メルマガ色鉛筆第46号( やっぱり生きるってしんどいね)

(やっぱり生きるってしんどいね)
ペンネーム 赤いスイートピー(50代 女性 弱視)
 レポートの要旨です。
 人生には、実にいろんなことが起こりますね。
私にも苦しいこと、悲しいこと、死にたくなることがありました。
それでも、「あきらめ」という忍耐でなんとか今を生きています。
少しずつ見えなくなることもその中の一つ。
しかたないなあと言いつつも、見えなくなる不安が拭えなくて、やっぱり涙がこぼれます。
とは言っても、嬉しいことだってあるんですよ。
 そんな私のこれまでと今を少しお話します。
 ここから本文です。
 こんにちは。
50代後半の赤いスイートピーです。
 私の人生には何度も死にたくなるようなことがありました。
でも、そんな私が今も生きているのは、
闇夜に浮かぶ灯台のような小さな光がいつもそばにあったからだと思います。
それは家族の理解であったり、ライトハウスのような施設であったり、仲間との出会いであったりと、
いろいろです。
 そんな希望の光も、苦しくて八方ふさがりの時には見えないのだけれど、
振り返ると、その光のあったかさに感謝せずにはいられません。
生きる気力をなくした私に寄り添ってくれた家族、
今思い出すだけで感謝の気持ちで涙があふれます。
ほんま、ありがたかったです。
 平凡な主婦としての私の人生を、今はすっかり白くなった視界の上で振り返ってみました。
 私は子供の頃から弱視でした。
小学校入学前の就学前検診で、メガネ矯正しても視力が上がらないことがわかりました。
視野も狭く、夜盲症もありました。
体育館でのバレーボールやバスケットボールは視野からボールがはみ出して消えてしまうし、
薄暗さで見えにくさもあり、大嫌いでした。
教室では一番前の指定席でしたが、
普通に本は読めたので、特に自分が目が悪いとは感じませんでした。
演劇発表などの時に、私には暗幕の中で自分の席が見つからないということがありました。
でも、特に誰かに助けを求めることもなく、なんとかやり過ごせていました。
だから、思春期に入っても見えにくいことがコンプレックスになることはありませんでした。
 高校卒業後、事務職として働き、結婚し二人の子供を出産しました。
結婚前にいろんな眼科には行っていましたが、
病名や病気について医師から説明を受けたことは一度もありませんでした。
これも今思えばなんでだったんだろうと思いますが、
病院では見えにくい、夜盲症という事実の確認だけをしていたことになるんですよね。
 子供の近眼の相談のため眼科受診した時に、
私は初めて自分の目が網膜色素変性症という病気だったことを知りました。
すでに私は32歳、子供は小学生になっていました。
将来失明するかもしれないという宣告、ガーンでした。
その事実について、私は夫に話すことができませんでした。
 翌年、姉ががんで余命宣告を受けました。
私にとってたった一人の姉、仲も良く、いつも頼りにしていた大切な人でした。
ショック、そんな言葉では言い尽くせないほどの苦しさ、本当につらかったです。
姉との残された時間の中で、
その悲しみと不安が重なり、私の目も見えにくくなっていきました。
その頃はまだ買い物にも行けたし、値段も見えましたが、少しずつ人にぶつかりやすくなっていました。
ちょっとした見え方の変化を感じるたびに不安は増していきました。
 夫に自分の目のことを隠していることはもうできないと思い、
「自分はいつか見えなくなるかもしれない」と打ち明けました。
それは診断を受けてから1年後のことでした。
私の話を聞いた夫は、
「見えなくなったとしても、がんばって生きていったらいいから」と言ってくれました。
 当時の私は、大切な家族を失う悲しみと見えにくくなる自分のことしか考えられませんでした。
今その頃のことを思い出しても、つらくて涙が出ます。
けれど、一番つらかったのは夫だったのではないかと思います。
 私はそんな夫の支えがありながらも、どんどん落ち込んでうつ状態になっていきました。
姉を亡くした悲しみから、私は食事も摂ることができず、動けなくなっていきました。
 「どうしたら死ねるだろう」、
それしか考えることができなかった私を一人にしておくのが心配だからと、入院をすすめてくれたのは夫でした。
入院した半年間、保育園の送迎を夫がし、義母が子供たちの世話をしてくれました。
あの時、入院していなかったら、私はどうなってたかわからないです。
子供にはかわいそうな思いをさせてしまいましたが、退院後もとの生活に戻ることができました。
 元気を取り戻した私に、夫はライトハウスについて教えてくれました。
広報に掲載された記事も見せてくれました。
私は、京都府視覚障害者協会の相談からライトハウスの訓練へとつながっていきました。
 まず訪問による歩行訓練から始め、36歳の時、京都ライトハウス鳥居寮で半年間点字を学びました。
コーラスグループにも参加し、訓練終了後、マッサージの資格取得のため視力障害者センターへ入学しました。
 当時、子供は小学2年生と5年生でした。
3年間、家族の支えがあって勉強と家事の両立ができました。
この時も、夫が応援してくれたから資格を取ることができたのだと思います。
携帯もない時代、何時に帰ってくるかわからない私を次女が一人で駅で待っていたこともありました。
それは、冬の寒い日の暗い夕方でした。
あの日のことを思い出すと、またまた涙が出てきます。
 私が資格を取りたいと思ったのは、夫に何かあったら自分が家族を守らなければならないと考えたからです。
姉が早く亡くなったこと、人はいつどうなるかわからない。
想定外のことが人生には起きると、私は身にしみて感じていたのだと思います。
夫は今も元気、ほんまにありがたいことです。
 娘はよく私を助けてくれていて、生協の注文書も書いてくれていました。
頼りにしていた娘が嫁ぐことになり、私は生協のチラシを前に、
「自分でできるようにならなくっちゃ」と一念発起しました。
音声読み上げのパソコンを勉強して自分でネットから注文できるようになろう、私は2度目の訓練にトライしました。
週2回の通所で、パソコン、点字、ストレッチを受けました。
訓練をしながら趣味の民謡と家事をこなした1年半でした。
片道1時間20分の通所、しんどかったけれど有意義でした。
パソコンで生協の注文はバッチリできるようになりました。
 ネットの活用は随分役立っています。
デパートのイベントを見たり、高知システムのソフトのマイニュースでニュースを見たり、
クックパッドを見て料理の参考にしたり、ユーチューブで民謡の課題曲を聞いたり、
歌詞を調べてテキストデータに貼り付けてファイル保存したりしています。
 メールだってできるようになりました。
エクセルで簡単な予定表を入力したりしています。
時々エラーが出て「・・・?」となることだってありますが、
パソコンなんて触ったことがなかった私がなんとなく活用できています。
パソコンは、私の生活になくてはならないものになりました。
 訓練中、見えにくさは増していきましたが、つらい気持ちも訓練の仲間と共有できました。
見えにくくなることは本当につらいけれど、ちょっとしたおしゃべりの中でほっとできることもありました。
「ここではみんな同じなんだ」と思えたこと、私にとってそれは大切なことでした。
 地元の仲間と月1回、忘れてしまったことやわからないところを復習しながらパソコンを学んでいます。
点字も、ボランティアサークルの皆さんのサポートを得て読みと書きを続けています。
とりあえず点字は続けないと、読めなくなりますから。
 私は、点字のシールを利用していろんなものにしるしをつけています。
特に冷蔵庫の中、触っただけでは区別がつかないものってたくさんあるんですよね。
からしとわさび、しょうゆの薄口と濃口、きなことごま、
シャンプーやリンス等の詰め替え用だって、手触りはどちらも同じですよね。
そう考えると、点字は全然読めないより、ちょっとだけ読めるだけですごく助かるんですよね。
書くのも同じで、メモ程度書けるだけで十分しるしはつけられますよ。
 通帳カバーなんかどれも同じ手触りですよね。
間違えると大変だから、カバーに貼るのも有効ですね。
ポイントカードはカードケースに入れて整理しています。
カードを入れるフィルムの表にシールを貼れば、その中のカードが何かわかります。
財布に無造作にカードを入れることはしません。
診察券も同じです。
自分でできることはしたいし、それって大事なことかな?と思います。
 私は、民謡サークルでは見える人の中の見えない一人です。
楽譜が見えないのは私一人だけだから、孤立することもあります。
発表の時などマイクの位置がわからない時もあるし、
前はもう少し見えたのに今年は真っ白にしか見えなくて、そういう瞬間悲しくもなります。
それでも私は民謡が好きだから、続けたいという思いだけで楽しんでいます。
 見えない・見えにくい仲間の中にいることもいいけれど、
見える人の中に混じることも大事だと私は感じています。
民謡のサークルの中に見えない私が一人いることで、周りの方が配慮を考えて下さることもあります。
そうしたことの一つ一つが、見える人の中に自分が交わることの意味だと感じています。
 生きていれば次から次へとつらいことをいっぱい経験するけれど、
それが人を強くすることにつながっていくのかな?
突然愛する家族を亡くした悲しさ、苦しさ、お願いだから連れていってほしいとまで思ったこと。
それほどの悲しみを経験しても、また新たな悲しみが目の前に起きると、そのたびにやはり涙が出ます。
そんなことを重ねている、それが私の今につながっています。
生きることは、ほんまにしんどいですね。
 でも、嬉しいこともあるんですよ。
孫のことはとにかくかわいくて、見えなくても、声を聞くだけで嬉しい気持ちになります。
家族みんなが孫の写真を見ている時は、「私も見たいな」と思いますが、しかたないと言い聞かせています。
そんな時はやっぱり悲しいし、悔しいです。
孫は少しずつお話もできるようになり、よく食べてどんどん成長していくのを感じています。
動きを目で追うことはできないけれど、それでも子供のかわいさってすごいですね。
 また、私はお友達や家族と出かけます。
見えないけれど、家にいるのとは違うから、出かけます。
どこにいても同じ景色だけど、その場にいて感じること、一緒に時間を分かち合うことが大切だと感じています。
物事をくよくよ思ってもしかたないですから。
 正直なところ、あれもこれも見えないのはつらいことです。
何かと不便なのも事実です。
これからもっともっと悪くなるんかと思うとへこむけど、負けずに生きていかないとしかたないかと思います。
それが今の私のあるがままの気持ちです。
 なんとかなってることとどうにもならないことを抱えて、
できることはしたいっていう気持ちだけは持っていけたらいいなあ。
これからもパソコンや点字やお楽しみイベントを、地元の仲間とともにぼちぼち楽しんでいこうと思います。
 編集後記
 あきらめられない、あきらめるしかない、一つの心の中で震える思い。
あきらめ、それは気持ちを切り替えることだと考えると、とてもエネルギッシュなことに感じます。
悲しい気持ちの涙と感謝の気持ちの涙を重ねながらの日々がやっぱり生きる今日となり、
自分でできることはしたい!、負けずに生きていくしかない!、
そんなスイートピーさんの明日へとつながっていくのですね。
-- このメールの内容は以上です。
発行:   京都府視覚障害者協会
発行日:  2015年7月3日
☆どうもありがとうございました。


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