活動紹介
メルマガ色鉛筆第197号「見せない、見えないという本当のこと」
タイトル 「見せない、見えないという本当のこと」
ペンネーム 森の中の満月(50代 女性 弱視)
レポートの要旨です。
私の気持ちにポツンが降りてきます。
見えなくても目には見えない大切なものを感じ、ふれて聴いて物事を判断。
日々そうしていても、自分だけが見えないことに感じるポツン。
見えるとか見えないとか考える私、そんな私の心の内を文字にしてみました。
ここから本文です。
見えるとか見えないとか
最近、あらためて考えさせられる。
それはある種、哲学的な問答に似ています。
見えるってそもそも何なんだ?
ぐるぐるもやもや考えていると、こんな心持に陥ります。
形ある見えるものが何なのか?
それは誰もがどうしたってどこにも行きつくことのできない問いかけ。
でも、その問いかけに対してヒントがもらえる側の人ともらえない側の人がいます。
まぶたを開ければ何らかの像を脳に映し出すことができる人とできない人です。
まぶたを閉じれば、見えないってことが誰でも体験できます、そして、誰もが見えな
い言葉に耳を澄ますことができるでしょう。
でも、これはあくまでも簡易的な見えない世界に過ぎません。
私の友人は音楽家です。
彼女は見えるピアニストにこう言われたそうです。
見える演奏家も目を閉じて演奏することがあると。
その時、彼女は高度な演奏技術の壁に苦しんでいたのです。
見えてさえいれば、こんなことは難しくなかったのにと。
そして、彼女は心の中で叫びました。
あなたは目を開ければ、すぐ手元にあるこの鍵盤を見ることができるじゃないか、そ
れはまぶたを開け続けても鍵盤が見えてこない私とはまったく違う条件なのだと。
私は日々折に触れ、この友人の言葉を思い出します。
これは何なのか、それを理解するために、触れたり耳を澄ましたりします。
でもやっぱり見えるヒントがあるかないかは随分ちがうのだと感じることがあります
。
それはほんのわずかな口元の動きだったり、目の輝きであったり、時に自分の写真で
あったり。
その写真の中には自分がいる、けれど見えない。
周りのみんなは見ているのに、その様子を知っているのに、当の本人だけが見てない
、わからないのです。
この悲しみ、見えるあなたにはどう見えますか。
私も幾度もそういう経験をしました。
御縁があって新聞や雑誌やテレビにも出ました。
でも、私だけが私の姿を見てない、わからないのです。
周りからの説明というフィルターを通して、誰かの主観を通して、自分の様子を想像
するしかないのです。
あえて誤解を恐れず言います。
普通なら一番先に見たいのです。
普通なら、自分の記事、自分の映像、画像、一番気になるのは本人です。
例えば、自分のコンプレックスとしている部分が目元のしわにあるとしたら、よりに
よってそこがいやに目立つ写真が掲載されていたら、その記事ができるだけ知り合い
の目にふれないでいてほしいと思います。
かわいく撮れていたら、ちょっと見せてもいいかなと思います。
これって普通の感覚ですよね。
自分のことなのに、自分だけが見てない、そういう時、この上ないポツンが降りてき
ます。
自分はみんなと一緒にそこにいるのに、だだっ広く薄暗い部屋に一人閉じ込められた
気持ちになります。
それでも、ふーん、そうなんだと仮面の笑顔でその場をやりきります。
これもやはり、見えないあるある、よくある普通のことなんでしょうね。
自分だけわかんないってことに、いつの間にか痛みをおぼえない、やり過ごせるよう
になっていて、それが普通になっているのでしょう。
でも、ある時、急にそうではないポツンが降りてきます。
私だけが見てない、それをみんながいろいろ言ってる、やめて、みんな私と一緒に何
も見ないでと。
でも、そんなことは言いません。
現実には言いません。
だって、そんなこと言ったら余計にポツンとなるから。
ごめんとか、かわいそうにとか、気まずい空気が流れたり。
説明してるじゃないかとか、なんでそんな考え方しかできないんだとか責められるか
もしれません。
そうではなく寄り添ってくれても、どんな寄り添いの言葉も、自分だけが見てないと
いうポツンの中では、落ち着きどころのない言葉となって飛んでくるのです。
ちょっと残念というおだやかな心持では折り合いがつかない、そんなポツンの日があ
る。
見えるとか見えないとか、それは歴然たる事実としてあって、むしろ見えることが不
自由で見えないことが自由だと全面的に誇らしく高らかに唱えることが、私にはでき
ません。
この先、できる自信もありません。
できないといけないとも思いません。
日々見えなくても目には見えない大切なものを感じ、ふれて聴いて物事を判断してい
ます。
見えないからこそ受け取ることのできる情報だってたくさんあります。
見えない自分だからこその喜びもたくさん抱きしめてきました。
この人生悪くないと、笑顔で歩んできました。
それでも、私は生まれ変わったら見える側の人生を選びたいです。
どうかお願いです。
見えるとか見えないとかに関わらず、誰もが目には見えないものの中に心理を探るの
だとしても、やっぱり見える側の普通の感覚を私の側にも忘れないでいてほしい。
ほんのわずかでいいから、この悲しみの存在をそのまま認めてほしい、
これってわがままでしょうか。
この写真、私どんな顔してた?
どっち向いてた?
髪は揺れてた?
ブラウスの襟は整ってた?
足は礼儀正しくそろってた?
そして、私はどんな目をしていた?
誰かの言葉でなく、自分の目でその答えを知りたい。
せめて今日は。
でも、やっぱりかなわない、それが悲しみ。
見えるとか見えないとか、どうしたってどこにも行きつくことのできないこの問いか
けを、明日も私は周りには見せない形で持ち続けていきます。
きっと、ずっと。
編集後記
見えないとどうしようもないことがあると、大なり小なり気持ちを揺さぶられます
。
その逆もあって、見えないのにどうにかなると、大なり小なり気持ちは高揚します。
日々、様々なきびしい状況に鍛えられていると、少々のことでは動じなくなって行き
ます。
それでもポツンはやって来る。
森の中の満月さんはそれを「ポツン」と名付けましたね。
ポツンとはきっと点でしょう。
それが点であることが重要だと思います。
点と点がつながって線になり、さらにつながって面になると、ポツンは心の大きな部
分を占領します。
悲しみが心を満たします。
点としてどうしようもない気持ちに至る、点としてどうしようもない叫びに至るの
はあってよいと言うか、なくすことは無理なんじゃないか。
またグラス片手に、あるいは、手を取り合ってしゃべりたいテーマです。
-- このメールの内容は以上です。
発行: 京都府視覚障害者協会
発行日: 2020年6月26日
☆どうもありがとうございました。