メルマガ色鉛筆第207号「私の行方~こんなはずじゃなかった~」
タイトル 「私の行方~こんなはずじゃなかった~」
ペンネーム 「セクシャルバイオレットの反乱軍(40代 男性 全盲)」
レポートの要旨です。
ネガティブ全開、それしか書けない、それが今の私。
それでもいいんだろうか、書き終えたらどんな気持ちだろうか、読む人はどんなふう
に感じるだろうか、いろんなもやもやの中、重い筆を手にすることにしました。
「あの頃病んでたよね」って、笑って回想できる日に、いつか巡り会えますように。
ここから本文です。
「こんなはずじゃなかった」
私は40歳くらいまで健常者だった。
派遣で働きながら、大阪で暮らしていた。
二十歳を過ぎた頃、夢を追いかけて田舎から出てきた。
音楽関係の仕事に就きたかったが、結局夢は叶わず、何度も転職をくりかえす落ち着
きのない生活を送っていた。
当時、仕事はまじめにしていたものの、素行は酷いものだった。
ギャンブル依存、薬物依存、アルコール依存。
そんな荒んだ生活を重ねていた結果、大病を患った。
きっと天罰が当たったのだ。
「こんなはずじゃなかった」
私は京都市内の病院に1年ほど入院した。
当時の私はガリガリにやせていて、免疫力も筋肉も低下していた。
とにかくみすぼらしい姿だった。
精神的にも荒んでいた。
こみあげてくるいら立ちを、看護師さんに向けていた。
八つ当たりをくりかえす毎日だった。
闘病生活が半年ほど過ぎたころ、見え方に異変があった。
病気の合併症で網膜剥離を起こしたらしい。
担当医師から最悪な場合失明する可能性があるとは知らされていた。
まさか。
最初は右目だった。
まだ片目に鮮明な視力が残っていた。
どうかこのままであってほしい、すがるような思いだった。
数か月後、左目にも来た。
あっという間の進行だった。
何年かは弱視の状態で過ごせたが、今は全盲、少しだけ光がわかる程度。
まさか視覚障害者としてこれから生きていかなきゃならないなんて。
「こんなはずじゃなかった」
もう何も考えられなかった。
絶望感と孤独感は日々高ぶっていくばかり。
毎日過酷な放射線治療や投薬治療を受けていたが、ただ生かされているだけという状
態だった。
ベッドの上で起き上がることもなく表情もなくただ息をしているだけ。
そんな中、親身になってくれる看護師さんがいた。
いろいろ相談に乗ってもらった。
その方は勤務終わりに私の病室を訪ね、世間話をしてくれた。
毎日のように。
帰り際には私の手を取って「明日もまた来るね」と言ってくれた。
私には女神様のような、理想の姉のような存在だった。
その方の私に対する熱意が、私の心の中のサビを少しずつ溶かしている気がした。
看護師長さんがカウンセラーの方を紹介してくれた。
申し訳ないけれど、カウンセラーさんの風貌は、どこにでもいそうな普通のおばさま
。
でも、さすがプロ、話の引き出しがものすごく広い方だった。
私は大泣きしながら心の中の泥をカウンセラーさんにいっぱいぶつけていった。
「こんなはずじゃない、きっと私」
それから数か月後、ケースワーカーさんの紹介で地域の相談員の方が病室に来られ
た。
その時、京都ライトハウスの存在を知った。
鳥居寮という訓練施設があるということも教えていただいた。
数日後当時の鳥居寮の所長さんが来てくれた。
私の病気のこと、過ごしてきた人生のことなど、実に穏やかに聞いてくださった。
悩みっぱなしの私にいろいろアドバイスをしてくださった。
目が見えない=何もできないというわけではないということも。
入院中にライトハウスも鳥居寮も見学させてもらった。
訓練中の教室ものぞかせてもらった。
そこで音声パソコンの存在を知った。
数名の方が音声パソコンを使って訓練を受けていた。
訓練だというのに実に楽しそうに先生と生徒さんがやり取りをしていた。
ここにきている訓練生さんは確実に前を向いて進んでいる。
そんな状況を目の当たりにした私は自身の情けなさを痛感した。
前を見ることもできなかった私に所長さんが「元気になったらいつでもおいで」と言
ってくれた。
私は退院したら鳥居寮に入所して訓練を受けようと考えていた。
ところが私の体の状態が整わず、家の事情とかもあって入所はお蔵入りになってしま
った。
「こんなはずじゃなかった」
その後、所長さんに家まで出向いていただいて訓練を受けることになった。
週一回、歩行、パソコン、iPhoneなど実に穏やかに丁寧に教えていただいた。
そんなある日、突然当時の北部の地区相談員の方と、初老の当事者の方が訪ねて来ら
れた。
その初老の男性は地元の視覚障害者協会の会長さん、どうやら会員の勧誘で来られた
ようだった。
初めはお断りしたものの、押しが強かった。
そのため、なんとなく気持ちが乗らないまま入会してしまった。
月1回支部の例会というものがあるらしく、参加するよう誘われた。
これまた気乗りがしないままに出席した。
どうせ大して面白くもない集まりだろう、はっきり言ってお通夜みたいなしんみりし
た感じだろう、顔だけ出して早々にお暇しようと思っていた。
会員の方はほとんど私よりかなりの年上のご高齢の方々。
私の思い描いていたものとは裏腹に会は陽気に満ち溢れていた。
いい意味で裏切られた。
皆さん明るく親切な方々で私を快く迎え入れてくれた。
そこには同年代の女性が一人おられた。
彼女はとまどい気味の私にやさしく声をかけてくれた。
彼女には教わることも多くお世話になりっぱなしだ。
同年代とのつながりは本当にありがたい。
その後さらに同年代の女性の方2人との出会いもあり、良き交流をしていただいてい
る。
これらの出会いがうれしかった。
同行援護という制度を知り、ガイドヘルパーさんに助けていただきながらさらに出か
ける機会も増えた。
「このままではダメなんじゃない?私」
ある日ふと思った。
私は実家の部屋で何する事もない刺激のない毎日を送っていた。
訪問訓練も終了しこの先のビジョンがあるわけでもなかった。
ここでやっと未来の私に危機感を抱くようになった。
このままではいけない、何か始めないと、このまま人生が終わっていくなんて嫌だ!
でも何がやりたいのかがわからない、私自身の未来予想図が描けない。
新しいことを始めたい、でも、さてそれが何かわからない。
私は地元が好きだし離れたくない。
せっかく友達もできた、ずっとこの町で暮らしたい。
しかしこのままじゃ何も変わらない、どうしよう。
ここで数年前鳥居寮に入所する話があったことを思い出した。
もっといろんな訓練を受けてみたいと思い始めた。
いやで逃げていた点字も、ちゃんと向き合っていかないといけない、そう思っていた
。
すべてにおいてもっと私自身をアップデートしていかなくてはいけないんだと。
だから入所することに決めた。
「こんなはずじゃなかったんだ」
鳥居寮に入所して1年がたち日々訓練に励んでいる。
寮生活も訓練も環境にもずいぶんと慣れてきた。
歩行訓練以外はそれなりにスキルが上がってきていると自負している。
歩行に関しては出来ない自分に情けなさといら立ちしかない。
頭で地図を描くのが苦手、確認を取るのも曖昧、白杖の使い方も雑。
もともと身体能力もなくどんくさい私には果たして安定した歩行能力が身につくのだ
ろうか。
半年がたったころ(コロナ騒動)が全国的に。鳥居寮にも影響が。
当面の行事はすべて中止となる。仕方がないことだがさみしいものだ。
人と交流する機会も減り、1人でいることが多くなった。
そうするとつい余計なことを考えてしまう。
そんな時は大抵よくないことが浮かぶ。
今、人付き合いの難しさに悩んでいる。
もともと苦手なほうだけど。
訓練に来た頃は当たり障りのないように無理して明るく振舞っていた。
そもそも人見知りで根暗な私が背伸びした振る舞いをするなど、長続きするはずもな
い。
やはり人間の性格なんてそう簡単に変わらないようだ。
無理するのはやめようと思った。
そして最近私は疎外感や虚無感を強く抱くようになった。
果たして私は別にこのグループの中にいなくてもいいのでは?という思いが生じたり
、良かれと思ってしたことが他人にとってはただ迷惑なだけとか、急にわけもなく疎
遠になったりとか。
そんなことは勝手なただの思い過ごし、わかっている。
私は思い通りにいかないことを理不尽に他人のせいにしているだけなんだ。
メンタルが弱い卑怯者でくそやろーなのだ。
かつてある盲聾の女性の方が言われた言葉が、今強く心に響いてくる。
「目が見えない、耳が聞こえない、歩けないでもない、
本当の障害とは孤独、孤立なのだ」と。
こんな思いのまま時間を重ねれば、いつか人の輪に溶け込めず孤立していくだろう。
孤独は嫌だ、もっと楽しく人付き合いがしたい。
とにかく余計な雑念は捨てないと、また昔のように心の中にサビと泥がついてしまう
。
わかっている、わかっているんだ。
でも、私の今のメンタルではそんなことは到底できやしない。
人間としての器が伴っていないのだ。
「こんなはずじゃなかったという気持ちは果たして?」
今私はすべてにおいて自身のコントロールができないでいる。
それゆえ他人を知らぬ間に傷つけてしまっているだろう、おそらく。
数日前から(テレフォンカウンセリング)を受けている。
早くもっと素直に生きられる自分を取り戻したくて。
再びついた心の中のサビと泥を取り除きたくて。
一度失ったものは取り返せない私の行方。
もって生まれたものは捨てられない私の行方。
行方を探しに常に私は人生の迷い道をくねくねと歩み続ける。
これから先もずっと、本当の私にたどり着けるように。
「こんなはずじゃなかったって思わない私に出会いたい」
ね、そうだよね、私。
私はこれまで自身のことをあまり語るほうではなかった。
文章という形にしたのも、おそらく今回が初めてだ。
書き終えると、なぜか安堵のため息が漏れた。
そして、このメロディが遠い記憶の底から流れてきた。
それでもいつかはここから抜け出してみせるんだとつぶやいて飲み込んで悲しいけ
ど…これが今の力
色のないため息ひとつ 風はこんな私を許してゆく
そしてまたもう一つ、
それでも やっぱり きっと私はここに戻ってくる
わかるから 自身だもの 意気地のない弱い私だから
宛てのないため息ふたつ 今はまだここから動けない
あーぁ、ため息♪
なぜだろう、いつの間にか、
なぜだろう、弱弱しくも、
つぶやくように、私は歌っていた。
編集後記
本当の自分を誰かにさらしたい、でも、その相手が誰でもいいわけじゃない、とこ
とんくらーい部分、かなりドロドロなまま書いてみよう、頭に思うことはあるけれど
、なかなか書き出せないでいる、どう書けばいいのかも道が見えない、書いてみよう
という思いがありながらもいざとなると書けない。
うーん、うーんとうなる日々の中から「こんなはずじゃなかった」というまっすぐな
言葉が出てきたようです。
そして、ネガティブ全開を宣言するものの、「いつかの私」を描く背中、歩く背中を
見せてもらいました。
一緒に「ふー」と大きなため息をつきながら、なんだかデトックス、そんなすがすが
しさもありました。
次回の「私の行方」では何が見えるでしょうか。また、いつか。
-- このメールの内容は以上です。
発行: 京都府視覚障害者協会
発行日: 2020年10月2日
☆どうもありがとうございました。