メルマガ色鉛筆第48号(父との再会と別れ)
(父との再会と別れ)
ペンネーム 星色の滴(30代 女性 弱視)
レポートの要旨です。
大好きな生まれ故郷を離れ、早20年ほどが経ちました。
私は、新たな家族と穏やかな生活を送っています。
晴ればれしい我が子の卒業式に、突然父は亡くなりました。
喜びと悲しみが同時に押し寄せてきました。
私自身の気持ちの整理もかねて、今回は父親との関係についてお話させていただきたいと思います。
よろしければ、最後までお付き合いください。
ここから本文です。
ここは私が生まれ育った愛する地、海を越えて空港に降り立った。
3週間ほど前に家族で楽しい帰省をしたところだった。
今日は、私と同じ弱視の主人と2人で市内へ向かうバスを待っていた。
白杖を持っていた私たちにいろんな方々が声をかけてくれた。
一番驚いたのは、女性の外国人観光客だった。
彼女は流暢な日本語で、私たちに向かって「何番のバスに乗りますか?」と尋ねてくれた。
「113番です。」と答えると、すぐ横にある時刻表をしばらく見てうなずきながら、
「ここで大丈夫です!」とにこやかに答えてくれた。
重く暗い私の心が、彼女を含むいろんな方々の優しい気持ちに触れ少し軽くなった。
想像もしていなかったことが突然私の身に起きた。
その日は、息子の小学校卒業式の日。
私の視力では我が子の姿は全く見えないが、
少しでも息子の近くに、息子を感じたいという気持ちから、早めに家を出て最前列の席を確保した。
私の隣には主人、その隣には義理の母が座っていた。
受付でなにやら封筒のようなものをいただいた。
それは、息子からの「母への手紙」だった。
文字の読み書きができない私には、その場で息子からの手紙を読むことはできない。
すると、義母が「その手紙、ちょっと貸してくれる!?」と言った。
手紙を渡すと、義母はその手紙の内容を自分の携帯電話に入力し始めた。
しばらくすると、私の携帯電話にメールが届いた。
それは、義母が打ってくれた息子からの「母への手紙」だった。
携帯電話やパソコンは、音声でメールを使用したりネット検索などができるようになっている。
私は、義母のおかげで息子からの手紙を音声で聞くことができた。
息子からの思いと義母の優しい心配りに、私の胸はいっぱいになった。
式を前に、すでに目頭が熱くなっていた。
心待ちにしていた卒業生入場!、私の横を一人ずつ堂々とした足取りで通り過ぎていく。
一人ひとりにおめでとうの気持ちを込めて、私は拍手をしていた。
ちょうどそのとき、私の携帯電話がブルブルと振動し始めた。
こんなときにと思いながらも、なぜかこの電話には出なければいけないという胸騒ぎのようなものを感じた。
まだ卒業生の入場が続いている中、おそるおそる電話に応答した。
相手は実家の母だった。
母は、落ち着いた様子で「お父さん、明け方に亡くなったんだって。」と告げた。
もう20年ほど疎遠だった父。
以前から入退院を繰り返しているということは、どこからともなく耳には入っていた。
私が生後7ヶ月で父は蒸発し、
母は兄と私を女手一人で育ててくれた。
私が小学校5年生の頃、父方の祖父が病に倒れたのをきっかけに父は姿を現した。
祖父の願いを聞き入れた母は、父とやり直すことになった。
父が帰ってくるまでの親子3人暮らしは、
母が朝から夜遅くまで働いていたため寂しい思いはたくさんしたけれど、穏やかで心満たされる生活だった。
父を含めての新たな生活は、母へのDVやギャンブルでの多額の借金、毎日の飲酒など、地獄だった。
私が高校生の頃、友人と2人、あるアーティストのライブチケットをゲットするため、
真冬にもかかわらず販売店の前で並んだことがあった。
前夜から翌朝までいろんな話をしながら時間を過ごし、やっとの思いでチケットを手に入れることができた。
本当にうれしかった。
待ちに待ったライブ当日!、私はチケットを片手に、
「友達とライブに行ってきまーす♪」と笑顔いっぱいに声をかけた。
家を出ようとしたそのとき、
「見えないお前がそんな所に行っても意味ないだろう」という言葉が父から投げかけられた。
私は、一瞬自分の耳を疑った。
でも、それはまぎれもなく実の父から発せられた言葉だった。
私は、あふれ出てくる涙を何度もぬぐいながら友達との待ち合わせ場所へ向かった。
父は、なぜ我が子が傷つくようなことをあえて口にしたのだろう。
もしそう思っていたとしても、その言葉は父の心の中だけにしまっておいてほしかった。
思春期である小学校5年生からの共同生活で、
お互いの心の距離をなかなか縮めることができなかったのが原因だったのだろうか。
それ以来、私はより父を避けるようになった。
高校を卒業と同時に父のいる地元を離れ、視覚障害者専用の施設に入所した。
兄は、ちょうどその頃結婚して家を出ていた。
母は父から逃げるようにして友人のいる離島へ、その日から家族は離ればなれに。
そして、父はひとりぼっちになった。
地元を離れ、もう20年ほどが過ぎた。
その間ほぼ疎遠だったが、私の心の奥底にはいつも父の影が存在していた。
あんなお父さん、この世からいなくなっても涙ひとつ流すことはないんだろうなぁとずっと思っていた。
けれど、訃報を耳にした瞬間、あたたかいものが何度も頬を流れ落ちた。
息子の晴ればれしい卒業式の日に、
独り、父は旅立った。
父は何を伝えたかったのだろうか。
航空券が取れたのは、息子の卒業式の2日後だった。
交通渋滞に巻き込まれ、父はすでに火葬された後だった。
長期間病気を患っていた薬漬けの父の遺骨は、つまむとぽろぽろと崩れてしまうので、
器具を使って遺骨を骨壺へ運ぶ作業は、見えにくい私にはかなり困難だった。
許可を得て素手で父の遺骨を拾うことに。
まだほんのりあたたかさが残っていて、
父は本当はこんなふうにあったかい心を持っていたのだろうなぁと、そんな思いが込み上げてきた。
今、私は素敵な家族に囲まれて幸せな人生を送っている。
私がこうしてこの世に存在していること、それは他ならない、父あってのこと。
「お父さん、ありがとう!」、素直にそう思えた。
また私の頬をあたたかいものが流れ落ちた。
それは、私の手から伝わるあたたかさと同じ温度だった。
この瞬間、私はやっと父と通じ合うことができた。
はばたく息子と父との別れ、二つの旅立ちに「ありがとう」を寄せて。
編集後記
見えなくても家族の愛に支えられ、息子からの手紙に涙した日。
見えにくいからこそ手で父の温度を感じ、父への思いをしたためた今。
二つの旅立ちには絆への感謝が込められています。
あまりにもろく崩れそうな命の証を、我が手で触れ感じながら確かめた経験は、
長い年月を、悲しい記憶をも越えて、あたたかい生きる証へと導かれました。
そして、自らの命への感謝へとつながっていったのですね。
「やっと・・・」という安堵は、命の重さともろさが残してくれた光。
残されたご家族の明日に平安がありますように。
-- このメールの内容は以上です。
発行: 京都府視覚障害者協会
発行日: 2015年8月7日
☆どうもありがとうございました。