活動紹介
メルマガ色鉛筆第24号(「次に変わるのは」)
タイトル「次に変わるのは」
ペンネーム:夜色鷹人 40代、男性、全盲
レポートの要旨です。
中途失明の自分が、少しずつ変わっている。
見えない、ということを受け止めている。
例えば、耳で聞くことで目で見る代わりをしている。
これからさらに自分がどう変わって行くのか。
言えるかな、「あたたかい声かけ、よければおねがいします。」
あ、ペンネームは和風に、「よるのいろのたかと」と読んでくださいね。
よろしくお願いします。
ここから本文です。
「目が見えなくなって、他の感覚が鋭くなりましたか? 耳がよくなりましたか?」
こんな質問をされることがある。
年に2、3回はされるかも。
結構、答えにくい、この質問。いつもそう思いながら、
「はい、そうですね、よくなりました」だとか、
「いや、そんなことないですけど、音を聞き分けるのはうまくなってます」だとか、適当に答えている。
適当な方がいいみたいだ。
正確に、丁寧に、と説明に力を入れても、空回りしてる。
そう、言葉で言い表せるものではないのだろう。
耳はよくなってるのだろうか。
街中、外にいるときはクルマやバイクのエンジン音を聞いている。
その動き、その流れ、その方向が道路を示している。
クルマが自分に近づいてくる。
もし自分がクルマの進路をふさいで邪魔になってたら、クルマはブレーキをかけるはず。
ずっとノーブレーキだから、自分はこのまま歩いてていい。
自転車も近づいてくる。
自分の左を通るのか、それとも右を通るのか。
自転車の方に白い杖を出すとからんで事故になる。
そうならないためには、これを聞き分けないといけない。
部屋にいるときも、音を聞いている。
キッチンの方から冷蔵庫のモーターがうなる音が聞こえる。
窓の方からは、外に広がる町の騒音が聞こえる。
自分が部屋のどこにいて、どっちを向いているのか分かっているのは、常にそうした音を聞いていて、判断材料にしているのだと思う。
見えない。見てない。それでいて、耳で聞いて分かることが結構ある。
中途で失明して、年月が経って、だんだんそうなってきた。
「変わったな」と思う。
でもね、音がしないことは分からない。
例えば、人の顔。この人がどんな顔してるのか分からない。
でもね、今は、「それがどうした」と思っている。
「分からなくたって、痛くもかゆくもないや」と思っている。
そう、肉体的に痛くないし、金銭的にも痛くない。
あとは気持ち的に痛くなければ問題じゃない。
いつの間に、そんなふうに考えるようになったのか。
そして、いつの間にか気持ち的にも痛くなくて、平気になっている。
まあドライなやつだこと。
年月が自分を変えて行く。
そして、「ああ、変わったんだな」と実感する。
けれども、思いがけないときに、予想もしてないときにあるんだよ。
例えば、あれは花火大会に行ったときだった。
ヒューン…ドーンという音がすれば、花火の光が空に広がったのだとその音で分かる。
大勢の人がそれを見ている。
でも、その中の自分1人が見てない。
ヒューン…ドーン。
また上がった。それは分かるけど、見てない。
涙があふれてきた。止められなかった。
そう言えば、こんなこともあった。
ある集会に参加することになった。
いわゆる健常な人たちの集会で、目が不自由なのは自分だけだった。
スタッフの人が、「これ資料です」と言いながら、自分のところにも紙の資料を置いていく。
こういうことはよくある。
残念ながら、紙の資料は配ってもらっても読めない。
そういう事情でも、ほとんどの場合、「資料です」と机の上に置いていかれる。
まぁいつものこと。この時間の内に耳で聞いて入ってくることを吸収すればいいや。
そんな姿勢で臨んで、話について行けるときもある。
その逆で、分からないときもある。
例えば、パワーポイントで図や写真がたくさん使われるプレゼンだと分からない。
まあそういうこともあるよな。いつしか、そう思うだけで済ませている。
何年もこういうことをくり返している間に、見えないことが平気になっている。
そして、「ああ、自分は変わったんだな」と実感する。
でも、本当はどう声をかけてほしいんだろう?
「資料です」ではなくて、どんなことを言ってほしいのだろうか。
図や写真がたくさんのパワポのときは、どんなことを言ってほしいのだろうか。
一度この疑問をみんなと考えたいと思った。
その機会を得て、別の集まり、人権や障害について学ぶ集まりで、この疑問を話題に出した。
「どう声をかけたらよいと思われますか?」
そう問いかけながら自分でも考え出す。
すると、涙が出てきた。止められなかった。
予想してなかった。気持ち的にも痛くないし、その場でも平気だったはずなのに。
「今日は紙の資料しかありませんが、どうにか参加してもらえるようにと思います」
「パワーポイントで分かりにくかったと思います。うまく説明できたらよかったのですが」
温かい声かけがほしい。
どんな声かけでもいいから、温かい声かけがほしいんだ。
そんなことを自分が思っていたとは知らなかった。
年月が自分を変えて行く。少しずつ強くなっている。
その一方、どこかで求めている。温かく声をかけてほしい。
このまま、また変わって行くとしたら、今度は平気と思うだけでなくて、素直に言えるようになりたい。
言えるかな、「温かい声かけ、よければお願いします。」
編集後記
今回後記を書いている私は晴眼サポーターの1人です。
晴眼とはいえ色覚障害があります。
筆者の「見えない」に自分の色覚障害を重ね合わせながら読みました。
読み終えた私の心に今も残り続けているのは、見える・見えないといった現象に関するものではなく、
筆者が自分の内面を直視していく過程の真摯(しんし)さです。
みじんもごまかすことなく、自分の内面をこれでもかと掘り下げていく姿、
見えないことを受け止めていき、「気持ち的にも痛くないし、その場でも平気だったはずなのに、止められない涙」。
筆者にとって自分も知らなかった自分との出会い体験。
この姿勢と体験は、視覚や色覚の問題あるなしを超えて、あらゆる人の心を響かせることでしょう。
色覚障害を見て見ない振りをして生きてきた私も、すごい宿題をもらった思いです。
ありがとうございました。
-- このメールの内容は以上です。
発行: 京都府視覚障害者協会
助成協力: 京都オムロン地域協力基金
発行日: 2014年9月5日
☆どうもありがとうございました。