メルマガ色鉛筆第355号「親父、また来るね」

タイトル「親父、また来るね」
ペンネーム 「イケオジ白杖(50代 男性 全盲)」
★レポートの要旨です。
一昨年のある朝、父親が通っていたデイサービスの担当者から妻の携帯に電話が
あった。
「本日、お父様は体調が優れないということでご欠席となります」
私はたまたま在宅勤務の日で自宅でその一報を受けた。
 見えない僕には、家族に何か起きてもすぐに身動きがとれない。
これまでにも妻には僕の両親の介護のことで随分負担をかけてきた。
今回父が倒れたことを機に、さらに妻の協力を得て、
老いる両親のことを考えていくこととなった。
★ここから本文です。
 突然父のデイサービスの担当者から連絡が入った。
父と同居している母親は別のデイサービスに既に出かけたらしく、実家には父し
かいない。とりあえず父親の携帯に電話をかけた。
「はい もしもし」と少し元気のない父の声。
僕が父の容態を心配して尋ねると、
「おお、少しだるいが、まあ、横になっていたら大丈夫やろう」と父。
事業所の担当者からの提案で、急ぎ父の状態の確認のため、訪問看護を依頼した

その数時間後、実家を往訪してくれた訪問看護の担当者から電話が入る。
「お父さん、少し良くないご様子ですので、先生に診てもらいましょうか?」
プロの見立てに任せて往診を依頼した。
午後になってドクターから電話が入った。
「お父さんを緊急で病院に搬送した方が良いと感じますがどうしますか?」
ドクターからの思いもしない提案に正直少しあせった。
「現在は確実なことは言えませんが、少なくともこのままご自宅におられるより
は、
病院で詳しく診てもらった方が良い気がします」
そのドクターの意見に「はい、ではお願いします」と回答すると同時に、
京都の実家に行かないといけない・・瞬時に様々なことを考えていた。
ドクターが救急車を手配してくれている。「どこの病院に搬送すべきか?」
父は「何かあれば市立病院に頼む」と言っていたので、
父の要望通りにドクターと救急隊員に伝え、市立病院に搬送することとなった。
「とりあえず今は私が京都に行くわ。
お父さんの入院の手配もしないといけないだろうし、貴方はまだ仕事中だし」
と、妻はすぐに身支度して京都に向かってくれた。
別のデイサービスに行っていた母親が帰宅するのと、
父親が救急車で搬送される時間帯が重なったこともあり、
母親には僕から電話で事態報告をするとともに、焦ることなく実家の戸締りをし
て、
父親を搬送する救急車に同乗してもらった。
これが一昨年末のある日の出来事だった。
 市立病院に搬送され、検査を受けた父親の容態は、脳梗塞と判明した。
担当したドクターの初見では、既に脳の血管はボロボロで、
94才という年齢からも手術を含めた前向きな治療には無理があり、
現状維持を目指す治療がベターだということだった。
ただ脳梗塞を起こしているので、ほぼ半身に麻痺が出ていた。
当時89才になっていた母親が、半身麻痺の父の介護をすること、それは無理な
話だった。
日中は福祉制度を利用するとしても、夜間は父と母の二人だけの時間帯となる。
遂に父を施設に入居させることとなった。
 姉は14年前に病気で他界しており、子供は僕だけだ。しかも目がみえない。
判断は実の息子である僕が出来るが、
手続きをはじめ、様々な細かいことは妻に頼らないといけない。
これについては本当に妻に対して心苦しかった。
実際、妻は父の入院する病院に手続きを含めて何度も行ってくれた。
私の家から京都の実家までは阪急電車だけで行くことが出来る。
考えようによっては近いが、それでも毎回、半日以上、妻の時間は潰れる。
もちろん家事をしながらとなるので、その負担もかなり大きい。
 親を施設に入居させる・・職場でも同世代の人間からよく耳にしていた。
実際、自分のこととなれば何をどこから手をつけたら良いか分からない。
父が入院している市立病院にも専門の相談員がいる。
父の見舞いを兼ねて、基本的な内容を聞く為に、私も週末に妻と病院に赴いた。
まず、父を入居させたい施設について、どの施設にするのかを決定しないといけ
ない。
父の病状を鑑みて、相談員も複数の提案をしてくれる。
私の住む地域の施設へという案もあったが、
母親が父を見舞うことを考えると、やはり実家のある京都市内がベターだろうと
判断した。
 親を施設にとなっても、なかなか施設の空きがない・・よく聞いた言葉だ。
今回、自分がその立場になって、その言葉を実感することとなった。
相談員から複数の施設の概要を聞いた。
実家からの利便性を考えた施設、当然満室でいつ空きが出るか分からない。
少し郊外となるが、その分大規模で収容人数も多い施設。
そこであっても現在はウエイティング状態。
一方、年末に父を搬送した市立病院、当面の処置はしてくれたものの、
入院期間も限られている為、施設への入居が決まるまでの間、父を入院させる、
いわゆる「つなぎの病院」を探さないといけない。
そう、野球で言うところのリリーフ病院だ。
そのリリーフの病院の候補も相談員から複数提示される。
しかし、阪急沿線の病院はなし。
比較的妻が通い易い病院はどこだ?
僕は相談員の示す地名を聞けば、大体の場所はイメージできるし、
そこでお願いしますと言ってしまいそうになるが、
具体的に動くのは妻だ。
妻は元々の京都人ではない。
病院の所在地や最寄駅を聞いても、直ぐにイメージできない。
そこに微妙なジレンマが生じる。
妻は妻で実際にその病院まで通うなら・・・と頭の中で様々なシュミレーション
を組んでいる。
ここは僕が勝手に決めてはいけない、妻の意見を待とう。
目が見えていたら、自由に動けたらと何度思ったことか。
でも実際は妻頼りなのも事実。
 結果、比較的妻が通い易い「リリーフ病院」を選ぶことができた。
しかし、ここもあくまでリリーフ病院だ。
 最終の施設、これについてもいつ空きが出るか分からない状態のため、
複数の候補を相談員に連絡して、先に空いた施設にという、
ダブル・トリプルウエイティング状態となった。
 僕も父の見舞いの為、何度かこのリリーフ病院に妻、母と往訪した。
想像していた以上に、父にとっては居心地の良い病院だったと思う。
しかし、見舞いの度、見えない僕の手引きのみならず、
足腰のおぼつかない母の様子も見ながらの妻の負担はいかばかりであったか。
「ありがとう、すまない」が僕の口癖になっていた。
 そんな中、3月、さくらの便りが聞かれる頃になり、郊外の大規模施設に空き
が出ると連絡があった。
そこは京都・東山にある大きな施設だ。
父が晩年、よく散歩していたところにも近い。
話には聞いていたものの、僕は父が実際に東山を散歩していた姿を見たことはな
かったが、何故か、東山の施設と聞いて、「親父、良かったな」と心でつぶやい
ていた。
 リリーフの病院から、その東山の施設への搬送についても、妻ががんばってく
れた。
比較的病院に近いホテルに宿泊して、早朝からの父の搬送に立ち会ってくれた。
さくら咲く季節に、無事という言葉が適切かどうか悩むところだが、
最終の施設という場所に、父親の入居が完了した。
 面会については、まだまだコロナの影響も色濃く残っていた為、
いつでも可能とはならず、事前予約制で、且つ15分程度と短いものだった。
実家の母親を伴ってとなれば、当然、電車の乗り継ぎでは難しい。
実家からタクシーを利用することとなる。
それは全く問題無かったが、施設内の移動、
特に見えない僕と足腰に不安のある母親を同時にサポートしながらとなれば、
妻一人では難しい。
かなり大規模な施設なだけに、母親の施設内の移動には車いすを利用した方が良
いと判断せざるを得ない、
やはり父の見舞いには妻と娘の参加が必須と感じられた。
私の予定、妻の予定に加えて娘の予定、
それに母親のデイサービスの予定等々を鑑みての見舞いとなる。
そんな狭い候補日で予約しても既に満員・・
そんなことも度々あった。
ここでも心のジレンマはあった。
しかし、司令塔である妻の意見が一番である。
そんな様々な葛藤を抱えながらも、頻繁にとは行かないまでも父を見舞った。
脳梗塞を抱えたままでの入居、加えてリリーフ病院での闘病期間もあり、
父親の記憶は・・良くなるはずもなく、
いつ僕のことが分からなくなるのか?そんな日を恐れながらの見舞いの日々。
調子の良い日もある、しかし、ある日の面談。
「何やその白い杖は?」と父親は僕に尋ねた。
「お前、目が見えなくなったのか?何でや?」と、父は心底心配している。
「俺、交通事故に遭って失明したやんか」と僕は極めて明るく伝えた。
「そうか、目が見えないのか、可哀そうに」と、父は元気なくつぶやいた。
どうやら僕が失明したという記憶がどこかに行ってしまったようだった。
もちろん、22年前、本当に失明した時にも父は大きなショックを受けていたが

今回、痴呆が進んだことによって、父は僕の失明という事実を改めて心に刻んだ
ようだ。
図らずも二度も「息子の失明」という大きなショックを味合わせてしまった。
 父が倒れて1年が過ぎた。
今年で父は96才になる。
残された時間はあまりないのも事実だ。
母親も既に90才。
福祉サービスに頼りながらも、今はまだ一人で頑張ってくれている。
施設で時折顔を見せる息子を待っている父親、
一人で頑張ってくれている母親、
姉亡き後、残された息子として、僕にどんな親孝行ができるだろうか。
妻への感謝とともに、わが身に問いかける。
「親父、また来るね」
父を訪ねる時間は息子としての時間だ。
また「諮らずものこと」があるかもしれないが、
父として息子としての時間を大切にしていきたい。
編集後記
 障害がある中で介護する、老いる家族を支える、
介護のさまざまな場面で「見えてさえいれば」ともどかしい気持ちなります。
同時に奥様への「ありがとう。すまない」の言葉に温かい絆を感じます。
制度やサービスを利用することで解決できることと、
家族でなければできないケアがあります。
どんなことなら親孝行できるか、困難に直面するごとに考えることになるようで
す。
心がヒリヒリするのも家族の間だからこそ。
老いに寄り添いながらの道の上に、家族の歴史が重なっていくのですね。
どうかその道が、ゆるりゆるりとおだやかなものでありますように。
 -- このメールの内容は以上です。
発行:  京都府視覚障害者協会
発行日:  2025年2月7日
☆どうもありがとうございました。


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