メルマガ色鉛筆第50号(「リハビリテーション」)
(「リハビリテーション」)
ペンネーム 赤ら顔の酔っ払い(60代 男性 全盲)
レポートの要旨です。
職業リハビリを通して、からだのリハビリやこころのリハビリを続けてきたように思う。
盲学校でのいくつもの印象的なこと、それらはわたしがその後、何かしようとするときのエネルギーになってくれた。
ここから本文です。
日常生活のADLを上げることを「からだのリハビリテーション」、手に職をつけることを「職業リハビリテーション」、
障害を受けいれこころの落ち着きを取りもどすことを「こころのリハビリテーション」と言いあらわしても、
それぞれはお互いに切り離せない関係にある。
わたし自身は、働くためには何をしたらいいのだろうか、働き続けるためにはどんなふうにすればいいのだろうかと右往左往しながら、
職業リハビリを通してからだのリハビリやこころのリハビリを続けてきたように思う。
盲学校専攻科では、同級生や上級生は視覚障害の先輩であり、
なによりもわたしに「生きるコツ」を教えてくれる存在だった。
また、教員は多士済々であり、みんな驚くほどの個性を持っていた。
その中で、全盲でありながらいくつもの特許を持ち、
わたしに自動お灸装置の設計図を見せて、これを作ってほしいと言ってくれたのはA先生だった。
科学好きで、とても優れた知識を持たれていた。
わたしは、よろこんでそのお灸装置を作った。
もちろん、実用にはならなかった。
A先生の特許の中で、一番感動したのは「インビジブルムービー」であった。
昼間の明るさの中で、偏光メガネをかけた人だけがスクリーンの映像を見ることができるというアイデアであった。
結局、これも実用化されることはなかった。
しかし、目の見えないA先生が昼間でも見える映画のことを考えている!と思うと、それだけで勇気がわいてきた。
ほかにも、言い出せばきりがないほどの驚きを先生たちは与えてくださった。
理療科の授業が始まって間もなくのこと、全盲のB先生が黒板に向かってチョークで達筆な字を書いた。
あれっ!と思っていると、途中から字が重なったりしている。
そんなことかまわないと思った。
目が見えなくても字が書けるという大事なことを教えてくれた。
そのころ、わたしはまだ黒板の字が読めた。
試験も墨字で受けていた。
しかし、いつかは見えなくなるという不安から逃れられずにいた。
また、解剖学担当のC先生に連れられて医科大学の解剖実習見学にいったときも驚いた。
「これが坐骨神経や」とか「これが大腿動脈や」などと、手で触りながらわたしたちの手をとって教えてくれた。
普段の教室内の授業では点字の教科書を読みながらいびきをかいて眠ってしまうほどのまったりしたC先生が、
見違えるほどまばゆく感じた。
それらすべてが、わたしがその後、何かしようとするときのエネルギーになってくれた。
「できそうにないこと」も、できるかもしれないと思わせてくれたのだった。
これらは、わたしにとっては「こころのリハビリテーション」そのものであった。
そのおかげか、60歳を超えてからも、できそうにないと思っていたことにいくつか挑戦することができた。
ひとつは、「点字」である。
今では、寝る前にも朝起きたときにも、点字の本やブレイルメモポケットをおなかの上において点字に指を滑らせている。
ふたつめは、盲人囲碁である。
若いころやっていた一般の19路盤ではなく、
オセロのような小型の9路盤の上で黒と白の石を並べていく。
といっても色は見えないので、黒石には出っぱりやへこみがつけてあり、白石はなめらかに作られている。
毎月愛好者がふれあいセンターに集まって、指で探りながら地味に楽しむのだが、なんともいえない至福のときである。
そんなことを重ねながら、今を生きている。
編集後記
障害者 = 不自由な人、と思っているのが、
障害者 = 障害のある人 = 不自由のある人、と変わることがあります。
同じようでありながら、そう変わると次は、
不自由のある人 = 不自由はあるけれど、もちろん自由もありますよ、につながっています。
そして、まだこの続きがあります。
それは、出あった人からまたひと味ちがった自由のあり方を学ぶことです。
「60歳を超えてからも、できそうにないと思っていたことにいくつか挑戦することができた」、
「地味に楽しむのだが、なんともいえない至福のとき」、
これも、またひとつ、さらにもうひとつ、ひと味ちがった自由のあり方を示してくださったと思います。
わたしたちは不自由もたくさん体験しますけれども、そうだからこそ自由を知ることができるのでしょう。
-- このメールの内容は以上です。
発行: 京都府視覚障害者協会
発行日: 2015年9月11日
☆どうもありがとうございました。