバクバクしていて、母が何を言っても興奮状態だったそうです。
野球を全く知らない母に「お母ちゃん、見て見て。あれ福本や、加藤もいる、マルカーノや」と、
周りを忘れてはしゃいでいました。
 場内アナウンスが始まり、
「1番・センター・福本、2番・レフト・大熊、3番・ファースト・加藤、4番・指名打者・長池、5番・セカンド・マルカーノ・・・ピッチャーは山田」。
最高のスタメンに僕は天にも昇る気持ちになり、
試合中も一つ一つのプレイに拍手しました。
 喜んでいる僕を見ていた母は、
少し誇らしげな、少し申し訳なさそうな表情でした。
そして、最後には幸せそうな息子の姿を見て涙していました。
母にとってのナイターの照明が照らすカクテル光線は、
喜ぶ息子の姿だけをとらえていたに違いありません。
 今では僕は関西人の一人として、当然のように黄色いメガホンを片手にタイガースを応援しています。
息子を不憫に思って、お金のない中、必死の思いで僕を西京極球場に連れていってくれた母、
今はおばあちゃんになりました。
相変わらず野球のことは分かっていません。
引退した元阪神の矢野や桧山をテレビで見ては、
「やっぱり阪神の矢野は男前やなあ~、桧山もイケメンやなあ~」と、違った意味で野球を楽しんでおります。
 今では、虎を応援に甲子園に行くことを遠いと感じることはありません。
けれど、僕にとってのプロ野球の原点は阪急ブレーブス!
40年を経た今も、隣に母がいた西京極での記憶はいつも心の引き出しにあります。
憧れのブレーブスの赤い文字のように、
これからも熱きパッションは色あせることはないでしょう。
編集後記
 大切なあの日を思い、記憶が鮮やかに浮かび上がる、
瞳を閉じても見える世界、
それは障害の有無を越えて共感できる体験です。
バットマンさんの忘れ得ぬ記憶の数々、
幸せすぎて試合に夢中だったはずなのに、
色濃く思い出されるのは母の姿。
カクテル光線の中の母子の姿に、
球場の波立つ興奮に似た思いを感じます。
-- このメールの内容は以上です。
発行:   京都府視覚障害者協会
発行日:  2015年10月2日
☆どうもありがとうございました。


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