メルマガ色鉛筆第264号「障害は不便だけど不幸ではないって本当なの? その1」

タイトル 「障害は不便だけど不幸ではないって本当なの? その1」
メルマガ色鉛筆編集チーム
こんにちは。
メルマガ色鉛筆編集チームです。
今回は「障害は不便だけど不幸ではないって本当なの?」というテーマで、思う
ことを自由に書いてもらいました。
生まれつき見えにくくて、今も見えにくい状況のお二人のレポートをお届けしま
す。
タイトル 障害は不便であり、そしてまあまあ不幸でもある、これ、私の場合
ペンネーム 空色気分(40代 男性 弱視)
 障害は不便だけど不幸ではない。
私はこの言葉を聞いた時、すんなりストンとはならなかった。
障害があり不幸だと思っていても、
それを素直に認めたくないというのも人情ではあるまいか。
「自分の障害は不幸だ」と言うと、
なんだか「自分の人生は不幸だ」というニュアンスになってしまう。
ますます「いやいや不幸なんかじゃありませんよ」と
強がってしまうのではないだろうか。
 また、一旦障害を不幸なものだと思ってしまうと、心が暗い気持ちに支配され
、厭世的になり、前向きに人生を歩めなくなってしまう。
それが嫌なので、「オレの障害は不幸なんかではない」と
必死で自分に暗示をかけている可能性もないだろうか。
 あるいは、思いやりあふれる人ならどうだろう。
自分では障害を不幸だと思っているが、他の人にはそうなってほしくない。
前を向いて生きてほしいと願い、「障害は不便だが不幸ではない」と
励ましのメッセージを出しているのではないだろうか。
 もしくは、体育会系ならどうだろう。
学校時代、部活で教師や先輩に「弱音を吐くな」と言われ続け、
その結果何事にもやせ我慢する癖がついているのかもしれない。
歯をくいしばりながらの「障害は不便だけど不幸ではない」だとしたらどうだろ
う。
それは気合の入った自戒ではないだろうか。
 例えば、周りの人が陽気で能天気な人達ばかりなのだとしたらどうだろう。
その人達に障害の話をしたとき、「そんなこと気にせず、ハッピーにいこうぜ」
と簡単に片付けられてしまったのだとしたらどうだろう。
とりあえず仕方なく不幸でないことにしているのかもしれない。
 一方、不幸という言葉を試練という言葉に置き換えるとしたらどうだろう。
障害はどんなにつらく苦しくても、「不幸」ではないことになる。
不幸は自動的に試練に転化され、不幸のニュアンスから離れていくのだろう。
 いろいろ想像するときりがない。
もちろん、前述したどれにも当てはまらない、
どんな創造にも当てはまらないということもあるだろう。
つまり心底障害は不幸ではないということもあり得る。
 では、私の場合はどうだろうかと考えてみた。
 まず不便かどうかであるが、たしかに私の視覚障害も不便である。
ルーペなしでは文字が読めないし、
ものが鮮明に見えていないことによる不便さはいろいろある。
当たり前だが女性の顔も見えにくい。
 次に不幸かどうかであるが、やはり「不幸ではない」と断言することはできな
い。
日々の暮らしの中で障害があることで落ち込むことは結構あるからだ。
かといって「不幸だ」と言い切るにも若干の違和感がある。
見栄を張るわけではないが、不幸は少し言い過ぎで、大げさな感じがするのだ。
私の場合、「障害は不便であり、そしてまあまあ不幸でもある」ということにな
る。
 ついでに私の今の生活が不幸かどうかをお伝えしたい。
実は「まあまあ不幸」などではなく、「不幸ではない」と断言できてしまうので
ある。
これは決して見栄を張っているわけではない。
 誰でも生きていて、嫌なこと、つらいこと、憂鬱なことなどはあるだろう。
もしかしたら障害があることで、そういったことが多くなるのかもしれない。
だとしたら、それは悲しいことである。
しかし、誰でも楽しいこと、嬉しいこと、気持ちが安らぐことなどは
少なからずあるはずだ。
少なからずある何か、私はここがポイントだと指摘したい。
 私は毎日食べる物があって、温かいお風呂に入れて、
たっぷり睡眠をとることができる今の生活は、結構恵まれていると思っている。
アップルパイを食べた後に熱々の紅茶を飲んでいる時などは、
幸せの笑みを浮かべたりもしている。
そう、人は人生の期待値をぐんと低く設定すると、
意外と簡単に幸せになれてしまうのだ。
これが秘訣だ。
書きながら、なんだか空しさのようなものをほのかに感じるが、まあ気のせいだ
ろう。
 私は自分の障害を「まあまあ不幸」とした。
同時に、おかしな表現になるかもしれないが、この障害に愛着のようなものもあ
る。
なんといっても子供の頃からの付き合いである。
不便でありまあまあ不幸なこの障害とこれからも仲良くやっていきたい。
見栄も張っていない、これが正直な気持ちだ。
ー-
タイトル 視覚障害は不幸ではなく不便だ
ペンネーム コーラル(40代 女性 弱視)
 視覚障害は不幸ではなく不便だ、この言葉と出会ったのは、
私が網膜色素変性症だということがわかってまもなくのことでした。
当時、こどもが0歳2歳4歳6歳。
たちどまっているわけにもいかず、なんとかやっていこうとしていたときでした

この言葉を知り、単純な私は
「なるほど、そう思って生きていけばいいのか」と元気になれました。
それまでは自分がゆくゆく見えなくなることへの恐怖しかなくて、絶望していま
した。
 がんばっても、まわりのお母さんたちとはおなじようにできないことはありま
した。
まわりの人たちにいろいろ手伝ってもらってすごく助かったのですが、
「こんな母親でいいのかな」という卑屈な思いが時折襲ってきました。
子どもたちは本当に幸せなのだろうか、そう思わない日はなかったです。
 そんな毎日の中、自分に何度も言い聞かせていた言葉があります。
人それぞれ顔が違うように障害も個性のひとつ。
多くを求めないでいよう。
今、おかれている自分の中で小さな幸せをみつけて生きていこう。
この3つの言葉を胸にこの17年間やってきました。
辛いときは、この言葉を半ば思い込むようにして生きてきました。
ある意味、これは現実逃避なのかもしれません。
もちろん、ふつうに見えているほうがいいのです。
だけど私は自分のことを不幸だとは思いたくないんです。
これからも自分のことを好きでいないと、私は生きていけないのです。
だから、「障害は不幸ではなく不便なんだ」って、
自分に声をかけていきます。
これからも。
 
ー-
編集後期
 障害と不幸について、このど真ん中な問いかけを、空色気分さんとコーラルさ
んは色鉛筆代表選手のように、正々堂々と向き合って考えてくれました。
考えて文章にする、ということ。
大事な取り組みになりました。
 考えて話し合う、ということ。
色鉛筆はみなさんが話し合うきっかけの話題になることも創刊以来、目指してい
ます。
お住まいの地域で、方々でそんな話の輪ができてほしいと思います。
 そのようにして、障害と不幸について、この問いかけから大切なことがたくさ
ん見つかりますように。
 -- このメールの内容は以上です。
発行:   京都府視覚障害者協会
発行日:  2022年5月6日
☆どうもありがとうございました。


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