(原本では20ページにある目次を、このテキストデータのファイルでは最初に配置しています。) 目次 ※アイキャッチについて (原本では)各ブロックごとに形の異なるマークを配しています。その中にページ番号を記しています。 自分の見え方見えにくさを知ろう 〜イラスト編〜(2ページ) はじめに/小寺洋一(19ページ) 第1章 人と情報につながることからはじまる一歩へ(アイキャッチは丸型です) 歩行 勇気を出して踏み出せば 点字ブロックは私たちの道しるべ(26ページ) 白杖を棺桶に入れる覚悟はあるのか(28ページ) 制度 情報 活用しよう サービス 支援機器 だれがこおりをとかすの?(31ページ) 見えないのではなく見てはいけない(34ページ) 私と京都ライトハウス(37ページ) 工夫 楽しく暮らしたい 触れる 聴く 味わう 匂う 感じ方いろいろ 食べる私(40ページ) 現状と妄想 (44ページ) バリアがいっぱいのデート(49ページ) 点字で開くワンダーランドへの扉(51ページ) メイクと私 (53ページ) 見え方体験フォント1 明朝体  見えない・見えにくい五七五(58ページ) 第2章 光を求めてさらに一歩(アイキャッチは四角です) 教育 ハイテク アナログ ツールはいろいろ ぼくらのキャンパスライフ(64ページ) 就労 私たち働いています もともと見えにくかった、さらに見えにくくなった私、どうにかこうにか奮闘中(69ページ) 見えにくくなって仕事を辞めた時の思いと今(73ページ) 休職して気づいたこと今になって見えたもの(76ページ) 見える人の中で働くということ(82ページ) 障害者いいやつばかりじゃない(85ページ) 結婚 一人より二人で 色鮮やかに描き出せ(89ページ) 見え方体験フォント2 ゴシック体  見えない・見えにくい五七五(92ページ) 第3章 自分らしさを求めて(アイキャッチは花型です) 余暇 趣味 スポーツを楽しむ まわりを巻き込み、楽しんで(96ページ) 夢中囲碁在り(99ページ) 人生の伴走者(パートナー)とともに(103ページ) こんなことやってみた。すると 〜ヨガ編〜(106ページ) ブラインドテニスを楽しむ(108ページ) 見え方体験フォント・ 教科書体 見えない・見えにくい五七五(112ページ) 第4章 見えにくさってどんなこと、つながって、分かち合って(アイキャッチはひし型です) ロービジョン 見えにくい世界で見えるもの 私にとっての笑い、あなたにとっての笑い(116ページ) 見えている今のうちに(120ページ) 写真、苦手にはなったけれど…(122ページ) 共感 安心して語る 傾聴する 仲間との出会いに支えられ 弱視あるあるを共有する「まあまあ見える、そのリアル」(125ページ) 弱視あるあるを共有する「見えにくいってあれこれ微妙」(128ページ) 弱視あるあるを共有する「見え方、見えにくさを説明するのって難しい」(133ページ) 見え方体験 読み速度 いろいろなフォント ボタン(138ページ) 第5章 絆、素顔のままで語らせて(アイキャッチはハート型です) 自己受容 心に鏡を置いてみた、すると 機(はた)を織る人(142ページ) 人生万事塞翁が犬(144ページ) 父の日(146ページ) 次に変わるのは(148ページ) 愛しき My bitter home(151ページ) ゆっくりゆっくり私とおしゃべり 気付けば可能性はすぐそばに(155ページ) 最後の一皿(158ページ) 見え方体験 読み速度 いろいろなフォント 君の名は(160ページ) 第6章 言葉のつばさ(アイキャッチは六角形です) 創作 文章で描く世界 そこに見えない壁はない ともだち(166ページ) いざ、立ち食い寿司屋へタイムスリップ(170ページ) エール セルフケア応援団 へこたれつつ絵筆、へこたれてもゆるくイラスト体験を/まるこいなお(174ページ) 心の言葉たち/福場将太(176ページ) 当事者の方達の熱意と底力に乾杯/吉野由美子(178ページ) おわりに  寄り添い歩き言葉を編む、それが力になる/石川佳子(182ページ) 表紙説明(本には187〜189ページに表紙・中表紙・裏表紙の説明がありますが、テキスト版では各箇所で説明を入れています) 推薦の辞(190ページ) == (表紙) 見えない地球の暮らし方 見えない・見えにくい人のリアルな日常レポート集 メルマガ色鉛筆チーム 編著 表紙の説明  表紙全体の背景色は紺色、文字は白です。上5分の2にロゴと文字、その下5分の3にイラストがあります。  左上に色鉛筆の切手の形のロゴがあります。ロゴの説明をします。正方形の切手型、縁取りは切手のぎざぎざになっていて、その部分は水色です。白背景に「メルマガ色鉛筆」の文字があり、「色鉛筆」の文字の中に鉛筆型のオレンジ色のキャラクターがデザインされています。  表紙の一番上、左角にロゴ、その右に「見えない地球の暮らし方」と左寄せで書かれています。切手の下行にサブタイトル「見えない・見えにくい人のリアルな日常レポート集」、その下行に「メルマガ色鉛筆チーム編著」と中央揃えで書かれています。  イラストは横長のスケッチブックの白いページと人の手、色鉛筆2本です。スケッチブックはやや右下がりに配され、上に閉じリングがあります。右上から左下へ向かって裾広がりに3本の淡いブルーの流れるような線が描かれています。その上に色とりどり、大きさや形もさまざまな葉っぱが色鉛筆で描かれています。葉っぱは線描きだったり、色を塗りこんであったりします。スケッチブックの下部分の左右に手のひらが上を向いた状態で両手が添えられています。葉っぱはスケッチブックの上だけでなく、スケッチブックから飛び出していたり、手の上に乗っていたりします。スケッチブックの左側面からスケッチブックの上に緑と黄緑の色鉛筆がそれぞれ1本ずつ芯を上にして斜めに添えられています。  風に吹かれて飛んできた葉っぱが白いページの上に舞い降りています。さらに、スケッチブックから飛び出していく、手のひらに舞い降りてくる、手のひらから飛び出していくかのようです。色鉛筆で語る人、聴く人、送る人、受け取る人をイメージしてデザインしました。 (中表紙) (1ページ) 中表紙の説明  本書を開いて最初のカラーページが中表紙となっています。背景は白、書名『見えない地球の暮らし方』の文字をいろいろなデザインにしています。  「見えない」は上から下へ向かって濃くなる紺色のグラデーション。  地球のイラストは、海は水色で、中心から外へ向かって濃くなるグラデーション、陸地はくっきりした黄緑色、紺一色で書いた地球の「地球」の文字を地球のイラストと重ね、透過させています。  「暮らし方」の漢字部分は紺と水色のマーブル模様、平仮名は水色で、紺色の縁取りを入れました。  全体的に漢字を大きく平仮名を小さくし、文字を右や左に自由に傾け、並べ方も横一列でなく上にいったり下にいったり。   そして、イラスト担当のまるこさんの描いたハートの葉っぱを、大きさや角度、色をさまざまに変化させて全体に散らしました。  ここにじっとしてなんかいられない、そんなエネルギーを秘めた、今にも走り出しそうなイメージでデザインしました。 メルマガ色鉛筆チーム 晴眼スタッフ (2ページ) == 見えにくい 認識は無理 何かが見えるような気がする これがわかりやすい どれが私向き ? 自分の見え方見えにくさを知ろう 〜イラスト編〜 見たいと思う対象物と背景のコントラスト 対象物の輪郭の有無 目立つポイントの有無 線と面の認識 色の違いによる認識 紛らわしいものの有無 視認以外の情報の有無 視野の意識 眼の動かし方 (3ページ)  左記のような環境の違いによって、見やすい、見えにくい、見えないなどの状況は変化します。また、何かしらは見えるけど、それが何かまではわからないという状況もあります。視力は特別悪くはないから、ものが見つけやすい、視野がせまいから探し物は難しい、見え方はそう単純に仕分けできるものではないようです。   お天気に関係なく霞がかかったような視界だったり、針の穴をのぞくような視野だったり、左半分しか見える部分がなかったり、見える部分がまだらでそこにピントを合わせるだけで一苦労だったり、周辺だけ見えるので、いつも少し首を横に向けていたり、じっと見ていると頭が痛くなったり、まぶしさで目を開けているのがしんどかったり、いろんな状況が個別に存在します。   また、同じイラストでも対象物の環境により見えるもの、わかりにくいものは微妙にちがってくるようです。   背景・ヒント・見る前の情報の有無などによる環境の違いから、自分の見える、見えにくい、見えないを比較してみましょう。そして、目の使い方、どこを起点にして視野をずらしていくかなど、見るための工夫について考えてみましょう。   体験素材のイラストは、視力0.04のまるこいなおさんの作品です。類似のイラストを何枚も描くために、視野の狭いまるこさんは、イラストのシルエットの型を作成するなどの工夫もされました。   見え方・見えにくさは多様です。自分にとっての見やすさ、見えにくさってどういうことだろう、カラフルなイラストを通して探索してみましょう。 (4、5ページ) 自分にとっての見やすさ、見えにくさってどういうことだろう ひよこさんがいっぱい編 コントラストの有無、ポイントの有無、枠の有無  さまざまな条件を比較してみよう どれがわかりやすいかな? よくわからないけど、 かろうじてシルエットだけわかるのはどれかな? 背景の色のちがい ひよこさんの輪郭の有無 ポイントとなる目、口、足の有無  背景とのコントラストはないからひよこさんの輪郭はどこかわからないけれど、ポイントがあるからなんとなくわかるとか、ポイントも輪郭もないけど、背景とのコントラストがくっきりしているからシルエットだけでひよこだとわかるとか、最初にひよこだってわかっているから、色も形もぼんやりしかわからないけど多分これひよこかなとイメージできるとか、自分の見え方・見えにくさを探索してみましょう。 (絵の説明)  コントラストがあったり、輪郭があったり、なかったり、目とくちばしがあったり、なかったり8種類の絵がああります。 (6、7ページ) 自分にとっての見やすさ、見えにくさってどういうことだろう 線と面編 コントラストの有無   面だとわかるけど線だと何色かわかりにくい  コントラストが低いと線がわかりにくいとか、コントラストは低いけど面だと何かあることがわかるとか、面になったら、線と同じ色かなとイメージできるとか、この色なら線でも色がわかりやすいとか、全部もやもやとしかわからないとか、色はわからないけど形はわかるとか、色も形もわからないけれど、何かがあるような気がするとか、何色かはわからないけど、どっちが濃いか薄いかはわかるとか。 自分にとっての線と面は、どんな見え方・見えにくさだったでしょうか? (絵の説明) ピンクの線と面が4枚 ブルーの線と面が4枚 さまざまな色の線と面が1枚 (8、9ページ) 自分にとっての見やすさ、見えにくさってどういうことだろう 赤と緑のプレゼント編 得意な色、苦手な色、色の区別について考えてみよう  色の区別が苦手な人がいます。赤と緑だけがわからない人もいます。淡い色どうしだとわからない、暗い色どうしだとわからないという人もいます。   色名はわからないけど、暖色、寒色、濃い、薄い、鮮やか、くすんだ、ツヤの有無などはわかるという人もいます。   赤と白、緑と白、赤と緑の順に、プレゼントのイラストを見てみましょう。   赤とか緑とかくっきりした色はわかりやすいとか最初に赤はこれ、緑はこれ、下記の絵の説明(1)と(2)で確認したから、(3)の赤はどこが赤、どこが緑かがわかるとか、(1)は赤、(2)は緑と説明されても赤か緑かわからないとか、(3)は(1)、(2)の後に見ても、やっぱりどっちがどっちかわからないとか、マークやポイントは、色で区別させようと意図的に使われることが多いです。   自分にとってわかりにくい色、わりと判断しやすい色が何か、探してみましょう。また、苦手な色でも、これとこれはお友達の色という感覚で色を感じることができるかもしれません。   色名がわからなくても、きれいだなとか、好きだなあという色が何色か知っておくだけで、色を楽しむきっかけになるかもしれません。   ポストは赤だと決まっているから赤、葉っぱは緑だと決まっているから緑、それも色の感じ方の一つかもしれません。   得意な色、苦手な色、自分にとっての色の区別について考えてみましょう。 (絵の説明) 紛らわしい赤と緑の区別を次の3枚の絵で体験 (1)赤と白のプレゼントの絵が1枚 (2)緑と白のプレゼントの絵が1枚 (3)赤と緑のプレゼントの絵が1枚 (10、11ページ) 自分にとっての見やすさ、見えにくさってどういうことだろう カラフルリーフ編 イラスト1 いろんな葉っぱの中からハート型の葉っぱを探してみましょう。 イラスト2 イラスト1からハート型の葉っぱだけを抜き出してみました。 イラスト3 ハート型の葉っぱだけをビビッドカラーにしてみました。  似たようなトーンの、似たような大きさのものがある中から特定のものを探すのはややこしいけど、周りがすっきりしてさえいれば、一つ一つの形はわかりやすくなります。   また、周りにいろいろあっても、特徴のあるトーンやコントラストがあることで、そのものの形が際立ちます。   対象物は周りに溶け込むと目立ちにくくなりますが、周りの雑音をカットするとわかりやすくなります。 なんだかもやもやありそうだなとかあれ? なんか模様が減ったみたいとかもやもやしてるけどここ目立つなあとか形のちがいだけで見分けはしにくいなあとかそれだけ取り出せば形の特徴はわかるかもとかどれもこれももやもやしてるだけとか  雑音の有無、コントラストの有無で、自分の見え方・見えにくさにちがいはありますか? (絵の説明) イラスト1 緑、薄緑、水色、薄水色、ピンク、薄ピンク、黄色など13枚の葉っぱ イラスト2 薄ピンク、黄色、緑など3枚の葉っぱ イラスト3 ピンク、紫、水色、薄水色、緑、薄緑、黄色など13枚の葉っぱ (12、13ページ) 自分にとっての見やすさ、見えにくさってどういうことだろう イラストしりとり  イラストでしりとり遊びをしながら目をなめらかに動かしてみましょう。しりとりは1枚ごとに2通りです。自分の視野を意識しながら、ゆっくりとなぞるようにイラストを見てみよう。 しりとり1 スタートはひまわりからです。5つ目がトマトになるようにしりとりしてみよう。 しりとり2 スタートはひまわりからです。5つ目のイラストの名前は「●●ン」になるようにしりとりしてみよう。 答えはこのページの一番下にあります。本を上下さかさまにすると、答えの文字が読めます。 答え しりとり1の答え ひまわり→リンゴ→ゴリラ→ラケット→トマト しりとり2の答え ひまわり→リス→スイカ→カメ→メロン (14、15ページ) しりとり3 スタートはひまわりからです。5つ目がラクダになるようにしりとりしてみよう。 しりとり4 スタートはひまわりからです。5つ目のイラストの名前は「●ーチョ●●ー」になるようにしりとりしてみよう。 答えはこのページの一番下にあります。本を上下さかさまにすると、答えの文字が読めます。 答え しりとり3 ひまわり→リス→スイカ→カメラ→ラクダ しりとり4 ひまわり→リンゴ→ 5時→ジグザグ→グーチョキパー (16ページ) 自分にとっての見やすさ、見えにくさってどういうことだろう 蛍光ペン 文字の見え方を体験してみよう 蛍光ペンの色、ラインがわかりやすいのはどの色でしょうか。 色はわかるけれど文字が見えにくいと困りますね。 ラインが引かれていることがわかり、文字もよく見える蛍光ペンの色はどれでしょうか。 まずは、10.5ポイントの「明朝体」で体験してみよう。 次は、太字の「明朝体」28ポイントで体験してみよう。 この両手 この目支えし 揉み手する(薄いピンク色の背景) 目をとじて 食べたら うまい 味自慢(薄い水色の背景) この両手 この目支えし 揉み手する(薄い黄色の背景) 目をとじて 食べたら うまい 味自慢(薄い緑色の背景) == (17ページ) 見えない地球の暮らし方  見えない・見えにくい人のリアルな日常レポート集 メルマガ色鉛筆チーム 編著 (18ページ) この本に多くのみなさんが賛同し寄付をしてくださいました。そうして集まった資金によりこの本は誕生しました。 (19ページ) はじめに  見えない・見えにくいというのはいろいろたいへん。たいへんな中、この世界に暮らす私達ですが、日々、いろんな経験をし、いろんな思いをしながらやっていて、そこにはいろんな発見もあります。そんな私達、当事者の声をメールマガジンにして配信することにしたのがメルマガ「色鉛筆」です。 「色鉛筆」にたくさんの人が当事者の声を書いてくれました。そこから生まれたのがこの本です。メルマガ色鉛筆のセレクションになっています。見えない・見えにくいというのは非日常、当事者の声が集まって本になるというのも非日常です。そう思ったらつながったのが非日常の「祭」でした。ぜんぜんちがうのにつながりました。祭は晴れ晴れしく、この本もちょっとそういうところがあるからかも知れません。ですが、晴れだけではなく曇りや雨の面も入っています。それが当事者の声ならではのことだと思います。 読んでみてください。スペシャル付録のカラーページもご覧ください。気が向く範囲で祭に加わってください。見えない・見えにくい世界に感じるのはどんなことでしょう。真っ暗闇だったのが少しばかり彩り…少なくない彩り…やがてはたくさんの彩りが感じられるよう願っています。  2021年春 小寺洋一 == (25ページ) 第1章の扉 第1章  人と情報につながることからはじまる一歩へ(アイキャッチは丸型です) 歩行 勇気を出して踏み出せば 制度 情報 活用しよう サービス 支援機器 工夫 楽しく暮らしたい 触れる 聴く 味わう 匂う 感じ方いろいろ (26ページ、27ページ) 歩行 勇気を出して踏み出せば 点字ブロックは私たちの道しるべ ペンネーム/水色ダンボ(40代 全盲 女性)  はじめまして。水色ダンボです。普段、私が外出するときは、相棒の盲導犬ダンボとともに二人五脚で出かけます。  ある日の午後。JR京都駅のプラットホームで電車を待っていたとき、次のようなアナウンスが耳に入ってきました。  「黄色い点字ブロックの内側でお待ち下さい。点字ブロックは、目の不自由な方々のための道しるべです。物を置いたり、その上に立たないで下さい」  それは、既に録音された音声によるもので、ゆっくりとした口調で、構内に流れました。私の心の中にも、静かな熱い感動が広がりました。点字ブロックのことを、みんなにとってわかりやすい「道しるべ」という身近な言葉で例えてあったことが心に深く残ったのだと思います。  「みんなで駅を移動する視覚障害者の安全を確保しようよ。協力しようよ」  そんなエールにも思えたのです。  ふと、この点字ブロックの誕生について、興味を抱き、調べてみました。発明したのは、岡山の三宅精一さんという方でした。今や、国内外に普及している点字ブロックの発祥は、なんと私たちが住む日本だったのです。三宅さんが飼っていたセントバーナードのつがいから生まれた子犬がきっかけで、日本ライトハウス元理事長の岩橋英行さんと交流されるようになり、二人の親交は、世界中に点字ブロックを普及する原動力となっていったのです。  1973年2月1日に、山手線高田の馬場駅で、一人の視覚障害のある男性がプラットホームから転落し、電車にはねられ亡くなられました。プラットホーム上の安全対策を求めて、旧国鉄に対しての訴訟とその運動が全国に広がりました。その運動のおかげで、急速に、駅のプラットホームに点字ブロックが敷設整備されるようになりました。この視覚障害者の安全を求める運動の中で、運動を推進されていたある方の言葉が大勢の人たちの共感と賛同を得ました。それは、「視覚障害者にとって、駅のプラットホームは欄干のない橋と同じくらい危険である」というものでした。この言葉は、今でも、多くのホームドアや可動柵のないプラットホームで当てはまるのではないでしょうか。  今、私は、三宅さんが開発された点字ブロックの恩恵を受け、足裏で点字ブロックを踏みしめながら、ダンボとともに、以前とは比較にならないほど、安全に移動できています。多くの方々がご尽力されたおかげで、道路や駅のプラットホーム、構内と、あらゆる場面で点字ブロックが市民権を得て拡がっています。  2月1日は、高田の馬場駅で転落死された男性のご命日です。その尊い命の重さを忘れずにいたいと思います。心からご冥福をお祈りします。そして、これからも、点字ブロックの整備がさらに改善され、私たち視覚障害者のみならず、みんなの安全を確保するものへと発展していってほしいと願っています。    フォント:UD新丸ゴDB(サイズ16pt 行間8pt 字間−25) (28、29、30ページ 白黒反転) 歩行 勇気を出して踏み出せば 白杖を棺桶に入れる覚悟はあるのか ペンネーム/電線に引っかかったパールホワイトの風船(50代 男性 光覚)  私にとってそれは急な出来事だった。「あれ、老眼かな?」と思いながら、遠近両用メガネを買いに行った。その時、視力が測れませんと言われた。店の測定器が潰れているのかとか、少し疲れているのかとか、どうしたんだろうと思うぐらいだった。しばらく日を空けて、メガネ量販店ではなく専門店に買いに行こうと考えていた。  けれど、そんな安易な考えは吹き飛んだ。数週間前までは問題なく通勤ができていたありふれたサラリーマンだったのに。2年前に見える世界から遠ざかり、少しの光と濃淡が分かる程度の世界に迷い込んだ。これからの人生どうなるのだろうかと、他人事のように考える時間を過ごした。『死ぬ』という恐怖心ではなく、軽々しく『このまま』を選択してしまった。  そう決断してから、複雑な気持ちは続いた。白杖を渡されたとき、白杖を持つこと=障害者になることの嫌悪感、白杖を持つこと=自由に歩き回れるという希望感、両方が混在していた。希望感は引き波でさらわれ、嫌悪感は寄せ波で迫ってくる。思い通りにはいかず、嫌悪感がつきまとう毎日だ。  バスに乗ると「座りますか?」と声をかけてもらえる。その時に「大丈夫です、立ったままで」と応える。「大丈夫じゃないから言ったのに」という声を耳にしてしまうことがある。心の中だけでつぶやいていてほしかった、どんな嫌な顔をしててもよかったので。  私が一人で吊革を持ってバスに乗っている姿は、そんなに不安定に見えるのか。どことなく居心地の悪さを感じながら、ずっしりとした気持ちに潰されそうになる。つくづく思い知らされる、『視覚障害者』であることを。  白杖は必需品だとわかっているつもりだ。しかし、白杖を手にしたところで、自由に行きたい場所にはなかなかたどり着けず苦しんでいる。白杖に地面をなぞらせながら、時には突きながら、少年時代に夢中になったアニメ主題歌が蘇る。「空を自由に〜〜」。  そして考える。白杖はいつになったら私を相方として受け入れてくれるのか。どうしたら相方の言葉が聞き取れるのか。どうしたら相方のしぐさが分かるのか。いつになったら心が通い合うのか。いつになったら寄り添ってくれるのか。相方は進む方向を伝えようとしてくれているのかもしれない。しかし、その伝えてくれている思いの数%しか右手は受け入れていないのか。  それともやはり相方として認めてくれていないのか。白杖は白杖であり、私の気持ちは聞き取ることができないのか。相方と一緒でないと外には出られない。しかし、嫌悪感を感じているうちは通じ合うものはないのだろうか。  一人で点字ブロックや縁石を伝っているときに「ここはどこ」「どちらに行ったらいいの」と思い悩む。必死に相方からの声を聴くようにするのだが、聞き取れない。「この点字ブロックが進む方向なのか?」と相方と一緒に同じところを行き来する。相方の声が聞こえる前に周りの人から「どこに行こうとしていますか?」との声をかけてもらえる。その言葉に甘えて相方の声が聞こえなくなる。相方の先端は地面から離れたままになる。そして、声をかけてくれた人と一緒に行きたい場所に到着する。こんなふうに気持ちがこもっていない振る舞いをすると、仲良くなろうとしても相方は声を出してくれないのだろうか。  決して相方の悪口を吐き出しているわけではない、ただただ、自分の未熟さを嘆いている。言い訳とは受け取らないで! たぶん、相方は気が付いているはず。初めての場所、迷ってしまったとき、脈拍が高くなり、体温が乱高下していることを。ほくそ笑んでいるのか、頑張れと伝えようとしてくれているのか。…わからない。  相方と一緒に進み、行き先を確認すると相方は大きな音を鳴り響かせることがある。相方が何かを伝えようとしてくれているのではなく、私の右手のミスだ。そんな時も「大丈夫?」と、私は相方を気遣うこともない。相方が当たってしまった物に「ゴメン!」と思うだけだ。相方にはいたわりの言葉をかけていない。これからは、家にたどり着いたら「ご苦労様、ありがとう」と声を掛けるようにしよう。言葉を交わせるようになれるかなぁ〜。相方と一緒に「〜行けたらいいな」、あのメロディとリズムで。  今日も、相方と一緒に灰になるまで歩んでいく努力を続けよう。相方も最期には一緒に灰になってもいいと思ってくれていますように。この人生、相方と一緒に全うすることができたなら。次の人生、白杖はお墓に閉じ込め、自由に歩きたい。そして、白杖を相方にしようとしている人にやさしい声をかけられる、そんな人になっていたいと想う。  フォント:UD新丸ゴDB(サイズ16pt 行間8pt 字間−25) (31、32、33ページ) 制度 情報 活用しよう サービス 支援機器 だれがこおりをとかすの? ペンネーム/春色の毛布(50代 女性 弱視)  「だれがこおりをとかすの?」、それは、レオレオニの絵本『フレデリック』をもとに作られたとてもかわいい歌です。私はこの歌が大好きでした。この歌をお昼寝の時に歌い、スヤスヤ眠りにつくこどもたちの姿を見ることに幸せを感じていました。私は保育士として 20年余の年を重ね、天職と感じていました。  2年前の夏、仕事中に目に異変を感じ、手術を受けましたが、視力は回復しませんでした。園長は私の復職を願ってくれましたが、翌年の3月には退職せざるを得ませんでした。こどもの安全を大切に考えると、つらくても苦しくてもこの選択しかありませんでした。  そんな私を、友人が夜桜見物に連れ出してくれました。また、姉から「長いことお疲れさまやったね」とやさしい言葉をかけてもらいました。2人の気持ちに涙がこぼれました。  私は大好きな保育から離れ、いくつもの思い出にカギをかけてしまいました。歌うこと、絵本を見ること、ピアノを弾くこと。大好きだった絵や文字を描く用具はほとんど処分してしまいました。  ある日、私はかつての職場の先輩に呼び出されました。けっして言ってはいけない「死」という言葉を口にした私に、先輩は「その気持ちはわかるよ。でも、世の中にはまだ知らないおいしいものや楽しいことがあるよ。それを味わってからでも遅くないんじゃない」と言ってくれました。  またある先輩は、ふさぎこむ私に一喝。「ライトハウスを頼りなさい! 視力が悪くなったからではなく、あなたにとって何が見えるか、できることは何かを確かめるために」と。  京都ライトハウスはかつての職場に近く、私の姿をこどもたちや保護者の方に見られることに強い抵抗がありました。けれど、叱咤激励してくれる先輩が背中を押してくれたおかげで、私は京都ライトハウスにつながることができました。私の固くなった心に寄り添うように、さまざまなことを学ばせていただきました。  そんなある日、京都ライトハウスの近くで、卒園児のお母さんから声をかけられました。「先生!」、忘れかけていた私の呼び名でした。私は、そのお母さんに言葉少なに笑い返すことしかできませんでした。自分の現状を話すことができなかったのです。でも、どこからか神様の声が聞こえた気がしたんです。「もうそろそろいいんじゃない?あなたが思うほど周りはあなたばかりを見ていないよ。そのままの自分を伝えたら?」と。  ほどなく、京都ライトハウスを練習会場にしている和太鼓サークルに参加するようになりました。バチを手に太鼓をたたくと、以前習っていた感覚がよみがえりました。心と太鼓の鼓動が重なり合い、心地よい時間が流れました。  秋に開催された京都ライトハウスまつりでは、その演奏を披露させていただきました。訓練士さんやかつての同僚たちも見に来てくれました。私は、例えようのない喜びと心強さを感じました。また、演奏を終えた私に、保育園の時のお母さんが何人も声をかけてくれました。私は、現状を隠さず話すことができました。  もう私は大丈夫です。和太鼓の再始動をきっかけに音楽への関心が広がっていきました。保育園でこどもたちと歌っていた歌を口ずさめるようにもなりました。  ある時、『高校2年生と魔法の杖』というすてきなお話にイラストをつける機会をいただきました。水彩色鉛筆というものを訓練生の友達から教えてもらい、目をこらして描いた絵に色つけもしてみました。これをきっかけに、避けていた書店の絵本コーナーにも行けるようになりました。  習い始めた点字を読む練習にと、点字つき絵本の『フレデリック』を借りました。こどもたちにリクエストされて何度も読んだ『おつきさまこんばんは』も借りました。絵本を手にしたとたん、なつかしい友達に出会ったような温かい心持ちに包まれ、涙があふれました。  周りの方々の力を借りて、できるようになったこと、チャレンジしたいと思えることが多くなってきました。だれがこおりをとかすの?私は多くの方に支えられ、小さな心のこおりを一つ一つとかしています。今は、いちばん大きなこおりであるピアノを弾いてみたくてしかたありません。  年長組を担任していたころ、ピアノが得意ではなかった私は、仕事を終えてからよくピアノを練習していました。するとクラスのももかちゃんがそっと横に来て、「だれがこおりをとかすの?」をかわいい声で歌ってくれました。その声や光景は、今でも私の心の中でいきいきと輝いています。  もしもあの神様が私の目の前に現れてくれたなら、私は祈ります。「もう一度こどもたちと歌をつむぐことのできる、そんな瞬間を、いえ、そんな時間をください」と。もしこの願いがかなったのなら、私はこおりをとかすような温かな思いをこめてピアノを弾くことでしょう、涙の先に陽だまりを描いて。  フォント:UD新丸ゴDB(サイズ16pt 行間8pt 字間−25) (34、35、36ページ 白黒反転) 制度 情報 活用しよう サービス 支援機器 見えないのではなく見てはいけない ペンネーム/黒っく(40代 女性 弱視)  視力も視野もあるけれど見ることができない、眼瞼痙攣のお話をしたいと思います。私はその当事者です。白杖を使って歩いています。パソコンもスマホも画面読み上げ機能を用いています。ですが、障害者手帳は取れないのです。眼球使用困難症の運動団体を結成して、私たちを取り巻く状況の改善に取り組んでいます。  私は2010年に、ジストニアの一種である眼瞼痙攣という病気になりました。極度の光過敏があり、光の刺激で目の周辺の筋肉が痛くなったり、体調不良に見舞われたりします。中でも動く光に弱く、とにかく強い光と動く光を目に入れないように生活しています。外では電気熔接サングラスやアイマスクをして、日傘前倒しで、そして白杖で歩きます。室内ではカーテンを閉めていますし、パソコンもスマホも画面読み上げ機能を用いています。  ところで、私の光過敏は脳の機能障害が原因です。脳に機能障害があると、疲れやすかったり、痛みや音、においにも過敏になる傾向があり、私にもそのような症状があります。また、無理をして目を使うと、その時に限界を感じなくても、後から何日間、何週間も体調をくずし、へたをすると悪化したまま戻らなくなります。そのため、目で見ることに対して強い自制心が求められます。  しかし、視力・視野以外の障害ということで障害者手帳は取れず、障害年金も受けられません。盲学校に通って鍼灸師を目指そうとしましたが、受験も断られてしまいました。現在、眼瞼痙攣に対しては年金は障害手当金と定められており、最高でも3級どまりと決まっているのです。  2017年の2月に、井上眼科の若倉医師が私のような制度の谷間にいる視覚障害者に患者会をつくろうと呼びかけをされ、私もすぐに応じてさっそく活動を始めました。以来、「眼球使用困難症と闘う友の会」という患者会で障害者手帳を認めてもらう活動などをはじめました。厚労省や視覚認定見直し検討会の構成員に手紙を出すなどした結果、厚労省は「視力視野以外の視覚障害の障害を含めた調査・研究班を発足する」ということを決定しました。また、同年11月には、NHKの「視覚障害ナビ・ラジオ」で眼球使用困難症が取り上げられました。  ところで、私は国に助けてほしいと訴えているだけではありません。生活の質を自ら上げることにも尽力しています。   まず外出ですが、私は自分の意志で目を開けないようにせねばなりません。ですので、見たいけど見てはいけないという葛藤との戦いがありました。  例えば道を歩いていても、車や自転車が近づいてくると、それらを視界に入れないようしっかりと目を閉じねばなりませんでした。普通はそういう時こそそれらの存在を目で確認したいところですが、心して見ないように努めねばなりませんでした。過去形で書いているのは、今はすっかり慣れて、ほとんど周囲を見ることなく歩けるほどのスキルがついたからです。  初期の頃は、この「目を使いたい」という誘惑に勝つため、駅構内の点字ブロックのあるところをアイマスクをつけて歩いて盲人歩行の練習をしました。そうこうするうちに、電車の乗り降りもアイマスクをつけっぱなしで行うようになりました。そしてある時、数年の間歩くことができなかった地元の商店街を、スマホのナビを使いながらアイマスクで歩いてみました!すると、目的のお店にたどりつくことができたのです! この感動は今でも忘れません。  ところで、白杖を使い始めて初期の頃は一般のサングラスに黒布を入れて対処していましたが、2016年にはかなり強力な遮光効果のある電気熔接サングラスを使い始めたので、アイマスクを使うことは少なくなりました。それでも電車に乗る時は、外の光を点滅した動きとして感知してしまい、とても苦しくなるので、アイマスクをつけます。  また、パソコンやスマホの画面読み上げ機能を用いた操作も習得しました。これもやはり見たいけど見てはいけないという葛藤に勝つために、画面を非表示にして使うことにしました。おかげで今では IT機器に強くなって、読書やネット三昧の生活ができています。  しかし、私のような状況は希なケースです。多くの仲間は盲人スキルを身につけることができず、国からも助けてもらえず、きわめて制限された生活を余儀なくされているのです。  その後、私は2018年の8月に新たに「みんなで勝ち取る眼球困難フロンティアの会(G-frontier)」を立ち上げ、さらに活発に活動しています。翌年2019年1月にはネットテレビのAbemaTVでも取り上げられ、さらに2020年11月22日にはNHK「視覚障害ナビ・ラジオ」にて特集の第二弾が放送されました。  他にもさまざまな媒体で取り上げていただきましたが、私の5年にわたる障害年金裁判も2級さえも認められずに終わり、まだまだ厳しい状況です。私たちの活動を応援していただければ幸いです。  フォント:UD新丸ゴDB(サイズ16pt 行間8pt 字間−25) (37、38、39ページ 白黒反転) 制度 情報 活用しよう サービス 支援機器 私と京都ライトハウス ペンネーム/フェルメールブルー(70代 女性 弱視)  京都は、四季折々移ろう風景・音色・香りに息吹を繋いだみずみずしさ溢れる古の街です。この歴史ある佇まいの中に凛として「京都ライトハウス」はあります。ここでは障害を背負いつつ幅広い年代の人々が訓練を受けています。他府県や通所困難な人には寮も完備しています。ランチは少し薄味ですが、メニューは豊富で美味しいです。訓練は点字・パソコン・織物・歩行・iPhone・ADL・体育・墨字と数多くあります。また、サークルでは社交ダンス・俳句など積極的に活動しています。京都ライトハウスの施設と訓練の充実は日本一だと聞きました。この素晴らしい環境の中で訓練を受けていることが誇らしいです。  今から4年前の秋深き頃、突然視覚障害に繋がる大変なケガをしました。人生もラストランに差しかかる頃、視覚障害者になるとは私の晩年予想図にはありませんでした。病院で、医師は大きなため息をつかれ「治療はiPSしかありません」と、胸の鼓動が耳まで響きました。無言の私に「希望は持って下さい。私も支援します。」との医師の言葉も空しく、絶望と悲しみが伴い身の竦(すく)む思いでした。パソコン・書籍・アルバム・趣味の切手など目を必要とする物は全てシンプルに整理しました。薄れる視力に折り合いをつけても私には、逃れられない現実があります。実母98歳の老々介護と自らの余命です。厳しい現実は重く横たわっています。雪が溶けたら土が見えるように「時ぐすり」が緩やかに私を救ってくれました。  ある日、病院でロービジョン外来を受診しました。そこで視覚障害者として今後の在り方と、ライトハウス・同行援護・白杖・家事援助の情報を得ました。担当の方から「一緒に頑張りましょう。」と優しいお声でエールを頂きました。すると過日、空しく聞いた医師の言葉は励ましのメッセージへと移ろいでいきました。  ライトハウスへは躊躇(ためら)うことなく通所しました。点字・パソコン・文章講座・織物と訓練を受けています。初めて訓練を受けた日、心が震えるほど驚いたことがありました。全盲の先生がおられたことです。視覚障害者としてニューフェイスの私にはにわかに信じられませんでした。見えないのに立派にお仕事されていることは、私にとって大きな支えになりました。点字は左手人差し指先端で読みます。既に感覚の鈍った指先は点字とリンクしません。1点2点は読めますが、単語や文章になるともうお手上げです。大きく躓(つまず)いた私を見兼ねた先生は馴染みある歌謡曲の点字を用意して下さいました。また、マウスの代わりに音声を聞きながらのパソコン操作は決して容易ではありません。体力・気力・記憶力も萎えている私には技術獲得は忘却との闘いでもあります。織物は視覚障害者でも扱える織機「フラミンゴ」を用います。縦糸を巻き付け、シャトルに巻いた横糸で、左右に織ります。教えて頂くボランティアの方は全盲で、指先の感覚だけで糸を巻いたり絡んだ糸をほぐしたりされます。そのお姿から、もしかして晴眼者ではないのかと大きな驚きを感じました。  訓練を受けるうちに気が付いたことは、ボランティアの方々が多いことです。点字・パソコン・織物は自らも視覚障害者なのにボランティアとして活躍されています。世のため、人のために立派にお役を果たされています。もちろん晴眼者の方も大勢おられます。実は私は点字が苦手です。しかし、この苦手な点字から逃げたくないもう一人の私がいます。そこには、ボランティアの方々との心温まるふれあいがあるからです。この大切な空間を共有できることにこの上ない喜びがあります。またライトハウスの中では、図書の音訳・点訳・校正・テキストデイジーの製作、図書館では貸出作業・発送作業・読み書きサービス・対面朗読が備わっています。これら全てボランティアの皆さまで成り立っています。私たち視覚障害者はこうしたボランティア精神に溢れる支えを頂いております。改めて心込めて感謝申し上げます。  歎きながら視覚障害者になりましたが、素晴らしい恩恵に余りあるものがあります。神さまは私に視覚障害を与えられました。では乗り越えてみせましょう。連日、大勢の方が京都に憧れ、入洛されます。世界に誇る観光地としての京都だけでなく、見えない、見えにくい私たちに優しい京都に生まれ育った私です。麗しき令和と共に晩節までこの地で余生を過ごしたいです。この齢でこの私に何ができるのか分かりません。道標はまだぼんやりとしていますが、視覚障害者になって引きこもっておられる人々に、今の私の在り方を分け持ってもらえれたら嬉(うれ)しい限りです。不自由に慣れつつゆるりと織物を楽しみながら、「古の支え合い」を紡いでいけたらと願っています。  フォント:UD新丸ゴDB(サイズ16pt 行間8pt 字間−25) (40、41、42、43ページ 白黒反転) 工夫 楽しく暮らしたい 触れる 聴く 味わう 匂う 感じ方いろいろ 食べる私 ペンネーム/抹茶ミルクDX(40代 女性 弱視)  デラックスなかき氷、思えばすっかり昔話になりました。浅めの器に山高にそそり立つ抹茶の氷山。ほんのりと白いミルクの帽子をかぶっています。そこに抹茶やほうじ茶のアイスとゼリー、わらび餅、白玉、小倉など、これでもかと盛りつけられたゴージャスなやつ。聞いただけで甘そうと感じられるかもしれませんが、抹茶みつも抹茶本来の味が濃く、盛りつけられたすべてにきちんとお茶の味がするぜいたくな夏のデザートです。  女子高生だった頃、土曜の午後に母と祇園で待ち合わせして、お目当てのお洋服を買ってもらって、帰りにバスに乗る前に二人で食べた、それは懐かしい味です。「これ食べたら生き返るわ」、それが母の口ぐせでした。  あれから30年、私の視力はずいぶん弱くなりました。今の私でも食べられるだろうか。手さぐりで盛りつけの配置を確かめるわけにもいかないので、バランスを見ながら、上手にくずしながら食べなきゃならない。アイスや白玉があちこちにコロンコロンとなるかもしれない。そう考えると、崩壊のおそろしさでヒヤヒヤ。だから、ずいぶんご無沙汰しています。シンプルに小さく盛られたかき氷は地味に食べてますけど。  かつてはいつでも気軽に食べていた「都路里(つじり)」や「永楽屋」のデラックスなかき氷、今はどこのお店も行列で1時間待ち。やっと座って注文となっても、やっぱりおいしくきれいに食べられない。そう思うと、デラックスなパフェに寝返りです。パフェの器は背が高くて、はみ出した部分もなんとかクリアできる程度の高さです。  夏の終わり、キャンプから帰ってくる息子のお迎えでママ友と待ち合わせした日のこと。行列してまで甘いものを食べる機会なんてほとんどありませんが、時間がやたらあったので抹茶スイーツ目当てで並ぶことに。  ママ友は眼科のお医者さんで、私の見えにくさもわかってくれているので、「かき氷食べたいけど難しいよね」っていう私のつぶやきをやさしく聞いてくれていました。「器は浅いし、写真で見ているだけでも食べるの難しそうよ」と、彼女はちゃんと教えてくれました。「これ、見えてても難しい。絶対こぼれる」という彼女の言葉が、ほんのりと私をなぐさめてくれました。  「でも、…前はきれいに食べられたもん」、そんな子どもじみたつぶやきを押し込めて、「デラックスなパフェは食べたことないから、きょうはこのパフェにしようっと」と気持ちのハンドルを切り替えました。その結果、やっぱり不完全燃焼に。「ほんまはかき氷やねん」、この気持ちは消えません。  夏が来るたびフツフツ思う、甘くない話です。  それとは別に、「これ大丈夫」っていうのがデザートプレートです。単品でなく、ケーキとかジェラートとかパンナコッタとか、盛り合わせになったデザートです。たいていケーキやムースやタルトなど、重めのスイーツにアイスやシャーベットが盛られて、ソースが描かれています。  このタイプのプレートには必ずフォークとスプーンが添えられます。プレートは平らで食べにくいものです。ケーキはフォークで食べるのですが、最後はどうしても取りにくくなります。フォークで寄せてきて、スプーンに乗せてきれいにすくいます。二刀流、たいていこれでお皿の上はきれいに回収です。  デザートもお料理も、盛りつけは大切な味の一つ。きちんと説明を聞いて、心に描いて、見えなくても楽しみたいという気持ちは持っていたいものです。  「どんな色なの?」とか、「へえ、だったらオレンジとクリーム色できれいね」とか、自分のイメージと実物が近いかどうか、私はご一緒する人との会話ですり合わせをします。そんなコメントをすると、「見えるの?」と聞かれます。「まったく見えてないよ。私の前には真っ白なお皿しかないよ」と、さらっと返します。そこで絶句しちゃう人もいるし、「すごいね。聞いただけでイメージできるの?」と言う人もいます。「みかんのオレンジ色じゃなくて、もっと赤いオレンジ色だよ」とか、ちゃんと本当のことを教えてくれる人もいます。また、お店の人がいちいち言わないミントの飾りとか、さっとふられた金色のパウダーシュガーとか、そんなのもちゃんと教えてくれる人もいます。  見えなくても口に入れたらわかるだろうみたいな対応は、やっぱり悲しいですね。そして、よけいな飾りは最初から抜いてしまおうというのは、本当の配慮ではないと私は思います。例えば八寸に添えられた穂紫蘇(ほじそ)、食べるときにはお皿の端によけたとしても、それが手にふれることで思い出せる風情もあります。 料理にはあしらいというものがありますね。そこにはちゃんと意味があります。季節や温度感、行事などの風情を盛り込む中に物語があります。作り手の思いを食べたい、それは見えていた頃も今も同じです。配慮として省略されてしまったら、その思いを食することはできません。   見える私、見えにくい私、見えない私、全部私です。食べる私はずっとつながっている、だから誰とでもちゃんと分かち合って時を過ごしたい、ただそれだけです。  「食べる私」、このテーマは私にとって実はため息の出る話です。なぜなら、あのデラックスなかき氷を母と一緒に食べることはもう不可能だから。  母は重い心臓病と不自由な足を抱え、車いすになり、私と二人きりで出かけることは無理になりました。どこかに行けたとしても、必ず誰かのサポートを必要としています。もうあの頃の母には戻れない。母をどこかへ連れていってあげたくても、今の私にはもう車いすを押すことができない。そして、あのデラックスな分量を母には食べることができません。  テレビ番組で夏の冷たいスイーツが出てくるたび、母がどんな気持ちでそれを見ているのか、そう思うと胸が痛みます。「あの頃はどこにでも行けた」、「自由で希望があって楽しかった」、そんな母の言葉は愚痴ではなく、ましてや切ない懐古でもありません。確かにそこにいた、母と娘の時間をただただ愛おしく見つめる言葉です。「お母さん、タクシーに乗って思い切って行ってみよう。二人でシェアすれば大丈夫。器をもう一つもらって分けて食べよう。せめてもう一度だけでも」。私はのど元まで出る言葉を飲み込み、階段しかなかった店を思い出し、一人うつむいて思案します。  新しくできた姉妹店ならエレベーターで行けるかもしれない、二人きりで。そんなたくらみを実行するには、ちゃんと事前リサーチが必要です。今年の夏はなんとかこのたくらみをかなえたい、玄関から葉桜を見上げる、そんな5月です。  フォント:UD新丸ゴDB(サイズ16pt 行間8pt 字間−25) (44、45、46、47、48ページ 白黒反転) 工夫 楽しく暮らしたい 触れる 聴く 味わう 匂う 感じ方いろいろ 現状と妄想 ペンネーム/インディゴ750(70代 男性 全盲)  70歳を過ぎた私は、このところ起床して家を出かけるまで時間がかかるようになった。前夜に準備を怠ると車を待たせていることもある。勤務先の病院に着いてからも医局で白衣に着替え、タイムカードをかざし、病棟へ行くのだが、そこまでの時間が、以前よりかかる感がする。おそらく同時に複数の行為を遂行することができなくなったのではないかと思われる。  また、この数年で私の兄たちが闘病生活をはじめたり、亡くなったりしている。この分だと私もそろそろ身の回りの整理を少しずつしなければと終活に関する本や雑誌をサピエ図書館からダウンロードして聞いている。  体力の低下は私だけでなく私の一番のサポーターである妻も感じているという。もっと早く気づくべきだったが、そういう雰囲気を感じさせていなかった。妻は、主婦業を手を抜くことなく丁寧に愛情をかけて行ってきた。それに加えて私の同行支援者として、あるいはヘルパーとして、クラークとしてサポートしてきてくれた。このように妻は2、3人分の業務をしてきたのだから、今後はもう少し休まなければならない。  ところで私にできる家事は何だろうか。起床後、玄関を開けて郵便箱から新聞を持ってきたり、夕方、門を閉めることぐらいかもしれない。ときには室内の拭き掃除をしたり、食器を片づけたり、洗濯物を片づけたりするが稀であり、どの行為も不完全である。ただそれだけで済めばよいのだが、食器を割ってしまうこともある。結果的に後片づけをさせてしまい、悲しませることも多い。  結局、私ができることは、妻のサポーターとしての役割を最小限にとどめ、あれやこれやと頼まないことではないかと思う。  そこで身の回りの整理から始めた。そのためには文字や物の認識をする機器が必要となる。2014年からアイフォンを使うようになり、便利なアプリが無料でたくさんあることを知った。この数年間で書類をカメラで撮影して文字認識(OCR)し、読み上げするアプリがいくつも販売されてきた。その中にはカメラを向けるだけで読み上げするアプリもある。しかもごく短時間で認識を完了する。無料のOffice Lens、有料のEnvision AIなどが昨年リリースされた。私もこれらを必要に応じて使用している。書類の管理については整理箱・棚・ファイル・封筒などにその内容を印刷したラベルを貼っている。ラベルの大きさはさまざまあり、私は名刺大を頻用している。時には QRコードを印刷したラベルを使用する。これには専用プリンターが必要となる。これらのラベルは、アイフォンに入れてある前述のアプリで読んでいる。  最近、NFCタグを使った物体の識別アプリがリリースされている。NFCタグには衣類取り付け用、シートタイプ、クリップ付きなどがある。アプリを使ってタグに物体の内容を記録させておく。その物体に貼り付けたタグにアイフォンのカメラを当てると、登録された内容が音声か文字で出力される。これはかなり便利なアプリと思われる。以上のような整理方法なら探し物もかなり楽になり、妻への負担もいくらか軽くなるのではないかと思う。  また、文字認識をいとも簡単にする機器が数年前販売された。メガネ装着型ウェアラブル端末「オーカムマイアイ」である。私はそれを2018年に神戸で開催された視覚障害リハビリテーション研究発表大会の機器展で体験した。その時はもうここまできたかとびっくりした。それを病院側が視覚障害者への合理的配慮として購入し、使用できることになった。  それを同僚に見せると「これはすごい機器ですね」と、使用方法をガイドブックで調べながら説明してくれた。設定された最低音量がやや高いことと、外部へ音漏れすることだけが気になる点であった。そこで、ブルートゥース対応の骨伝導イヤホンを用いると、適切な音量に合わせることができた。音漏れもなく周囲の人を気にすることもなく快適だ。周りからは黙読しているように見えるらしい。今までは看護師・ソーシャルワーカーに、いろいろな書類についてたずねていた。私がこれを利用することで彼らの負担をいくらか軽減できるかもしれない。  次に負担の多い行為は移動支援だろう。この10年余り、勤務先への往復は車での送迎だったので公共交通機関を利用する機会は少なく、白杖は使用していなかった。休日の外出は常に妻と一緒だった。私の運動不足を心配して、天気の良い日には、約4キロから6キロ先にある運動公園、道の駅、物産館、温泉センターなどまで歩き、昼食あるいは夕食を食べて帰宅していた。この時は白杖を持ってはいくものの、妻の肩かショルダーバッグに手をかけて歩いていた。また近くのコンビニ、ドラッグストア、理髪店など自分の用事で出かける場合も、妻が同伴してくれないと行けなかった。  年末に息子が久しぶりに帰省した時のことである。たまには近くの運動公園に行こうということになった。運動のつもりでこれまで行ったことのある急斜面を登る道へ行こうとした。しかし、私が頭で描いていた地図からその入口を見つけることはできなかった。息子が普通のなだらかな道を選び、目的地には行けたが、今の状態では一人で行動できないことをつくづく感じた。  このような場合、公助として、2011年の障害者自立支援法の改正で始まった同行援護を依頼する手段がある。私は5、6年前から月に2回程度この制度を利用し、電車で尺八のレッスンに通っていた。しかし、2018年3月にその業務を実施できる事業所の要件の猶予期間が終了し、当地の介護福祉事業所はこの業務から撤退した。  当地域には公的にも私的にも同行援護を行っている事業所がない。同行援護者が少ない以上、多くのサービスは望めず、基本的に自助・互助を選択せざるを得ないのが現状である。ただ、今まで利用していた同行援護は別の地域にある事業所に継続してもらうことができ、ありがたいことに現在も利用できている。  最近、白杖もいろいろ開発され、内蔵された超音波やカメラを利用して前方に見える危険物などを音声か震動で知らせる機能が備えられているものもある。また、マップを利用して目的地に案内してくれるものも、今後開発されるかもしれない。  他にも、歩行の手助けの手段として「ダイナグラス」というウェアラブル端末が販売されている。それは首にかけて使用するもので、胸の高さでの周囲の状況を音声で説明してくれる。例えば交差点であれば「正面の信号機は赤です」などと知らせてくれるそうだ。  私は病院の中を注意して歩いているのだが、それでも時々出っ張った柱の角で前額部をぶつけたりしている。スタッフに「大丈夫ですか」と声をかけられても「大丈夫です」と答えてきた。こういうことはしようがないなとあきらめていたが、この機器を使うと医局間の移動も比較的安全にできるのではないかと淡い期待をかけている。ただ、病院内の移動は多くの医師をはじめとするスタッフが、「肩を貸しましょうか」と声をかけてくれるのでさほど心配はしていない。ひょっとしたらこのような機器を使うことで、近くの喫茶店、居酒屋、コンビニに一人で行けるようになるかもしれない。自由だ、そう思うだけで何とも言えない感情が沸き上がってくる。  さらに、未来を描いてみることにする。私が夢見る移動支援についてお話したい。安全に移動するには同行支援ロボット犬、あるいはポニーが開発されるのだ。そのロボットには数台のカメラが内蔵され、周囲50メートル程度の物体・風景を認識し、震動あるいは音声で知らせてくれる。「背後から自転車がきます、もう少し右によけましょう」「前から車がきます、止まって様子をみましょう」「ここは天国と地獄への交叉点です、真っ直ぐ進みますか?」「右角にコンビニがあります」などとロボットが話しかけてくるのだ。   また、「今はどの辺りを歩いているのですか?」「サクラは咲いていますか?」などと尋ねると相応に答えてくれる。「疲れたから乗ってもよいですか?」と言えば、それに応じて一旦停止したりするのだ。しかも時速2キロから6キロへと変更できるダイヤルボタンも備えている。このような機能があれば目的地まで安全に案内してくれるのではないかと胸を膨らませている。そうなれば、私をはじめ、外出困難な視覚障害者及びそのサポーターがどんなに喜ぶことだろう。  10年後は、これら同行支援ロボットと一緒に近くを散歩したり、日本各地を巡っているかもしれない。最近では100kg程度の荷物を運ぶことができるドローンや、自動運転車などの開発も進み、実用化の段階となっている。私が夢みている同行支援ロボットも技術的には可能であるが、経済的側面などでなかなか開発されていないのではないかと想像している。その日が来ることを信じて、もうしばらく診療活動を続けることにしよう。  フォント:UD新丸ゴDB(サイズ16pt 行間8pt 字間−25) (49、50ページ) 工夫 楽しく暮らしたい 触れる 聴く 味わう 匂う 感じ方いろいろ バリアがいっぱいのデート ペンネーム/藍藍傘(30代 男性 全盲)  見えない2人で歩くとき、悩むんだよね。歩道にも道の端にも電柱や看板、ぶつかるものが多いし。通行人ともちゃんとすれちがえるようにしなきゃならないし。まあ、苦労するよ。けど、気をつけて2人で歩いてる。  手をつないで歩いたら、デートの気分が盛り上がるんだ。逆に、彼女がものにぶつかってしまうと落ち込む。自分がぶつかるより痛いよ。  ランチ、お茶、そのためにはお店までたどり着かねばならない。道に迷ってうろうろ。やたら苦労するよ。店の情報は、前もってネットで調べておくほうがいい。  ナビのアプリが役立つときもある。ナビはすぐに開始できるように、前もって住所を入れておくんだ。ナビの精度は、正確だったり不正確だったり。入り口まではナビしてくれないから店の前を行ったり来たりするけど、やっぱりナビがあるととても助かるんだ。技術の進歩はすばらしい。通行人の皆さんに手助けしてもらうこともよくある。  おいしいランチ、楽しい時間にするには、こぼさない、倒さない、落とさないよう要注意だ。わさびやからしは危険。これは、料理が運ばれてきたときにお店の人に確認しておかなきゃならない。一度、彼女がわさびのかたまりを食べてしまったことがある。確認しなかったことを激しく反省した。  神社巡りなどをするときは、悩む。実際、見えている人に案内してもらって、説明してもらうほうが楽しめる。ガイドヘルパーさんを頼むと、2人じゃなくなる。それもありか。固定観念を捨てて、それもありにする。  コンサート、映画、これは悩みが少ない。会場までたどり着けば、スタッフさんが座席まで案内してくれる。  あとデートのときは、彼女が今日はどんな服装なのかを聞いてみる。彼女の雰囲気、その日の感じをイメージできるから。  それと、もう一つ悩むことがある。夜、帰り道、人がいない路上でチュー、路チューがしたい。人がいるのかいないのか、見えなくてもわかる方法はあるのか。  こんな感じで、見えない2人のデートにはバリアがいっぱいあるんだ。デートがしたいみんな、バリアにめげず一緒にがんばろうぜ!  フォント:UD新丸ゴDB(サイズ16pt 行間8pt 字間−25) (51、52ページ) 工夫 楽しく暮らしたい 触れる 聴く 味わう 匂う 感じ方いろいろ 点字で開くワンダーランドへの扉 ペンネーム/夢色の春樹ワールドに迷い込んだ野良猫(60代 女性 弱視)  今から何年前になるでしょうか?村上春樹のベストセラー「海辺のカフカ」が文庫本となり、本屋さんの店頭を華々しく飾っていたころ、私は少しずつ読書が困難になり始めていました。行がうまく追えず、1ページ読むのに10分も20分もかかる有様。「長編小説を読むことは、私にはもう無理だな」と、悲しい気持ちで本屋をあとにしたのを思い出します。その時、私は読書をあきらめました。  それから7年余り、少しずつ視力が落ちていった私。それでも見栄を張ってというのか、プライドからか、視力が落ちてきた自分を認めたくなかったのです。「私はまだまだ大丈夫」と思いたかったのです。「白い杖なんて…」と、意地を張っていました。でも、やっぱり現実を受け入れなくてはいけません。  私はついに、ついに京都ライトハウスに足を踏み入れることとなりました。そこで、私は音声で本が読めることを初めて知りました。デイジー図書です。こんな便利なものがあるなんて知らなかった私は、「もっと早くライトハウスに来ればよかった」と後悔。  私は、早速一番読みたかった「海辺のカフカ」のCDを点字図書館で借りました。これが、私の村上春樹ワールドへの第一歩でした。ここから春樹ワンダーランドの奥深くへと迷い込むこととなるのです。私は、長編、短編、エッセイ集と、片っ端から読みあさりました。「また読書を楽しめるなんて、夢みたい」、私は目の前にぱっと世界が広がったような気がしました。  時を同じくして、私は京都ライトハウス生活訓練部鳥居寮の訓練を受けることとなり、そこで初めて点字とめぐり会ったのです。この6つの点だけですべての文字を表せるなんてすごい!驚きです。これを考案した方に敬意と感謝。私はすぐに点字に魅せられ、点字の世界に引き込まれていきました。そして、なんとしても自分の手で、いや、指で「海辺のカフカ」を読んでみたいと思うようになりました。  苦節2年、意を決して念願の「海辺のカフカ」上巻を借りることに! そして、点字本にして全7巻が手元に届きました。読み終えるのに何年かかるんだろうとちょっと心配になりましたが、どんどん物語に引き込まれ、1か月余りで読み切ることができました。点字にてついに読破、そこには満ち足りた満足感と充実感がありました。  1文字1文字と、指でたどって読むのは時間がかかります。でも、音声で聞いていた時には気づかなかった何気ない言葉や表現の中に込められた作者の思いが指先から伝わってくるような気がします。私は、すっかり春樹ワールドのとりこになってしまいました。ゆっくりと丁寧に指で言葉を追っていくと、どんどんイメージが膨らんでいき、物語は鮮明な映像として浮かび上がってきます。  デイジー図書には、次から次へとストーリー展開を追っていく醍醐味とか、話題作を一早く読めるという利点があります。点字で読むのは確かに時間がかかります。ゆっくりなだけに、深く作品の中に入っていけるように思います。点字には、デイジーとはまた違った味わいや新たな発見があります。  点字で読書ができるようになった私にとって、「海辺のカフカ」は何度も読み返してみたい大切な1冊です。短編小説なら、ちょっと笑えるハードボイルド「パン屋再襲撃」が私のお気に入りです。リズミカルな春樹様の文章に指でいそしむ私、今日もワンダーランドの迷宮へとお出かけしてきます。  フォント:UD新丸ゴDB(サイズ16pt 行間8pt 字間−25) (53、54、55、56、57ページ 白黒反転) 工夫 楽しく暮らしたい 触れる 聴く 味わう 匂う 感じ方いろいろ メイクと私 ペンネーム/キラキラパール(40代 女性 弱視)  メイク、それは私にとっていつも自分と一体のものだった。時に輝く笑顔を、時によれよれな自分をさらけ出すものだった。  大好きな彼とデートの待ち合わせをする時には、必ず約束の15分前には到着して、近くのデパートの化粧室で自分を点検した。鏡に映る自分はベストかどうか、特に眉と口紅は念入りにチェックした。  生まれつき弱視だった私には微妙な色あいなど判断できなかった。だから、アイシャドウのグラデーションも、アイラインやマスカラも私の視力ではできなかった。  私の青春時代はビビッドな口紅とくっきり眉が主流だったから、バランスが悪かったり、はみ出していたりするととても目立つ。眉を左右対称に描くことは誰にとっても難しいことだから、その当時の女の子たちは前髪を薄くたらしてかわいく見せていた。顔立ちにも額の形にも、そしてメイクスキルにも自信のある子だけがおでこ全開で胸をはっていた。人の表情がすっかり見えなくなった今でもその当時のおでこ全開の女の子たちの顔を何人か思い出せるのは、きっと自分にはない輝きを彼女たちに感じていたからだと思う。  昨今は、つけまつ毛とかまつ毛のエクステンションとか、アートメイキングで眉を作ったりとか、さらにはカラーコンタクトで大きな目に見せたりとか、技巧的な美が当たり前のようにちまたにあふれている。私の青春時代の美人は、すっぴんでもキレイで、メイクするとさらにキレイ!という折り紙つきだった。今の美人はどうなのかよくわからない。作りこんだ美しさもその人の一部なんだから、要するにキレイ!ということらしい。私が見えにくさを重ねている間に美人の概念も広がったのかもしれない。  自分が鏡の前に座る時間よりわが子との時間が大事だった頃にも、ママ友とのお茶やランチではやっぱりキレイでいたくて、上品に見える口紅を選んだ。とってつけたようなグロスよりも、やわらかいパールがかったローズピンクやほんのりオレンジがかったピンクを選び、いつでも表情が明るく見えるように心がけた。ベージュ系の口紅が流行していた時もキレイな色目を選んだ。  私には息子の姿が見つけられないが、息子はいつでも私を目で追っていた。「ママはかわいいお花とかピンクが似合うから、他のママより目立ったよ」と言ってくれた。また、「〜ちゃんのママは足のお指が赤くて、お手てにもお花があってキレイなのに、どうしてママにはお爪に色がないの?」とも言われた。ネイルサロンに行く余裕がなかった私には、最低限の身だしなみメイクが精いっぱいだった。「ママは点字を読むからお爪は伸ばせないのよ」とごまかした。  思えば、私にとっての身だしなみメイクは、スキンケアと化粧下地、パウダーファンデーションと口紅だけだった。チークもアイシャドウも苦手意識があって遠ざかっていた。美白ケアも投げ出していたから、今の私の頬には目立つしみがいくつかある。それがコンプレックスとなって毎日悩まされている。  折しもメイクセミナーの企画を担うことになり、この春から少しずつメイクのツールを買い替えた。口紅もアイカラーも2パターンずつ、キラキラベールの色調も季節ごとに変えている。コンシーラーは家族の目を借りていたが、毎日なんとか自力でつけられるようになってきた。日々鍛錬すれば、アイテムが増えてもきちんと同じ時間に家を出ることができるようになる。一度定番になると、どれが欠けても外に出るのがいやになる。それがメイクの魔法だ。私にとっての最低限、そのラインが少しずつ上がっていくのを感じ、新しいものを選ぶ時はとても楽しい。  チークとアイブロウ、目の際にほんのり入れるアイカラー、この3アイテムはメイクセミナーで久しぶりにトライした。それ以外のアイテムは日々使い慣れているので混乱はないが、新しいもの、久しぶりのものには戸惑うこともある。何度も体感しながら自分でできるスキルにまでしたいと思うので、新たなツール選びは慎重になる。  一緒にメイクセミナーを受講したお友達の中には、手順の違いや日頃のメイク用品と異なることから、スキンケアであっても初トライだった人が多かった。見えない・見えにくいと、手間が少なくて失敗がないことを基準にものを選ぶことが多いように思う。ただ、メイクは手間をかけただけお肌の健康に直結するし、ポイントメイクはその場で答えが出るといえるほどその人らしさを引き出す。アイシャドウ、チーク、アイブロウも身だしなみメイクの中に含まれていたことから、いかに今まで私の身だしなみに問題があったのかを痛感した。  私は化粧品を選ぶ際、たくさんの質問をする。そして、言葉の説明と体感で覚えるために、右半分を一度は美容部員さんにやってもらう。左を自分でやってみて、一人でできそうだったら買うことにしている。手の動かし方のくせなどを見てもらい、一人の時に活用できるように心がけている。  今回のセミナーでは、指で塗るアイカラーを使用した。日頃から使用しているものと同じシリーズだったので、使いやすかった。ただ、どうしても眉頭に色がかたよりがちで、はみ出すので、ついたものを消す練習もした。自分のくせを理解しておけば、修正も可能になるとわかった。  また、セミナーの途中、自分の知りたいことをいかにしてセミナースタッフに伝えるかということが大事だと痛感した。受講者の質問力がアップすれば、スタッフ側にとってはより深く広く伝えるためのスキルになるであろう。  「どう言ったらいいかな…」、この言葉はわかり合うことを想定するというよりも、困難だというあきらめを呼ぶ。見えない・見えにくい私たちが、少しでも具体的に比較物を用いながら質問できたら、半分閉まった扉が開くかもしれない。「薄いとかほんのりって桜くらいのピンク?」とか、「やさしくくるくるってこんな感じでいいの?」とか、私たちから見える相手に伝えるための方法は、言葉とジェスチャーの中にある。  ただ、誰もがそんなチャレンジャーになれるわけではない。一度の失敗や傷心が二度目をさえぎることが多い。特にメイクはあきらめポイントになりがちだ。私もそうだった。だからこそ、視覚障害女性に特化したメイクセミナーやその継続的支援が必要だと思う。仲間とわいわい楽しみながら情報交換したりできるような場からでも、あるある失敗談満載からでも、晴れやかになれる自分を見つけてもらえたらと思う。  結果、フルメイクができるかどうかでなくていい。身だしなみメイクのラインも個別性があっていい。こうすればできるんだ!、メイクという女性ならではのツールから見い出すことができたならと思う。  しょんぼり、がっかりな日も、やっぱり私は明るい笑顔の似合うメイクカラーで家を出る。それだけでもほんの少し自分を癒せる。化粧直しだって、手間だけど、そのたびにキレイでいたいという気持ちをわずかでも持つひとときになる。まあ、それも悪くない。ついでにお気に入りのトワレで少しリラックスするようにしている。  先日、夫とデートした。夫との外出はもっぱらスーパーかドラッグストアばかりだが、久しぶりに彼の買い物に付き合ってあちこち歩いた。ついでに私もチークを買った。「ねえ、かわいい?上手についてる?」、その問いに「大丈夫」としか答えない夫。しつこく「キレイ?ねえ、キレイ?」と半ば脅迫する私。とはいうものの、夫はついでに美容部員さんからチークのつけ方を習っていた。  ちなみに、夫は時々私にネイルをしてくれる。というか、これも私に脅迫されながらやってくれている。でも、夫のネイルはみるみる上達している。大したものだ。「ネイルなどまったくいらないものだ」と夫は言うが、見事に私の機嫌がよくなるので、「いらないものではなさそうだ」とは感じつつあるようだ。  しわもしみもできて、白髪も増えて、おデブになった私だけど、私を選んで生きることを曲げなかった夫にはやっぱりずっとかわいいと思われたい。そして、年齢を重ねた夫の顔を知らない私は、今もアルバムの中の夫を頭に描いてしまう。いつまでも若い日のままの二人がそこにいる、もうそんなわけないのに。  メイクセミナーに関わり、その中身について考える機会を得たことで、ほんの少しだけど、あなたにとってかわいい私でいたいなんて、そんなしおらしいこと考えることになった。おかしなことだけど、やっぱりメイクには女を変える魔法がある。気持ちを変える魔法がある。化けるのではなく、自分の魅力を引き出す魔法、気持ちをアップさせる魔法、たくさんの可能性があるのかもしれない。  そう考えると、見えない・見えにくい暮らしに彩りを添えてくれるメイクを安心して体験できる場が広がるといいなと思う。そして、いろんな情報をみんなで出し合える場をつくっていきたいと思う。また、色鉛筆の中で「これ、おすすめだよ」なんていう話ができたらうれしい。  メイクと私、See you again.  フォント:UD新丸ゴDB(サイズ16pt 行間8pt 字間−25) (58、59ページ) 見えにくい 認識は無理 何かが見えるような気がする これがわかりやすい どれが私向き? 自分の見え方見えにくさを知ろう  〜文字フォント編〜  文字のデザインや大きさによって、見やすい、読みにくいなどの状況は変化します。また、見えるけど、読むのはしんどいという状況も考えられます。  視力が低い場合は文字が大きいと読みやすい、視野がせまいから文字は大きすぎないほうがいい、見え方はそう単純に仕分けできるものではないようです。  視界が濁っていたり、暗さがあったり、ゆがみがあったり、左右の視力差があったり、見たいところをじっと見ることが苦手だったり、視力視野以外のいろんな状況が個別に存在します。同じ大きさでも背景色や文字のデザインによって、見えるもの、読みやすいものは微妙にちがってくることもあるようです。  サイズや書体、白黒反転を比較し、自分の見え方見えにくさを体験してみましょう。裸眼で、メガネをかけて、ルーペを使って、拡大読書器で、タブレットやスマホの拡大機能で、いろいろな支援機器での体験にも挑戦してみましょう。  体験素材は、見えない見えにくい五七五、色鉛筆読者のみなさんの作品です。素材は3種のフォント、サイズ48から10.5ポイント、それぞれの白黒反転もあります。  どの文字デザイン、どのサイズが見やすいでしょうか。デザインによって見やすいサイズにちがいはありますか? 白い紙に黒文字より白黒反転のほうが見やすくなりますか? おうちの照明器具の下と、窓際の自然光とでは見え方にちがいはありますか?  この体験を通して、自分にとって、少しでも疲れにくい読み環境を探索してみましょう。  例えば、読むのに楽な文字デザイン、サイズ、背景を知っておくことで、パソコンやタブレット、携帯電話などの画面を調整することもできますね。もらったデータを自分の見やすい読み環境に変更して資料を読む、これもちょっとしたセルフケア、自分でできる工夫の一つかもしれません。  また、注目すべきところに蛍光ペンが引かれていることがありますが、そもそもそのラインがあることがわからなかったり、ラインの色と文字が重なることで、文字が見えにくくなることもありますね。蛍光ペンの色はどれが見やすい、フォントはどれが疲れにくいなど、自分のベストマッチングを知っておくことで、自分の見え方を周りに伝える時の素材にできるかもしれません。  また、本ページでの体験、つまり紙の文字を直接見ることが困難な場合は、拡大読書器を活用したり、スマホやタブレットで撮影し、好みの大きさと背景色を工夫することもできます。その場合、機器を活用するのに適した原紙の文字とはどんな大きさでしょうか。  見え方・見えにくさは多様です。また、紙の文字を直接見る場合、機器を活用する場合、いろんな読み環境があります。皆様の手持ちの「見たいもの、読みたいもの」をどんな工夫で見やすくできるか、自分流の読み方ヒントを探してみましょう。  文字の見え方体験素材は視力0.04以上の方を対象としたモニタリングを経て作成しています。周辺視野を活用する方、中心の狭い視野を活用する方、見える部分がまだらだという方、1文字ずつ文字を追う形での体験から、1行すーっと読むことができる方まで、さまざまな読み環境の皆様に体験いただき作成しました。どれも見えにくいという方もおられました。その上で、もっとこうだったら見えるかも、疲れにくいかもという自分の見え方を探索する機会となりました。  この体験の中にずばりこれがいいというものが見つからなくても、どうしたら見やすいか、見えるところに近づけそうか、皆様それぞれの保有視覚との付き合い方を考えてみましょう。 (60、61ページ) 見え方体験 フォント1 明朝体 文字の見え方を体験してみよう 明朝体48ポイントから10.5ポイントまで 以下の文字の見え方体験素材は、見えない・見えにくい五七五です。 すべて色鉛筆読者の皆様の作品です。 60ページが白背景に黒色の文字。61ページが白黒反転です。 48ポイント ごうしちご 考え応募 色鉛筆 36ポイント 全集中 音をたよりに 通勤路 28ポイント つぎの世は 不自由なき目を ただ祈る 26ポイント 宣告に 逆立つ身の毛 初診の日 24ポイント 選べない あなた見えるの? 見えないの? 22ポイント 待ってます 山中教授 iPS 20ポイント ドラえもん 見える目出して 頼みます 18ポイント わがまなこ 夢の中では 見えていた 16ポイント イケボイス 顔が見えずに 残念だ 14ポイント われとつえ かくそまりし こえびじん 12ポイント 夕暮れの 心とろかす 声美人 10.5ポイント 耳ふわり 笑顔の声に 恋したね (62ページ) あるある 失敗談に は・げ・ま・し・を ●あいさつ  朝の早い時間、人気(ひとけ)の少ない広い通路でのこと、前から歩いてくる人から「おはようございます」と言われました。元気よく「おはようございます」と返すと、その人は私の後方から歩いてきた知り合いにあいさつしていたんです。私はどうすりゃいいんでしょうか。 はげまそう 「強烈にまぎらわしいですよね」 「よいことをしたけど外れだった」 「笑って済ませよう」 「あいさつのある日々、これにこりず、次もぜひぜひ」 ●待ち合わせ バス停で夫との待ち合わせにちょっと遅刻した。「あっ!、ごめん」と言って腕をつかんだら、夫ではなかった。 はげまそう 「ちゃんと腕をつかんで、そこは合っていた」 「夫のふりをされて、その人とデートしなくてよかった」 == (63ページ) 第2章の扉 第2章 光を求めてさらに一歩(アイキャッチは四角形です) 教育 ハイテク アナログ ツールはいろいろ 就労 私たち働いています 結婚 一人より二人で (64、65、66、67、68ページ) 教育 ハイテク アナログ ツールはいろいろ ぼくらのキャンパスライフ  学生さん、最近まで学生さんだったという20代5名の方に、「ぼくらのキャンパスライフ」というテーマでお話を聞いてみました。自分が使っていた支援機器、その使い方の工夫やコツ。見える仲間との学びや遊びのエピソード。学生ならでは、これは便利だよ、おすすめのグッズや工夫あれこれ。勉強以外で力を入れたこと。資格取得、特技。就活で困ること。自分が学んだもの、そして卒業後の夢。いろいろ教えてもらいました。見えない・見えにくい20代の今を共有します。 言語聴覚士を目指す私  中途 弱視 女性  盲学校(中学2年途中から卒業まで)、普通校(小学校から中学2年途中まで・高校)、大学  手もとはルーペで、スクリーンやホワイトボードなど、遠くのものを見るときには拡大読書器(大学が購入)を使用していました。見える仲間と京都散策、学祭めぐりなどを楽しみました。交通費を抑えるために、多少時間がかかっても障害者割引のきく交通機関を利用しました。勉強以外で力を入れたことは、ボランティア、インターンシップ、学園祭実行委員、サークル、体調管理(治療)です。  就活で困るのは、実習などで、つながりのない病院や施設を見学するときです。どのような検査(リハビリ)ができて、どのような検査(リハビリ)ができないのかを明確に説明しなければならないので、自分できっちり理解しておく必要があります。  将来は、障害のある方やご高齢の方が悩みや不安を吐き出すことのできる、ほっと心が休まるような場所を、言語聴覚士の立場からつくりたいです。 公務員を目指すぼく  先天 弱視 男性 大学生  iPad、単眼鏡、ルーペを使用して学びました。iPadでは、拡大と白黒反転のショートカットを使用していました。大学の支援担当や母校(盲学校)に相談しながらやってきました。サークルの合宿では、日中の屋外歩行が苦手なため、そのような場所では団体行動をしていました。集合場所も、私のわかりやすい場所に設定してもらいました。鉄道運賃や施設の入場料など、障害者割引をフル活用しました。  趣味は鉄道旅行、鉄道写真撮影、カラオケです。特技は、鉄道に関することとサウンドテーブルテニスです。  経済学、経営学を中心に学んでいます。就活はこれからです。  視覚障害があるというだけで、「この仕事は無理だろう」と勝手に判断されてしまうのは困るなあと感じます。将来は公務員になって、自分の生まれ育ったまちのために働きたいです。 観光学を学んだぼく  先天 全盲 男性  盲学校(小学校・中学校・高校)、大学  音声ソフトをインストールしたPC、ブレイルメモ、点字プリンター、スキャナーを使用していました。PCは、定期テストの解答、講義中の読書、友人のノートのスキャンなどに活用していました。見える仲間とドライブ、キャンプ、服選びを楽しんでいました。王将(一部店舗のみ)で実施していた、洗い物をしたら会計無料というサービスを活用していました。時間をふんだんに使った鈍行の旅も、学生ならではかも。友達づきあいや身だしなみ(洋服や髪型)、陸上競技、学食のメニュー制覇も力を入れてやりました。  就活では、健常者といっしょの合同面接に参加した際、決められた時間の中でのディベートやグループワークディスカッションはちょっと難しかったです。観光学を学んだので、障害の有無にかかわらず、その人に合った旅行の楽しみ方やプランの提案ができたらと考えています。 保育・幼児教育を学ぶ私  中途 弱視 女性 大学生  iPad、iPhoneのズーム機能、Surfaceは拡大鏡を使用していました。周りのみんなは見えていて、何も言わずとも「次のスライド行ったよ」と教えてくれます。また、「今なんて言った?」というのに私が答えています。こんなふうに、「見える」と「聞こえる」のそれぞれが、得意なところを活用してカバーしあっています。ペン先の太さや色など、本体とインクを組み合わせできる無印のカスタムペンを使用したり、太字で見やすいノートや手帳はエクセルで手づくりするなど、自分の見え方に合わせて工夫しています。  恋愛、小児がんサバイバーとしての NPO勤務、バイトも力を入れてやっていました。  TOEFL90点。ユニバーサルマナーコーディネーター、東京都上級救急救命技能認定(自動体外式除細動器従事者)の資格を取得しています。保育・幼児教育を学んでいます。今後は大学院に進学し、留学するのが希望です。 英語の先生になりたい私  先天 全盲 女性  盲学校(中学校・高校)、普通校(小学校)、大学  ブレイルセンス、点訳ボランティア(プライベートで依頼)を活用していました。墨字のテストのデータをもらい、ブレイルセンスを使って墨字のデータとして解答を書き込むことで、解答時間の短縮ができます。ボランティアさんからは点訳物をデータとして送ってもらったので、プリンターや点字用紙を使用しなくても読めるようになりました。  見える仲間と、旅行、ユニバーサル・スタジオ・ジャパン、学祭めぐり、買い物、寺社仏閣めぐりを楽しみました。ブレイルセンスなどを購入する際の自治体からの補助金、iPhoneで使えるOCR系のアプリ、テーマパークや公共交通機関で受けられる障害者割引をフル活用しました。クラブ活動、学生団体の運営(イベントの企画と実施)、恋愛、食べ歩き、飲み会にも力を入れました。  料理、卓球(サウンドテーブルテニス)、英会話、折り紙が得意です。   就活ではいろいろ困りました。募集要項がPDFで、音声パソコンでは読みづらいし、紙媒体の情報誌やマガジン、新聞も読めないため、就活情報の収集は難しかったです。合同説明会や試験会場にも1人では行きづらいし。  英語教育を学び、TOEIC820点。中高英語1種教員免許、1種特別支援教員免許を取得しました。将来は、特別支援学校の先生になりたいです。  フォント:UD新丸ゴDB(サイズ16pt 行間8pt 字間−25) あるある 失敗談に は・げ・ま・し・を ●お店  パン大好きの私は、教えてもらったパン屋さんへ。角を曲がったところってこのへんかな? 自動ドアがスーッと開く。あれー、パンのにおいがしない。「い、いらっしゃいませ…」。「あの、あのー、このへんにパン屋さんはありませんか?」。「パン屋さんならお隣です」。 はげまそう 「隣が何のお店かも知ることができたのでは。   そこで掘り出し物のいい買物ができたり」 「ホールインワンじゃなかったけど、バーディやね」 (69、70、71、72ページ 白黒反転) 就労 私たち働いています もともと見えにくかった、さらに見えにくくなった私、どうにかこうにか奮闘中  見えにくい中で就職し、さらに見えにくくなりながら働いておられる方の環境や思いを語っていただきました。見え方とその変化、業務内容と環境整備など、お二人それぞれのこれまでと今を共有します。  少しだけ休職して訓練、拡大でどうにかやってます ペンネーム/お預けフルーツパフェ(30代 男性 弱視)  就職した時の見え方は右眼0.1、左眼は視力0でした。文字認識はできましたし、小さな文字はルーペで見ていました。現在も視力の数値には変化はありませんが、眼鏡をかけるようになったため、視野が狭くなりました。歩行の時は用心のため、白杖を持つようになりました。以前は近視気味だったので、小さな文字もある程度見えていましたが、今はルーペを使わないと見えにくいです。小さな文字を枠内に書く時にはルーペは必須です。  入社当初は伝票の入力、在庫管理をしていました。最初からスピード感のいる仕事は難しかったです。電話応対はパソコン見ながら素早くしないといけないので、私が担当することはありませんでした。障害者就労で入社しているので、見えにくさへの配慮があり、周りの方より仕事量も少なかったです。  入社3年を過ぎた頃から、私の見えにくさは増しました。配慮として大きなディスプレイを会社が用意してくれました。この状態になって3年ほどは、さらに業務量が減りました。スタッフも変わり、今は少しずつ以前やっていた伝票入力などもしています。がんばって見ているので目が疲れますね。やはりしんどいです。会社から自分にできるお仕事をいただいているので、それを誠実に果たしたい、この思いが自分を支えています。  私は仕事をテーマにしたサロンにたまに参加しています。ここで他の働いている人の体験などを拝聴しています。  25年ぐらい手術もせず、見え方も変わらなかったので、そのままいけると思っていました。でも網膜剥離を起こし、見え方の状態が変わりました。ルーペがあっても長く本を読むことが今はしんどいです。今更ですが、もっと仕事や趣味などの本を読んでおけばよかったなあとも思います。  見えにくくなった時点で短期間休職し訓練施設に通いました。歩行、音声と拡大を活用したパソコン操作の訓練をしました。働き続けるために何ができるか、ちょっとでもできることがあれば、それが視野にフィットするルーペだったり、人とのつながりだったりします。訓練で出会った方からきららの会を紹介され、多くの同世代の仲間に出会えたことが大きかったです。このつながりが自分にとってかけがえのないものとなりました。OSのアップデートなどの環境変化で、今まで使えていた機能に不具合が出た時も、仲間に相談したら、解決策のアドバイスをもらいました。今思えば、少しだけ休職して訓練、これが正解だったと思います。 見えにくいならではの価値を強みに ペンネーム/ラズベリーソース(40代 女性 弱視)  入社当初は、視力は両眼共に0.02程度でルーペで文字を読んでいました。パソコンの画面の読み取りは音声よりも見るほうを優先していました。両眼共に中心視野欠損はありましたが気にはなりませんでした。歩行にも支障はなかったです。パステルのブルーとグリーンの見分けが苦手だった程度です。  今は、視力は両眼共に0.01程度でルーペでも文字は見えますが長文になると読めません。パソコンは文字の読み取りは音声で、画面のレイアウトは拡大画面での操作です。「聞く」を優先し、「見る」を補助的に使っています。中心視野の見えにくさが気になるようになり、歩きにくくなりました。視野は上部分より足元のほうが見やすいです。明るいのは苦手でまぶしさを強く感じています。赤と黒の見分けがつかないこともあります。  入社当初の業務内容は、マーケティングの分析資料作成、商品カタログ、折込み広告の企画、校正、ノベルティ製作の社内外での打ち合わせなどでした。画面拡大ソフト、スクリーンリーダー、拡大読書器を使用していました。デザインを扱う業務が多かったので、打ち合わせの会話の中でデザインのエッセンスを相手から聞き出す工夫をしていました。  見え方の変化に関わらず、一般の社員と同様に異動はするので、異動に伴って業務内容も変化しています。見えにくくなったからという理由で異動や業務変更はしていません。現在の業務は新規ビジネスの開発の情報収集、企画です。使用する機器は入社当初と同じですが、拡大で確かめる場面や音声操作を使うことが増えています。後輩や同僚のサポートをうまく使って効率の良さを意識し仕事をしています。見てもらったほうが早いものに関しては、無駄に時間を使って自分で頑張らないことにしています。  業務上、必要な知識のセミナー(社内外)は受講しています。目が悪いことを伝え、データーで事前に資料の提供が可能か確認しています。長時間の場合は、パソコンを使うことを伝え、電源が取れる席をお願いしています。その場で臨機応変に必要な支援依頼をしたり、工夫したりするようにしています。  事前準備が整わない場面、例えばその場で出された資料にすぐに対応できなかったりすることがあります。企画書をまとめるスピード感、これは晴眼者のようにはいきません。そんなとき、しんどい気持ちになることもあります。けれど、自分が会社や職場で果たすべき役割があること、同僚も快くサポートしてくれながら認めてくれていることが、今の私の支えとなっています。  晴眼者には負けないと思ってがむしゃらに頑張っていたあの頃、それはちっぽけなものさしだったのかもしれません。でも、あの頑張りがあったからこそ、いまの自分があります。素直に声をかけたい、「あの頃の私、よくがんばりました」と。  これからも会社やチームにとり必要とされる人材であり続けたいと思っています。そのためには社会やニーズの変化に対応できるスキルや知識を身に着けていかなければなりません。スキルの無さを「見えにくいから」という言葉に置き換えないように心がけています。そして、「見えにくさ」の価値をプラスできれば素敵だと思います。見えにくいからこその気付きを新しいビジネスのきっかけ作りや建築のデザイン、会社の制度設計に関わる業務の中で発揮しながら、「バリアバリュー(障害を価値に変える)」の精神で自分らしく進んでいきます。  フォント:UD新丸ゴM(サイズ14pt 行間8pt 字間−25) あるある 失敗談に は・げ・ま・し・を ●おじぎ  ビジネスでお客様に資料をお渡しし、説明を終えたときのこと、頭を下げてお礼を言うとその資料が自分の頭に当たってしまいました。相手の方は老眼だったのか、想定外に資料を離して読んでおられたようです。ヘッドバットかましてお礼のあいさつなんて。 はげまそう 「人とはちがうかたちやけど、きっと熱意はよく伝わったよ」 「熱意は伝わったと思う。 なりふりかまわず思いっきりの熱意」 「それをきっかけに仲よくなるしかないよね」 (73、74、75ページ 白黒反転) 就労 私たち働いています 見えにくくなって仕事を辞めた時の思いと今 ペンネーム/虹色の空(30代 女性 弱視)  小学生の頃の卒業アルバムに将来の夢を書いた。そのことをずっと忘れずにいた。高校を卒業し、専門学校へと進んだ。そして、専門学校を卒業して就職した。迷いもなく、悩みも少なく、夢が現実になった!  その頃までの私は視力に少し不安はあったが、特に支障はない程度だった。好きな仕事ができること、社会の一員になれたことが素直に嬉しくて、毎日が楽しかった。  働きだして6年目くらいだっただろうか、なんとなく見えづらさが気になりだした。不安になりいくつも眼科を回ってみたが、特に異常はないと言われるばかり。でも、明らかに今まで見えていた距離から見えない、認識できない。だましだましで、見えにくさをカバーしながら過ごす毎日が続いた。  その頃の私は、ルーペや単眼鏡(たんがんきょう)など、便利な道具なんて知らない。でも、もしも知っていたとしても、なかなか人前では使えなかったんじゃないかなと思う。見えにくさを知られてしまうのが嫌だったし、怖かったから。会議の資料を拡大コピーして先読みして予習したり、時には嘘の理由をつけて見にくいことを隠すことが増えた。気のせい、気のせい!と思いたいが、実際そうもいかないことが多々出てくる。だけど、誰にも相談できない。不安はどんどん増える…。そして、酷使してしまっている目の疲労も増えていくばかり。毎日が必死だった。  そんな生活が2年くらい続いただろうか。ある時訪れた眼科で、初めて「すぐに大きな病院で診てもらってください。紹介状を書きますから」と言われた。あまりにもあっさりと、しかも淡々と。さらに、「仕事はもうできないかもしれないですね。これからのことも考えないとね」とも。そのあまりにも事務的な言葉…。衝撃すぎて理解できない。初めて聞いた病名、それってどんな病気なの? 今後どうなるの? 急に見えなくなるの? 次から次に不安なことばかり、頭の中をグルグル回る。家族にどう話そうか? これからどうしようか? どうなるんだろう? 不安は次々あふれてきて、涙が止まらなかった。  家族に話した時、私の想像以上にショックを受けた母の姿があった。それを見た瞬間、「私は大丈夫。病気ってわかってなんかホッとしたよ。だから、とりあえず病院に行ってくるよ」、精一杯の強がりで笑って言った。その後の検査で病気は確定した。だけど、これから先の生活、仕事、病気の進行具合、どれをとっても誰も教えてくれるわけではない。結局はだましだましの生活が続いた。  病気のことを隠して働くこと、悪いことをしているわけじゃないのに、なんだかいつも罪悪感みたいなものがあってしんどかった。ある日、思い切って上司に打ち明けた。意外にあっさりと受け入れてもらえたように見えた。が、現実はそうではなかった。何かあったら困るから…と配置転換させられ、特に仕事は与えられないままの毎日が始まった。急に私が抜けたことで明らかに大変になっている様子を目の当たりにして、皆への申し訳なさ、行き場のない苛立ち、納得できない怒り、辛かった。でも、表舞台には出られずとも、裏方なら何かできるはず! 歯がゆい気持ちも、悔しい気持ちも、あきらめきれない気持ちもいっぱいあったが、それでも仕事を辞めたくなくて、離れたくなくて、笑って乗り切ろうとした。「辛いはずなのに、笑ってがんばってるのを見るのはかえって辛い」と言われたこともあった。でも、私は負けたくない! ただその一心で貫いた!  だけど、「来年度の正職での継続は難しい。しかし、現段階ではその他の雇用形態は考えていない」と言われた。これって、遠回しに辞めてくれってこと。でも、諦め切れない思いと、現場復帰を訴えてくれる仲間に背中を押してもらいながら、とにかく今はやれることをやろう! と必死だった。なんとか職場に残れないかと、医師にお願いして病状の説明もしてもらったし、視覚障害当事者の団体の方にも力を借りた。でも、やっぱり継続は無理だった。やれるだけやった、とりあえず休憩しよう! 次の作戦を考えよう! どこまでも強気に退職を決めた。  最終日、私は堂々と宣言した。「必ず復帰します」。悔しさも苛立ちも山ほどあったが、私は負けたんじゃない、絶対にまた働くんだ! それからも何度も折れそうになった。もう無理かもって何度も思った。先の見えないトンネルの中でもがいて、悩んで、もやもやしながら、退職して5年を経て同じ職種で復帰した! 捨て切れない意地と小さなプライドのおかげで今も仕事ができている。  子どもの頃の夢が叶った! 天職だと思える仕事に出会えたこと、私にとって大きな財産だ。またいつか、これからのことを決断しなければならない時が来るだろう。その時には、もしかしたら別の職種になるのかもしれない。だけど、その時は諦めるんじゃなく、次へのステップ! そう思える自分でありたい。またさらに1つ、天職と思える仕事に出会えたらいいな。その日に向かって今をしっかり歩いていこう。  フォント:UD新丸ゴM(サイズ14pt 行間8pt 字間−25) あるある 失敗談に は・げ・ま・し・を ●新品  新しい洋服を着てお出かけ、値札などいろいろを取ったつもりが、予期せぬ所にも付いていました。「こんなにお得です」のシールが付いたままお出かけしてたわ。   近頃はお店のレジで取っていただく技を覚えました。 はげまそう 「かわいげがあります。あいきょうがあります」 「まわりをくすっと和ませる」 「解決法ナイスアイデア」 (76、77、78、79ページ) 就労 私たち働いています 休職して気づいたこと ペンネーム/ジャスミン茶(30代 女性 弱視)  私は、子どもの頃に網膜色素変性症と診断されました。高校、大学は特に問題なく進学しましたが、大学の4年生頃になって徐々に視野が狭くなりました。大学卒業後に障害者手帳を取得しました。  大学では心理学を勉強し、さらに2年間、大学院で学びました。就職活動はスムーズに進み、無事社会人デビューしました。母親ゆずりのポジティブで楽観的な性格の私は、「自分が障害者であることを強みに変えたい!」と考え、学んだ心理学も活かせると思い、障害者とかかわる仕事を選びました。この頃は白杖は持っていたものの、人の動きを見たり目を使って移動したりしていました。また、拡大すれば文字の読み書きもできる状態でした。  就職して1年目、視覚障害者の雇用は初めての職場のため、周りの同期と比べて仕事に時間がかかることもありました。しかし、楽観的な私はここでも「頑張ればなんとかなる!」とあきらめず、少しずつ仕事を覚えていきました。人の入れ替わりはあったものの、親切な上司や先輩、後輩に恵まれ、職場の人は私に自然に接してくれました。忙しい職場ではありましたが、見えにくさゆえのサポートもお願いしやすい雰囲気がありました。私は、仕事にやりがいを感じながら働いていました。  私の職業生活は8年目になりました。目の病気は自分でも気づかないうちにゆっくりと、でも確実に進行していました。今まで見えていたものが見えなくなりました。拡大読書器の文字や、白黒反転して拡大したパソコン画面も見えなくなりました。また外出では、慣れた場所でも急に進行方向がわからなくなったり、今まで認識できた目印を見つけることができなくなりました。「あれっ? おかしいな。私ってこんなに目悪かったかな?」、この感覚、確かにありました。今まで何度もありました。これが、まさに網膜色素変性症なんです。この「あれっ?」を体験するたびに、改めて「私の病気」を実感しました。  そんな中、職場では入職8年目の私のキャリアアップを見すえ、新しい仕事を任されるようになりました。これまでなんとか目を使ったり、周りの人に助けられながら仕事をしてきた私にとって、未経験の新しい仕事をこなすことはとてもたいへんでした。それでも拡大読書器で一つずつ文字を見たり、読み上げの機械を使ったり、自分なりの努力をしました。しかし、私のスピードでは到底追いつかず、結局周りに手伝ってもらうことがほとんどでした。  そんな状況の私、ちゃんと自分の力だけでできない私に、前任者の年上の女性は厳しく接しました。「なんでそんなに時間がかかるのか」「人が助けてくれることを当然と思わないで」と、きつい言葉を言われました。私は追いつめられました。他の人に何かを依頼するにしても、依頼する内容を把握するまでに時間がかかり、とにかくいつも情報不足の状態でした。次々と目の前の仕事に追われるばかりで、立ち往生です。周りの人も忙しく、頼むタイミングすらつかめない状況でした。つらかったけど、周りに助けを求めることができませんでした。ここに来て、初めて職場の人間関係に悩みました。そして、頑張ってもなんとかならないことを思い知らされました。見えない、仕事ができない、ひたすら悔しかったです。  こんな状況が3か月ほど続き、精神的にも身体的にも疲れた私は、家族に付き添われて病院に行きました。そして、自分の気持ちを整理して今後の働き方を考えるために、休職することにしました。  この原稿を書いている今は、休職して3か月目です。この3か月の間、たくさんの人に会い、相談をしてアドバイスをもらいました。まだはっきりとした答えは出ていません。  自分探しの出会いの中で感じたことは、自分を否定ばかりせず受け入れること、無理をしないことが大切だということです。これは、仕事の中で私が利用者の方によく言っていた言葉です。しかし、いざ自分のこととなるとそうはいかない、できなかったんです。自分を否定しない、受け入れる、無理をしない、なぜ私にはできないんだろう。私は立ち止まって考えました。それは今までの自分のやり方、考え方を変えなければならない、勇気のいることなのだと気づきました。そして、このまま仕事をあきらめたくはないと考えられるようになりました。  今は、復職に向けて新しい自分を作るために少しずつ準備をしています。白杖から伝わる触覚を使って歩く練習をしたり、また、前に習ったけど全然使っていなかった点字の勉強も始めました。やっぱり、自分ができなくなったマイナスを感じて落ち込むより、少しでもできることを取り戻していくプラスを喜べる私でいたいなと思います。  幸い、私には今までに出会った視覚障害の友達や、尊敬する先輩方とのつながりがあります。休職して、勇気を出して久しぶりに連絡をとって会いに行きました。誰もが私を受け入れてくださり、話を聞いてくださいました。私は、出会った人たちからたくさんのパワーをもらいました。私に寄り添ってくれた皆さんは、本当に温かかったんです。私も、自分のようにつまずいた人がいたら、少しでも力になれる存在になりたいです。まだ復職に対する不安はありますが、つながっている人たちにも頼りながら、私ができる仕事を作っていこうと思います。  いつも楽観的でマイペースな私ですが、久しぶりに落ち込んだことをお話しました。この落ち込み、立ち止まりをきっかけに、これからも病気と付き合いながら、うまくいかないことも受け入れていこうと感じられるようになった今日この頃です。読んでくださった方、ありがとうございました。  フォント:UD新丸ゴDB(サイズ16pt 行間8pt 字間−25) あるある 失敗談に は・げ・ま・し・を ●ドア  新幹線乗車時のこと、トイレのドアだと思って開けたら車掌室だった。 はげまそう 「開けてすぐに気づいてよかった」 「とりあえず開けてみるのは正解だと思います。積極的」 (80、81ページ 白黒反転) 就労 私たち働いています 今になって見えたもの ペンネーム/オッドアイ(30代 弱視)  新しい職場で働くことが決まった。今度は視覚障害者に関わる仕事だ。今までの転職回数3回。免許は取得したものの諦めた仕事が1つ。視覚障害のせいで、散々翻弄されてきた。心が折れてしまい、家の中に・自分の中に、閉じこもってしまった時期もあった。不真面目に生きてきたつもりはないけれど、視覚障害を理由に、ふらふらと計画性のない行き当たりばったりで中途半端な、大成とは程遠い人生を送ってきた。  幼児教育科のある短大を卒業し免許を取得したものの、仕事にすることはできず、営業補助の仕事に就いたが、半年で会社を去り、IT系のお店の接客業は5年半で限界を迎える。心が折れてしまい、黒くて深い靄(もや)に覆われてそれからの約2年間を過ごした。そして、人材派遣会社での事務補助として必死で社会生活になんとか戻り、気付けば4年。これが私の半生であり、なんともまぁ一貫性なく点々とした経歴…。十数年を費やし、自分はなにも成してこなかった。自慢できることなんて、なにひとつない。  数カ月前、提出予定の履歴書に職歴を書きながらそんなことを思い、自己PR欄で手が止まる。それらしいことを書いておくか。『社会経験を活かして、御社での業務に貢献いたし…』  そのときだった。長年少しも通ったことのない鼻詰まりが突然なくなり胸いっぱい空気が吸えるような、ずーっと思い出せなかったあの時街ですれ違った人が誰だったのかわかったような、数年前の失くしものが見つかったような。私は気づいた。それに気付いた瞬間、映画『十戒』で海が割れるシーンのごとく、私の人生に一筋の線が通る。なんの繋がりも関係性もないと思っていた飛び石のような人生が、1本の軌跡と呼べる道に初めて見えた。  まず、幼児教育を通して配慮とは・支援とはどういう心構えで、実際にはどう実行していくのかを学んだのだが、それにより今度の仕事の根幹である福祉の精神や、必要とされる姿勢を既にある程度身に付けられているのではないか。そして、IT系のお店の業務では、精度の高いビジネスマナーや、コミュニケーション能力を鍛錬、ホスピタリティー精神やヒヤリング能力を身に付け、また、これからの視覚障害者にはなくてはならない IT機器の基礎に触れることができた。これらは、さまざまな問題を抱えた人々に寄り添うためには有効であるはず。  さらに考えは進む。視覚障害者を取り巻く問題を解決するために関係各所へアプローチしていくこともあるかもしれない。ブランクはあれど、営業スキルもばっちり身に付けてある。人材派遣会社では、事務処理の優先順位の付け方や期限内に仕上げる重要性と難しさ、人や物や期日を管理する大変さと対処の仕方を学んだ。どんな団体・企業でも、円滑な運営には事務処理も不可欠であるから、この経験も活かせる。  どれもこれもが武器じゃないか!! 今までの無意味に思えた点達は、ここで働くための、ここに線を繋ぐためのものだったのか!! あてもなくさまよっていた魂がこの時浄化され成仏した。本当に成仏しては困るが、腐ってた心が確かに水を得た。  実際、そんなこと今度の職場では必要ないかもしれないし、履歴書の PR欄も試験官達の目にも留まってないかもしれない。所詮、自己満足でしかない。でも、そんな思考になれたこと自体に、驚きと感謝と希望を今、私は持っている。私のように、視覚障害のせいでさまよっている・閉ざしてしまっている・諦めてしまっている、そんな人たちがまだまだ多くいると思う。悲しいかな、視覚障害を持った子供たちも絶えず生まれてくる。そんな人たちの力になれるかはまだわからない。私なんかでは少しの力になることすらできないかもしれない。せめて、力になってくれる人と繋げることくらいはしたい。それなら私でもやれるかもしれない。  せっかく通せた線。その線を消さないように、この先もその線を引き続けていけるように、穏やかながらもしっかりと、やっと見えた『これから』を見失わないように歩いていきたい。  フォント:UD新丸ゴM(サイズ14pt 行間8pt 字間−25) (82、83、84ページ) 就労 私たち働いています 見える人の中で働くということ ペンネーム/ミルキーウェイ〜寄り添う色〜(30代 女性 全盲)  私は、15歳で視力を失いました。当時の私がまず感じたのは、「生きていけない」ということでした。当然、自分が働くということを思うことすらできませんでした。見えていたころの私は、医者になることを夢見ていました。失明と同時に、その夢は私の前から消えました。2年間の引きこもりのあと、盲学校へ進学して初めて視覚障害の人と出会い、3年間を過ごしました。  大学入学以降、現在にいたるまで、私は見える人の中のたった1人の見えない自分として生きてきました。今、振り返ると、周りとかかわるためには自分の障害と向き合わざるをえなかったと思います。「見えていないってどんなことなの?」をどのように見える人たちに伝えていくかが私の課題でした。そんな「私に与えられた課題」と向き合うことが現在も続いています。  大学では、ある程度授業保障がされていました。それは、お金を払って学ぶ場所だからこそ求めることのできる保障です。社会に出て働くという立場になれば、お金をもらう立場です。どこまで合理的配慮を要求していいのか、どこまで自分1人でクリアすべきか、働く中では常にこの課題がつきることはありません。他の人と同じスピードで仕事ができないことを理解してもらった上で同じ給料をもらうのか、自分がどうしてもこえられない部分を別の部分で追いこさねばならないのかと考えることもあります。このように自分を追いつめることに疑問を感じながら、合理的配慮を求める権利と業務効率を上げる義務との狭間で悩みます。  私が業務の中で見えないゆえの「困る」に出会うたびに、音声パソコンが何もかも読み上げるのではないことを説明する必要があります。私の申し出に対し、「システムの問題なのか、スキルに問題があるのか、単にサポートに頼ろうとする甘えなのか」と上司や同僚は考えます。また、限られた時間でどれだけの業務成果を出せるかをシビアに判定されるので、「できない」を「できる」にするためのサポートの求め方そのものに葛藤がありました。  私が複数の職場を経験して得たことは、課題へのトライの中で生まれたメリット、デメリットを蓄積できたことです。それはパソコン操作のような事務作業、見えないゆえのコミュニケーション上での工夫です。少しずつタイミングに配慮しながら、自分にできること、できないことをともに働く仲間に繰り返し気持ちよく伝え続けていくことを大切にしています。そして、なぜできないのか、なぜこれだけの時間が必要なのか、「WHY」と「THE REASON」を明確に伝えなければなりません。その上で「自分はここまでやっていますよ」というアピールも少しずつきちんと伝え、サポートの要求は小出しにします。一度に言うと、「この人、仕事できないのになぜここにいるの?」と、理解を求める行為がマイナスの理解へと動いてしまいます。「エクセルのこうしたレイアウトはスクリーンリーダーでは読まないので、今後のレイアウトについてはお願いできますか」と、ピンポイントで「見えないことの限界」を伝えて、少しずつの理解につなげていくようにアプローチしています。  また、パソコン操作、上司への進言、漢字表記校正など、それぞれの得意分野のキーパーソンを見つけておくことも大切です。「○○さん、パソコンのシステムに詳しいですよね。もし今お時間があれば、少しこの部分で教えてもらえると助かるんですが、ちょっと見ていただくことはできますか」、サポートに対しては、「助かりました。ありがとうございました。おかげで仕事ができそうです」と笑顔で伝えます。そして、「あなたのサポートの力が私の仕事を動かしてくれました」という感謝と成果をきちんとフィードバックします。こうした働きかけを積極的にすることで業務効率が上がり、抱える問題も減ってきます。できないことへのプレッシャーでしんどくなる時間、葛藤する時間を減らすことで、自分自身の仕事と向き合う気持ちもプラス方向へ動きます。  とはいうものの、全盲の私には、オフィス内で声をかけるタイミングの難しさは容易には解消されません。不在の人が帰ってきたら声をかけてくれるよう頼んだり、その日の自分のスケジュールをよく見えるところに貼り出して、自分のことを気にしてもらうためのアピールをします。そして、自分の困ることに対する周りの積極的理解につなげるための会話にも工夫しています。先に「できます」を伝え、あとから「苦手」を伝えるようにしています。自分にできる・できない・がんばる・サポートをもらう、この4点を考えて自覚しておく必要があります。  また、自分で環境を整えるための発信をします。同じことを伝えるにも、提案の仕方で受け止め方が変わります。定位置にものを置くということを提案することがみんなの働きやすいにつながることを、見えないゆえの工夫でなく、誰もに優しい工夫であることとして周りに受け入れられるよう働きかけています。  必要な環境づくりが相手に不快感を与えないよう気配りしながら、あきらめずに伝え続けることをこれからも大切にしていきたいと思います。  フォント:UD新丸ゴDB(サイズ16pt 行間8pt 字間−25) (85、86、87、88ページ) 就労 私たち働いています 障害者いいやつばかりじゃない ペンネーム/ミスターチェックメイト(50代 男性 全盲)  「いつもみんなのために本当にありがとうございます」「なかなかできることではないですよ」「本当に頭が下がります」。ありがたいことに、こういったお言葉をよく頂きます。  突然の事故で失明してからもう20年近くになります。いろいろな方々にご支援頂いて、仕事も継続できています。今では、仕事や余暇、身だしなみ等々の会の幹事やお世話役をさせて頂く日々です。お願いされてお引き受けした役割もあれば、自分で会を作って動いているものもあります。  そうした役割を担う中で、冒頭のようなお言葉を頂くことがあります。私も感情のある生身の人間ですから、褒めて頂いて嬉しくないはずはありません。でも、時に何か違和感のような、何と表現してよいかわからない感情に捉われます。それは、10年以上そうしたお役目を担いながら感じ続けているものです。  周りの方々は、私が自分の時間を犠牲にして、困っている他の視覚障害者のために頑張っていると思っておられると思います。確かに日々仕事で疲れている中、帰宅後、また土・日の休みを利用してそうした活動をしています。仲間のために動いているということも、全く違うとは言えません。嘘でないのは事実です。   対外的にそうした説明をすることもあります。それはなぜか?周りの方々からそうした答えを期待されているからです。当然そうしたことが理由であるはずだ、そうでなければならないといった空気感や雰囲気を感じています。これは、あくまでも自分の皮膚感覚です。  でも、「お前、本当なのか?」と自問自答します。本当の答えは、それはきっと自分のためにしている! 自己満足のためにしている! 「そうじゃないのか? おい、お前」。  確かに、けなされるよりは褒められたいと思います。心の中で「もっと褒めてくれ」と叫んでいる自分もいます。「してあげたのに」「してあげているのに」と、一番思ってはいけないことを思う嫌な自分がいます。だから、周りの方に褒めてもらうと、「違うねん!」って心の中で叫んでしまいます。なのに、笑顔でお礼を言っている自分がいます。  時に、家内にそうした活動でのトラブル等々を愚痴ることがあります。そうした時に、家内が必ず言う言葉があります。「嫌だったらやめたらええやん。アナタ、自己満足でやっているのでしょう? だったらそれでええやん」。家内の言葉は、いつも私の心の鏡です。  仕事でもそうです。私は、会社に入った以上、トップを目指して仕事をしていました。実際、トップになるのは不可能に近いことはわかっていましたが、そうした志を持って必死で仕事をしていました。そして、優秀な同僚達を見て、現実的なラインとしての自分の本音の目標も定め、昇格・昇進を積み重ねてきました。  そんな中で、不慮の事故で失明しました。「あいつらには負けない」という思いだけで、逆風の中復活しました。今も必死のパッチの日々です。  当然、会社の中は晴眼者ばかりですし、その土俵での勝負となります。「お前、目が見えないのに立派やなあ」と、一定の評価をしてくれる上司、同僚もいます。本気で言ってくれる人間もいれば、同情の中、哀れみを持って言う人間もいます。失明をきっかけに離れていった連中もいました。  晴眼者と同じ土俵で勝負…これが建前上の説明です。しかし、本気で考えれば、自分が晴眼者だったとしても、勝負する相手としては大変優秀な仕事のできる同僚ばかりの世界です。そんな建前だけでは昇格・昇進はできません。私は復活して10年以上経ちますが、その間、昇格・昇進はできていません。もちろんすでにそれなりの役職でしたので、簡単でないことはわかっています。自分の目標としていたあと1段階の昇格・昇進を、今でも泥臭く、心の中でギラギラと狙っています。  もちろん努力は惜しむことなく、日々全力投球です。それだけなら綺麗事ですが、嫌な自分ということでいうと、失明したことを逆手に取って上司とも交渉しています。今の仕事は失明したからこそできる業務であり、失明してからの自分の広告塔としての活動をアピールしています。そうしたことからいえば、視覚障害者になったことも昇格・昇進のために利用している自分が存在しています。嫌な奴ですよね。でも、いいんです、それも偽らざる自分ですから。  人って性善説で物事を考える…そうした風潮がありますよね。でも、本当にそんな性善説だけで生きていけるのでしょうか?私にはできません。  上述のプライベートでの視覚障害者の活動でも自己満足と書きました。もっと究極な言葉で言えば、せっかく視覚障害者になったのだから、その世界で名前を残したい。「あれはあの方がやったことやで」「あの会を作ったのはあの方やで」と、よい意味で視覚障害者の後輩達から名前を覚えてもらいたい、歴史のページに名を残したい…そうした思いの中で活動しています。  そんなギラギラとした理由を聞いて、周りの人はどう思われるでしょうか?引かれるかもしれませんね。他人のために自分を犠牲にして、社会のために…そうした心地よい言葉を並べないといけないでしょうか? 50歳も過ぎて、人間もっと丸くなって、周りから尊敬される人に!頭では理解していますし、そうなりたいとも思いますが、今の私はまだまだギラギラした上昇志向の塊みたいな存在です。  もちろん、これからも視覚障害者のさまざまな活動は続けていくつもりです。そうした活動によって仲間の多くが救われるのなら、役立つことがあるのなら、それは喜ばしいことですし、嬉(うれ)しいことです。  でも本音のところは、自分のためにやっている、自己満足のためにやっている、いやいや自分の名前を残すためにやっている。だから言います。「障害者、いい奴ばかりなわけがない。こんな俺もいる」と!  フォント:UD新丸ゴDB(サイズ16pt 行間8pt 字間−25) あるある 失敗談に は・げ・ま・し・を ●おみそ汁  おみそ汁に乾燥わかめと想ってコーンフレークを投入してしまいました。 はげまそう 「食べれるし、それくらいOK」 「危険じゃなくてよかったよ。食材ならOK」 「そうやって新しい味の発見があるかも」 (89、90、91ページ) 結婚 一人より二人で 色鮮やかに描き出せ ペンネーム/ SKY Blue Frog(20代 女性 全盲)  人生の一大事、結婚をして始まった夫との二人三脚の毎日。ドキドキ要素満載のこの新生活に、最初こそ一抹の不安を感じたものの、気づけばすっかり慣れ、1年が経とうとしている。やることを次々とこなしているだけでも、どんどん日々が過ぎて行くけれど、そこに夫がいてくれる。  夫「わっ! あと5分しかない。急げ!」  私「急いだらホームから落ちるよ。あっ、そうそう今日の夜ご飯何にする?」  夫「久々に茶碗蒸しとかは?」  こうした夫との暮らしが始まったのは、柔らかなオレンジ色の陽の暖かさを感じ始めた去年の3月。私も夫も全盲で、初めての大阪暮らし。夫は陸上選手で、私は4月から新しい学校に通い始めた。ドキドキ要素満載のこの新生活に、最初こそ一抹の不安を感じたものの、気づけばすっかり慣れ、1年が経とうとしている。  私たちのとある1日は朝ご飯を慌ただしくかきこむところから始まる。メニューは昨日の残りの鮭のムニエルと白和え、味噌汁そして白ご飯。  9時を回ると夫は仕事に向かい、私はブレイルセンスやら定期やらをリュックに詰め込み、最寄り駅へと急ぐ。どうにか電車に間に合い、車内での椅子取りゲームに勝利したところでスマホを開く。スマートニュースのアプリを開き、今日のニュースやレシピのコラムを見て過ごす。  学校に着いたら授業を受ける頭に切り替えるけれど、時折、今日スーパーで買う物を考える。昼になると学食に行き、友達とスタバの季節限定メニューの話をしたり、修了論文が終わらないことを嘆きあったりと、学生らしいひと時を過ごす。お腹がいっぱいになり心地よい眠気を感じ始めたところで授業が再開される。午後の授業は眠気との戦いだ。授業のコメントを書き終え提出すると、友達と昼の続きを話しながらのんびり駅へと歩く。電車に乗ると再びスマホタイムだ。1日でたまったラインやメールを返し、SNSを覗いているうちに最寄り駅に到着する。駅に着いたら、スーパーに直行し定員さんに今日の広告の品を見てもらいながら買い物をする。スーパーを出ると右手に白杖、左手に買い物袋をさげフラフラと家路につく。  家に帰れば暖房をつけ、ご飯を作り始める。一通り夕食が完成すると1時間ほど仮眠を取る。そして心地よい眠りから目覚めたところで夫が帰宅。二人でご飯を食べながら今日1日分の話をする。ご飯が終わったら私はごろごろしたり、洗濯物をたたんだりとのんびり過ごす。時折、台所で洗い物をする夫と、1時間後には内容を覚えていないようなたわいもない会話をする。それから眠りにつき、また1分1秒を争う慌ただしい朝を迎える。  たまに時間が合えば、二人で気になっていた映画を観に行く。ワイファイのある自宅でUD Castのデータをダウンロードすることは、我々にとって大切な準備である。また、余裕のある朝は近くのカフェにモーニングを食べに行くこともあるし、夕飯を作る時間と気力の無い夜は、二人で近くの安くておいしい寿司屋に行くこともある。  ここまで私たちの生活について書かせていただくと、「これは順風満帆なハッピーライフの自慢か何かか?」とお思いになる方もいらっしゃることだろう。しかし、正直に申し上げてこの生活にも大変なことは多分にある。二人になったからこそ、一人では存在しえなかった問題が時おり生じるのだ。ここでは、発表できる程度のソフトな物を紹介したい。  ある時、夫がシャンプーとリンスを詰め替えてくれたことがある。だがその時シャンプーボトルにリンスを、リンスボトルにシャンプーを誤って入れてしまった。しかもどちらも半分ずつ残っていたため、泡の立つリンスみたいな混合物がボトル2本分できあがった。あいにくその日は、私の虫の居所が非常に悪かった。「しっかり触れば間違えないでしょ、どっちも使えないじゃん、どうすんのこれ?」と責め立ててしまったのである。以後夫は、シャンプーとリンスの詰め替え業務に一切携わらなくなった。よく考えれば一大事とばかりに騒ぎ立てる必要も無かったことであり、「詰め替え頑張ってくれてありがとう」と言えればそれで良かったことだ。あるいは怒った後でも「ごめん」と謝れたならそれで済んだのかもしれない。そのたった一言が言えないのも家族という近い関係になったからこそなのだろうか。  それ以外にも、全くお互いのスケジュールが合わない時期もあった。2人そろって1日ゆっくり家にいられたのが、お正月になるまで3か月近く無かった。このすれ違う日々に辟易とし、家出計画を企てたこともある。  こんなことがありながらもこうして1年間共に過ごしてきたわけだ。振り返ってみると、目まぐるしく過ぎる日々の中に、さまざまな出来事があり、どの瞬間も喜怒哀楽いろいろな感情が溢れていた。きっとこれからも元気な笑顔が金色に輝く日もあれば、悲しみに満ちた深い青色にさいなまれる日もあるだろう。  これからも、絵具やクレヨン、色鉛筆、色とりどりの道具で鮮やかに描き出される日々を私たちは生きていきたい。  フォント:UD新丸ゴDB(サイズ16pt 行間8pt 字間−25) (92、93ページ) 見え方体験 フォント・ ゴシック体 文字の見え方を体験してみよう ゴシック体48ポイントから10.5ポイントまで 以下の文字の見え方体験素材は、見えない・見えにくい五七五です。 すべて色鉛筆読者の皆様の作品です。 白背景に黒色の文字が92ページで、白黒反転が93ページです。 48ポイント カサカサと 風が教えてくれる 秋の色 36ポイント 二拍子で 捌く白杖 草紅葉 28ポイント 風に立ち 瞼のなかの 紅葉狩り 26ポイント 香水が われを追い越す 霧の朝 24ポイント 僕にかな 通りすがりの ご挨拶 22ポイント 手をつなぎ キッスのはずが ガクッ!マスク 20ポイント 探し物 足でけとばし 逃げられた 18ポイント 一粒が 転がって また 転がった 16ポイント 落ちた時 あらで済まない 致命的 14ポイント 信号は 命がけだよ ブラインド 12ポイント 青信号 勘でわたれば 赤だった 10.5ポイント 通りだと 思って気づいた 駐車場 (94ページ) あるある 失敗談に は・げ・ま・し・を ●おしゃべり  喫茶店で知人と向かい合ってくつろいでいたとき、相手が無言で席を外したのに気づかなかった。私は誰もいなくなった向かい側の席とひと仕切りおしゃべり。 はげまそう 「ひとこと言ってほしいよね」「無駄にはならない、話すリハーサルでした」 「プロポーズだったら悲しかったけど、おしゃべりなら大丈夫」 「目指せピン芸人、R1チャンピオン」 == (95ページ) 第3章の扉 第3章 自分らしさを求めて(アイキャッチは花型です) 余暇 趣味 スポーツを楽しむ (96、97、98ページ 白黒反転) 余暇  趣味 スポーツを楽しむ まわりを巻き込み、楽しんで ペンネーム/白と青(30代 女性 弱視)  「やりたいことはやりたい」「ほしいものはほしい」「あきらめたくない」、私は小さいころからそんな気性でした。  いきなり目が見えにくくなって、大好きなスポーツがもうできなくなる、一度は気持ちが沈みました。でも、あきらめたくない、やっぱりあきらめたくない。そう、何しろ私はあきらめがすこぶる悪いのです。というか、やりたい気持ちが勝ってしまうのです。なので、どうしたらできるようになるのかひたすら考えました。  まず、スキーのお話からしましょう。視覚に頼ることができない私は、前を滑る主人にストックをたたいて音を出してもらい、後ろを滑る娘に斜面の状態を説明してもらいながら滑ります。今季も、山形・蔵王温泉スキー場に行ってきました。ゲレンデでわいわい、声と音を出して滑っているグループは私たちくらいです。蔵王ならではの樹氷をこの目で見ることはできません。でも、娘が言葉で教えてくれて、想像することができました。どんな斜面か見られないので、もちろん転んでばかりです。そのたびにイライライライラ…ですが、真っ白な濃い霧の中を風を切って滑るのはサイコーです!滑り方をとやかく言ってくる10歳の娘にもイライライライラ…ですが、スピードに乗って風を感じるのはサイコーです!  次に、夏といえば海。スキューバダイビングについてです。スキューバでたった一つ大事なことは、バディと離れないように手をつないでもらうことです。それさえしてもらえれば、酸素はボンベから出てくるので、問題はありません。真っ青なきれいな海を見ることができなくても、色とりどりの魚たちを見ることができなくても、海の中心に浮かんでいる気分はサイコーです!  そして、今流行のボルダリングです。私が壁に登っている後ろから、つかむ石を「クロックポジション」で教えてもらいます。例えば、「2時方向近め」というふうに。視覚障がいを持っている人は、このやり方でやることが多いようです。  これらの三つのスポーツのやり方で共通していること、何だかわかりますか? すべて、人とコミュニケーションをとりながらやっているのです。あんなにも人とかかわることが苦手で嫌いな私だったのに、こんなにも人とかかわりながらスポーツをしているなんて、すてきなことだと思いませんか? 少しの工夫であきらめずにすむのです。  もう一つ、私が好きなことをあきらめたくない理由があります。娘にいろいろなことを経験させたいのです。そして、限界を決めてほしくないのです。あきらめない親の姿を見せたいのです。  見えにくくなってよかった…というようなきれいごとを言うつもりはないけれど、大好きなスポーツがコミュニケーションをとりながら楽しくできるようになったし、これはこれで楽しいのです。だから、視覚障害を持った仲間には自分の限界を決めてほしくないのです。あきらめてほしくないのです。まわりを巻き込んで楽しんでほしいのです。だって、「1人が好き」と公言していた私が、人とかかわりながらスポーツをするようになったんですよ。限界、好き嫌い、自分の中にあったはずなのに、いつの間にか私は変わっていました。  私の病気がわかったとき、主人が言いました。「見えない中でどう工夫していくことができるのか、未来が楽しみだ」と。そのときは共感できなかったけど、今ならわかります。見えなくてできないことも、やり方を考えてできるようにすればいい。あきらめない、あきらめが悪い、それが私。これからも、派手に転びながら「サイコー」をつかんでいきます!  フォント:UD新丸ゴDB(サイズ16pt 行間8pt 字間−25) あるある 失敗談に は・げ・ま・し・を ●香辛料  野菜炒めを作って、味付けに塩、胡椒をしたら、胡椒と間違えてナツメグを入れていました。スパイシーな物が好きで、いつも胡椒を多めに入れていたのが裏目に出ました。苦くて、とても食べられる代物ではありませんでした。 はげまそう 「もう1回、作ろう。それで解決」 「ナツメグを持っていること自体すごい。プロみたい」 (99、100、101、102ページ) 余暇  趣味 スポーツを楽しむ 夢中囲碁在り ペンネーム/淡浅葱の栞(60代 男性 弱視(手動弁))  視覚障害者囲碁の対局は、手で触れて確かめ、頭に碁盤を思い浮かべて、正々堂々と勝負をする。10年前、見えなくなってやめて久しい囲碁を再び始めることができた。仲間との対局の輪は、コロナ禍のためせばまってしまうかと思いきや、むしろ広がっている。囲碁とともに、仲間とともに、妻とともに届けるレポート、1つ読んでもらいましょうか。  「黒、6の三、ヌキ」  石を取り上げる音とともに聞こえた相手の声は、やや遠慮がちだった。遠慮がちなだけでなく、憐(あわ)れみを含んでいた。えっ、アタリ (次に石が取られる状態 )になっていた? 瞬間、サーッと顔の血の気が引いていくのを感じ、呼吸が浅くなる。あわてて盤上の石を触る。白・黒・黒・白…。指で探ると、あるはずの私の白石の抜き跡がポッカリ。  「グヒョーッンッン」  気が付くと声にもならない悲鳴を上げていた。何事かと周りに人が集まってくる。今度は入り交じる怒り、嘆き、悔しさで胸の鼓動が速くなり顔が上気してくる。勝利目前、入賞がちらつくなかでのあり得ないポカ。  「負けました」と、なんとか声をひねり出した私に、  「ああ、見損じをされましたね」と、審判員。  「ダメモトでやってみたんやけどね」と、晴眼者の対戦相手。   慰めの言葉など、役に立たない。目が見えていればこんなことと、今更どうにもならない愚痴が声に出そうになる。子どもなら手足をばたつかせて泣きわめくところだ。私は延々とぼやきながらも、よく負かされて泣いた父との碁の遠い昔を思い浮かべていた。  アタリならアタリと言って闇ざる碁 孤舟  毎年11月、東大阪の大阪商業大学で開催される「視覚障害者囲碁全国大会」。全国から視覚障害者はもちろん、各地のサークルで支援する晴眼者ボランティア、中学生の囲碁部員、聴覚や四肢などに障害を持つ人たちなど、100名を超える「選手」が集い、初級クラスから名人クラスまで棋力に応じた対局が組まれる。  碁盤は九路のミニサイズで、手で触っても動かないように磁石式の碁石をはめ込むようになっている。またその碁石は、白と黒が区別できるように黒石だけに突起がついている。この碁盤を使って、私たちは全盲・弱視・晴眼を問わず対戦することができるのだ。まさにユニバーサルデザインといってよいだろう。  対局では、相手にどこに打ったかわかるように、横 (数字 )と縦 (漢数字 )の組合せの座標をもって告げる。自分の手番のときは碁盤を触って考えることができるが、相手の手番のときは触ることができない。だからある程度上のクラスになると、見えない者は碁盤を頭に入れておかないと勝負にならない。見えないことによるハプニングも続出、ブラインド碁ならではのだいご味がそこにある。  私は10年前、この碁盤に出会い、見えなくなってやめて久しい囲碁を再び始めることができた。京都ライトハウスで月一度「囲碁サークル花ノ坊」の例会を主催する。指導をいただく先生とボランティアの方、そして参加者の世話をしてくれる妻のお陰だ。皆で対局や研究を重ね、全国大会にも参戦する。年々力をつけていく仲間の姿はたのもしい。  ところが、今年になって、新型コロナウイルス感染拡大によってサークルを休止せざるを得なくなった。ひとつの碁盤を触りあい、語り合う私たちの囲碁は、まさに避けなければならない「密接」だったのだ。思いもかけないミクロの襲撃に、またも囲碁ができなくなるという事態。  でも、緊急事態宣言が出されるなか、さまざまな場面でオンラインの交流が始まることになる。視覚障害者の世界でもそれは例外ではなかった。それならば、囲碁もオンラインでやってみようと、私はサークルのメンバーのひとりに呼びかけ、二人で Skype対局を始めることにした。それぞれが自分の碁盤を持ち合い、打ち手の座標を言い合う。私たちにとってはほとんど通常の対局と変わらない、いやむしろ、相手の手番でも碁盤を触っていられるだけによく手を読むことのできる対局なのだ。  こうして毎週末、オンライン囲碁に夢中になっていたある日、突然に神戸の聞き知らぬ方から、オンライン対局をしませんかとのお誘いがメールに届いた。どこで私のメアドを知った? 何という執念だろうか。どこにも碁●●という人はいるものなのだ。  その方のお陰で、今では大阪・東京の仲間とオンライン囲碁グループが立ち上がり、毎週末、相手を替えて対局を楽しんでいる。まさに、「コロナ禍転じて福となす」ではないか。  リアルの囲碁サークルも京都ライトハウスの感染対策が整うのを受けて、再開を模索中。全国大会はまだ難しいかもしれないが、またあの和気あいあいとした雰囲気のなかにも真剣さが混じる囲碁を通じた交流が始まることを楽しみにしている。  あの日の私の嘆きは帰りの近鉄電車でも続いていた。「こんなのもらってもええのかな」と、あの対戦相手の賞品を手にしたときのちょっとはにかんだ声が頭に残響する。鶴橋の駅に焼肉の匂いが漂うなか、私はいっそホルモンにでもなって焼かれて煙と消えてしまいたかった。  「相手を前にちょっと悔しがり過ぎ。マナー悪いよ」と妻に諭される。   何を言う。彼女とて初心者のころ、大石を取った私の額にいきなり張りを入れたくせに。あのときはまだ、石が見えていたっけ。それ以来、妻とは「勉強」はするが、「勝負」はしない。それが夫婦円満の秘訣なのだ。今ではおそらく妻の方が強い。実はそれが彼女と勝負をしないもうひとつの理由だけれど。  京都に向かう新快速の車中、眠りたいのに眠れない。あの局面が脳内で何度もプレイバックする。覚えておくがいい、今度会ったらと、密かな闘志を燃やす。だからこそまたどこかでと、その相手に思いを馳せるのだ。  碁敵は憎さも憎し懐かしし (落語『笠碁』より )  憎しみと親しみと相いれて、碁敵は永年連れ添った夫婦に何か似ている。  フォント:UD新丸ゴDB(サイズ16pt 行間8pt 字間−25) (103、104、105ページ) 余暇  趣味 スポーツを楽しむ 人生の伴走者(パートナー)とともに ペンネーム/賀茂川グリーンフラッシュ(30代 男性 弱視)  私は2012年から、賀茂川パートナーズ(以後は「カモパ」と表記します)というサークルに参加しています。視覚障害ランナーと伴走者である晴眼ランナーで構成されるランニングチームで、京都の賀茂大橋を拠点に月2回練習会を行っています。強度の弱視の私でも、伴走者と一緒であれば安心して自由に公道を走ることができます。  初めは趣味として気楽にやれたらいいなと考えていたのですが、走る距離、回数が増えるにつれてマラソンに熱中するようになりました。カモパを通じて、人間関係も一気に広がります。一方的なサポートではなく、お互いに励まし合い、活かし合えるといった伴走の魅力にもはまりました。  晴眼者である妻とも、4年前にこのカモパで出会ったのです。当時、たまたまお互いの家が近所だったことから、練習会以外の日にも月に数回のペースで一緒に走るようになりました。山や川に恵まれた京都市には、ランニングスポットがたくさんあります。長いときには30キロメートルほど、2人でいろいろな場所を走り、雑談もたくさん交わしました。お互い出身地が京都から遠く、大学入学を機に京都に来たということ、勤めているのが出版業界であることなど、共通点も多く、会話が弾みます。妻は私より7歳年上なのですが、人がらからか年の差はあまり気にならず、一緒にいて楽しいし、心が落ち着くと感じました。食事に行くなどして、あれよあれよという間に距離が縮まっていきました。  カモパの方々には非常に共感されることですが、伴走で一緒に走るということが自然とデートのような状態になるのですね。告白もOKの返事も、京都市北部の峠道をランニング中のことでした。その後も、ゆっくり自分たちのペースでお付き合いを続けます。順調のような、紆余曲折のような2年5か月の交際期間を経て、本年4月に入籍するに至りました。  私たちの共通の楽しみは、旅行先で観光がてら走ること。これまで、琵琶湖、天橋立、南紀白浜、宝塚、台北市などをランで巡りました。自転車ほどの速度はないものの、お金がかからず、そこそこの距離を移動できるという利点があります。グーグルマップで走るコースも自由に設定可能。走ったあとは温泉でさっぱり。今でも貴重な旅の思い出です。  交際期間最後の丸1年は、同棲していました。それまではお互いの家を行き来していたのですが、今後に向けて実際に一緒に住んで様子を見てみようということになったのです。  お互い会社員なので、家事は分担しています。ありがたいことに妻は料理が得意で、ご飯や弁当をつくってくれます。私の担当は、主に洗濯や掃除、皿洗いです。とはいうものの、完全にはできていません。  一人暮らしのときと比べると家事の量は倍以上に増えるので、慣れるまではたいへんでした。仕事や運動を終え、へとへとになって夜遅くに帰宅したとしても、そこには洗濯物が待っています。翌日が晴れなら、やはりしておきたいところ。妻は服を表裏逆にして洗濯機に入れる癖があり、いちいちもとに戻して干さなければいけません。今は慣れましたが、ユニクロのブラトップなど、中身が外にとび出して最初はわけがわかりませんでした。「自分の服は自分で洗濯しろやー !!」と言いたい衝動にかられますが、「じゃあ、お前のご飯つくらんぞー !!」と返されるのがオチなので、無心で黙々とやるしかありません。  基本的には穏やかな日々を過ごしてきましたが、ときには食事に絡むことなどでケンカもあります。私は、食事をしながら話すことが苦手です。手巻き寿司など、複雑で食べづらいもののときは、黙々と食べています。話をしながら楽しく食事をしたい妻はシュンとなり、そのあと怒り出します。  あるときは、私の誕生日ということで、妻が豪華な料理をつくってくれました。しかし、それを食べるというとき、こともあろうに私はテレビに夢中になりすぎ、妻を激怒させたあげく泣かせるという失態を犯したのです。せっかくの料理は台無し。ケンカというより、私の失敗ですね。  また、本年秋には挙式、披露宴、旅行を控えており、現在はその準備、相談に追われる毎日を送っています。たびたび互いの主張はぶつかり合いますが、こうした失敗により新たな気づきがあり、改善もできます。今後よい関係を築いていくために必要なことだと感じています。  よく「幸せですか?」と聞かれ、私は「はい、幸せです」と答えます。最近、この「幸せ」というのは、「楽」ということとはむしろ逆だと感じています。登り坂を自転車で登っていく、あるいは走って駆け上がっていくようなものだと感じます。苦しいけれど、あきらめずに努力し続けるということです。それでも、すぐ傍にパートナーという存在があるからこそ頑張れる。坂の上にある夢や目標を目指し、今後も2人で手と手を取り合い、自分たちらしく一歩一歩歩んでいきたいです。  フォント:UD新丸ゴDB(サイズ16pt 行間8pt 字間−25) (106、107ページ 白黒反転) 余暇  趣味 スポーツを楽しむ こんなことやってみた。すると 〜ヨガ編〜 ペンネーム/きらら(30代 女性 弱視)  最近、視覚障害者向けのヨガイベントがあちらこちらで開催されています。私はいつも姿勢が悪い状態でデスクワークをしているので、姿勢を伸ばす動きが多いヨガをすると体がすっきりします。一般のジムで行われている晴眼者向けのヨガプログラムにも参加できていたし、楽しむこともできていました。わざわざ視覚障害者向けのヨガなんかやらなくっても…、最初はそんなふうに思っていました。  あるとき、視覚障害者向けのヨガであるチャレンジドヨガに参加しました。一言で言うと、「100%参加できた!」です。この感覚、久しぶりでした。  私は、視覚障害者になってもう12年ぐらい経ちました。最初は視覚障害者としての生活に戸惑いもありましたが、もうすっかり自分自身の一部に視覚障害者というアイデンティティがあります。慣れとはこわいものですね。いつの間にか、いろいろな活動に50%ぐらい参加できていれば満足するようになっていたように思うのです。  例えばジムでのヨガプログラムは、いくら言葉で動きを説明するといっても、それは晴眼者を対象とした場合の説明です。私にはインストラクターの動きがまったく見えないのに、その説明の中には視覚障害者にとって必要な説明の50%ぐらいしかありません。どういう動きなのか、そもそも十分には伝わってこないのです。それでも、ほとんどできないエアロビクスのプログラムに比べれば50%も参加できているのだから、自分自身は満足しているのです。でも、あとの50%は内容がわからずに終わっているんですよね。  ところが、このチャレンジドヨガでは動きの説明はもちろん、それぞれの動きがどこの筋肉に働きかけるのか、その説明があることで姿勢を意識できるんです。また、言葉の説明だけではなく、2人1組になって行う動きを取り入れることで、他の人とコミュニケーションをとりながらもしっかりエクササイズができたんです。100%参加できるってこんなに楽しかったんだ! 見えていた頃に感じていた満足感、その世界を思い出したことに感動しました。この感動、翌日訪れる筋肉痛をもってじわっと体感できますよ(笑)。  今回のテーマは、「こんなことやってみた。すると…」でしたね。私はなんでもやってみたい!と思うんですけど、視覚障害のために周りの人に迷惑をかけたらどうしようという臆病な気持ちもあります。そういう意味では、視覚障害者向けプログラムがあると一歩を踏み出すきっかけになりますね。  こんなことやってみた。すると「意外とできた!」とか、「もう二度とやりたくない!」とか、自分自身にいろいろな感情が湧き出ることもおもしろいと思っています。先日体験したボールボクササイズでは、「インストラクターになってみませんか?」とインストラクターさんからメッセージをいただき、本気で考えちゃいました(笑)。  さて次は、この100%参加できるチャレンジドヨガが地元でも定期的にできるように、そしてこの感動を視覚障害のある子どもたちにもっと味わってもらえるように、次から次へと思いを巡らせています。春の風の中、新しいことを描いては思わずにんまりしている今日この頃です。  フォント:UD新丸ゴDB(サイズ16pt 行間8pt 字間−25) (108、109、110ページ 白黒反転) 余暇  趣味 スポーツを楽しむ ブラインドテニスを楽しむ ペンネーム/ブルースカイ(30代 男性 弱視)  ブラインドテニスは視覚障害者向けに改良されたテニスで、1990年に日本で生まれました。「視覚ハンディキャップテニス」と呼ばれていたそうです。その6年くらい前、当時、埼玉県立盲学校の高校生であった全盲の武井実良(たけいみよし)さんが、「目が見えなくてもテニスがしたい」という思いから研究を重ね、考案されたことが始まりでした。  私がブラインドテニスに出会ったのは2013年の春、友人から誘われて体験会に参加したのがきっかけでした。プレイヤーがサーブやレシーブの練習をしているのを見て驚きました。なんと、ボールがカラカラと音を立てながら空中を飛んでいたのです。しかも、サーバーからレシーバーへ、自分のコートから相手のコートへ、リズミカルにボールが行き来していました。そして、相手コートのプレイヤーは飛んでくるボールに合わせて小刻みに移動し、バウンドしたボールを打ち返していました。まさに、これがブラインドテニスでのラリーでした。  これを見た時、私はとても斬新さを感じました。これまでフロアバレーボールやサウンドテーブルテニス(盲人卓球)、ゴールボールなどはやったことがありましたが、いずれも地面を転がすことが基本でした。空中を飛び回るボールは、視覚障害者の球技では見たことがありませんでした。  しばらくこのラリーを見て圧倒され、いざ、初めて自分がプレイしてみることになりました。まずはサーブの練習です。フォアサイドから相手のコートのフォアサイドにボールを打つのですが、打つ方向を定めるのが意外と難しかったのです。左に行き過ぎるとサイドアウト、右に行き過ぎると逆サイドになりフォルトになってしまいます。微妙な角度を調節しながら相手のコートにボールを入れるのに慣れるまで時間がかかりました。バックサイドもラケットを持つ手は同じなのですが、フォアサイドとは感覚が違いました。角度が合っていたとしても、打ち方が弱くてボールがネットを越えないこともよくありました。何度か打っているうちに、ついに相手のコートにボールを入れることに成功しました。少し感動していた矢先、相手はボールを打ち返してきました。当然のごとく私は空振りをしてしまいました。  次にレシーブの練習をしました。相手プレイヤーがサーブしたボールを追い、3バウンド以内で打ち返すのですが、ボールの動きをとらえるのはかなり難しかったです。ほとんど空振りで、たまにラケットに当たっても相手コートにはなかなか届きませんでした。  どうすれば打てるようになるかと考えていたら、「ボールを見るよりも音を聞いてみたらどうか?」というアドバイスを受けました。確かに、私は弱視なのでボールの動きは少しは見えるのですが、すぐに視界からはずれてしまいます。気が付いたらボールは目の前にあり、打ち返すタイミングが間に合いません。私は、ボールの音源を頼りにボールの動きに注意してみることにしました。確かに音でボールのだいたいの位置はわかりましたが、ボールを見ようとしている自分がいました。ボールを目で追うとどうしても聴覚よりも視覚のほうが優先されてしまい、音に集中できません。  そこで、1バウンドまでは音を聞いてボールのおおまかな位置を把握し、自分に近づいてきたら見るというように、聴覚と視覚の両方を駆使してみました。そうすると少しはボールの動きが把握でき、ボールがラケットに当たるようになりました。とはいっても、なかなか難しいです。私は3バウンドまで有効なクラスなのですが、ボールは3バウンドすると勢いがなくなり床すれすれになってしまいます。このボールを打ち返すには姿勢をだいぶ低くしないといけません。また、音を頼りにボールの位置を把握するには、自分の足音でボールの音がかき消されないように注意しなければいけないということもわかりました。  ボールがラケットに当たるようになったら、次は打つ方向を定めることや力の加減が課題でした。打ち返したボールが相手のコートに入らずサイドアウトになったり、ラケットを振る力が弱くてボールがネットを越えない場合は、試合では当然自分の失点になってしまいます。このあたりが確実にこなせるようになればラリーが続けられるようになると思います。まだそこまではできておらず、1往復すればよいところで留まっています。  まだまだ練習は必要ですが、私もラリーが続けられるようなレベルに到達したいです。そして、日本ブラインドテニス連盟が主催する公式の大会にも出場できるようになりたいです。  私は中学時代は陸上部、高校時代は陸上部とフロアバレーボール部に所属していました。練習は多い時で月に4回くらいです。ラケットにボールがコンスタントに当たるようになるのに半年くらい、1〜2往復のラリーができるようになるのに1年以上かかりました。ただ、打ち方のコツや向きなどをつかめばもっと早く打てるようになると思います。ブラインドテニスは陸上競技や他の球技と比べると少しの体力でプレイできるので、気軽にスポーツを楽しみたい方やボールが宙を飛ぶ3次元の球技を楽しみたい方におすすめです。健常者の方にも楽しんでいただけると思います。ブラインドテニスの詳細については日本ブラインドテニス連盟のホームページをご参照ください。   フォント:UD新丸ゴDB(サイズ16pt 行間8pt 字間−25) (111ページ) あるある 失敗談に は・げ・ま・し・を ●お皿  大好物の八宝菜を頑張って作って、大皿にトロリと移したもりが、全部テーブルに流れていました。情けなくて涙が出そうでした。 はげまそう 「テーブルやったら、きれいやったら、食べれる」 「食べれる。全部じゃなくても」 「情けない、と思う代わりに、99%はうまく行ってた、あと1%やった、と思おうよ」 (112、113ページ) 見え方体験 フォント3 教科書体 文字の見え方を体験してみよう 教科書体48ポイントから10.5ポイントまで 以下の文字の見え方体験素材は、見えない・見えにくい五七五です。 すべて色鉛筆読者の皆様の作品です。 白背景に黒色の文字が112ページ、白黒反転が113ページです。 48ポイント つえさばき かっこよく決め ごっつんこ 36ポイント 空いたかな 腰をかけるや 婦女の膝  28ポイント 目的地 着けるか今日も スリリング 26ポイント 白い杖 持ってびっくり その魔力 24ポイント 杖よりも 速く歩ける 盲導犬 22ポイント 夢かない 盲導犬と 歩きぬく 20ポイント 大丈夫 そう言う前に ありがとう 18ポイント 手助けの 声に心で 合掌す 16ポイント 見えずとも 心通わす 伴走者とブラインド 14ポイント 慣れるまで 役に立たない 触時計 12ポイント 携帯を 手で探すより 固定電話 10.5ポイント 湯加減は 手でみる味は 口でみる (114ページ) あるある 失敗談に は・げ・ま・し・を ●フライパン  玉子焼きを作ろうとした時、ガスコンロもフライパンも黒くて、ガスコンロに玉子を流してしまいました。掃除しながら「なぜ見えぬ?」と自問自答、情けないわ。 はげまそう 「まぎらわしいとやられるよね」 「カラフルなフライパンで行くしかない。思い切って買い替えよう」 「そうじごくろうさま」 「痛い思いをして人は学ぶから、つよく学べたのでは?」 == (115ページ) 第4章の扉 第4章 見えにくさってどんなこと、つながって、分かち合って(アイキャッチはひし型です) ロービジョン 見えにくい世界で見えるもの 共感 安心して語る 傾聴する 仲間との出会いに支えられ (116、117、118、119ページ 白黒反転) ロービジョン 見えにくい世界で見えるもの 私にとっての笑い、あなたにとっての笑い ペンネーム/響き合う色と色(50代 男性 光覚)  皆さんは、「笑」という漢字にどんなイメージをお持ちですか? 髪を長くした若い巫女(みこ)の象形から「わらう」ができあがったようです。そんな由来の「笑」、言葉や状況から想像するとやはり明るいイメージではないでしょうか。「笑」から連想する言葉も、微笑み、笑い声、爆笑、笑みがはじける…。自分が笑うことで自分自身のいやなことを振りはらったり、他人の笑い声から元気をもらったりすることはありませんか。  視覚障害者になってすぐのころ、自分自身から笑顔がなくなり、私は他人の笑みさえ拒絶していたような気がします。でも、私はいつの間にか人と会話をして笑っていました。私は、どうやら笑う自分を想い出したようです。他の場所から笑い声が聞こえてくると、そのあたりにフワッとした明るさを感じます。  今回、私は「笑い声」が聞こえる二つのエピソードに出会いました。皆さんと共有したいと思います。 「迷子になった視覚障害者2人」  かれこれ6、7年前になるでしょうか。視覚障害者団体のイベントで弱視の友人とバラ園に行ったときの話です。  彼女は視野はあるけどぼーっとしか見えない、私は視力はあるけど視野が狭いと、それぞれ異なる見え方です。訓練同期で親しくなり、ときどき外で待ち合わせをするのですが、これがなかなかたいへんです。まず待ち合わせ場所で出会わない、いても見つけられない。「どこで待ってるの!」「そっちこそ、さっきから待ってるのにどこで待ってるの!」と電話で言い合うと、すぐ近くにお互いを発見。  みどりの窓口前で待ち合わせたときは、1か所しかないと思っていたみどりの窓口が3か所あり、お互い別の場所で待ってたりと、毎回待ち合わせで一悶着。その後もハプニング続出です。その珍道中がおかしくておかしくて、ハプニングそのものを楽しんでいました。  バラ園遠足の帰りは現地解散、ふとわれに返ると2人とも帰り道を知らないではありませんか。そこでガイドヘルパーさんと一緒の人の後についていくと、その方はまさかのタクシー利用。作戦空しく、今度はバス停に向かいます。  ところが寸前で乗り遅れ、次のバスは1時間後。仕方がないので歩いて駅に向かいましたが、駅に着くまでに聞くこと6回、やっとの思いで駅に。私たちより1時間後にバラ園を出た仲間と合流、「なんで?」と驚かれました。  ようやく電車に乗ってほっとする間もなく、おしゃべりに興じる2人。そろそろ下車駅に近づいたかな〜と思っていたら、いつになっても着かないばかりか、さっき過ぎ去った駅名が出てくるではありませんか。「えっ! どうして?」「あれ? おかしいね」という私たちの声が聞こえたのでしょう。前の席の人が振り向いて一言、「この電車は終点に着いてから折り返しになったんですよ。だから、次の駅で降りて反対方向の電車に乗ってください」。ハッとして次の駅で降り、無事に目的の駅に向かいました。  その後の車中でもまたおしゃべりに余念がありません。「ねえ、さっきの親切な人、若い男の人だったね」「白杖を見てびっくりした顔してたよ」「あら、そうなの。それは気づかなかった」「もしかして、私たちの話をずーっと聞いてたのかなあ」。「それにしても、2人で一人前かと思ったら、2人でもだめだねえ、私たち」と、大笑いしながら帰宅したのでした。  その後もこりずにイベントに参加し、また2人して迷子になりお手上げになって、「助けて」の電話をして迎えに来てもらったり…。ハハハ。  時間がかかったり、目的地に思うようにたどり着けなかったりという経験をすると、次はなかなかおっくうになるのでしょうが、私たちずっこけペアはそんなことはありません。なんといってもケセラセラ、「2人そろいもそろってバカだよねえ」なんて笑い飛ばしてしまいますから。  1人だと落ち込むかもしれないことが、2人だとただのおかしなネタとして笑える。そんな親しさ、名コンビさんですね。 「笑い声」  私の家の前の道は、小学校の通学路だ。朝と午後、集団登下校の子どもたちの大きな笑い声が聞こえてくる。「おはよう」の元気な声やはしゃぐ声、ときにはどなり声や泣き声も交じっている。しかし、集団としては明るい笑い声になって響いてくる。  私は、この声を20数年、毎日のように聞いている。忙しい朝は時計がわりにして、憂うつな日には元気をもらって暮らしている。自分の子どもが小学生だったころは、その声の中にわが子の声を見つけて安心したものだった。  考えてみると、あのころ小学生だった子どもたちは今では20代から30代である。人は成長し、移り変わり、月日は流れている。家の前の風景も少しずつ変わっていく。なのに、子どもたちの笑い声はいつもそこにある。晴れた日には空高く、雨の日には道をはじくように。景色と溶け合い、季節を追いかけ、笑い声が時代を越えていく。 「平和って、こういうことなのかなあ」。  そう思ったとき、とんでもない勘違いに気づいた。  数年前、この近くで登校途中の小学生の列に車が突っ込み、お母さんと子どもたちの尊い命が奪われるという大事故があった。その後、通学路が見直され、事故現場は通学路ではなくなった。子どもたちや保護者の方々、学校関係者、第一にご遺族のお気持ちを考えたら当然の配慮である。しかし、その通りから子どもたちの笑い声は消えてしまった。  1年前、私は全盲の視覚障害者になった。だから、だんだん近づいてくる笑い声を聞いて、一列に並んで歩いてくる元気な子どもたちの笑顔を思い浮かべている。笑い声が家の前を通り過ぎるころには、一人ひとりの笑顔がたくさんの楽しい気持ちを届けてくれる。一人ひとりの笑い声が列をなして重なって、大きなエネルギーをくれる。  これからは、彼らの平和な日々を祈ろうと思う。彼らの笑い声は当たり前のようにそこにあるものではなく、愛する人たちに見守られて存在するものだから。ずっと、笑い声が消えませんように、その声の中に孫の笑い声を見つけられる未来まで。ずっと、永遠に。  笑い声に癒される、そんなこと、ありますよね。そして、無意識に微笑む瞬間、ほっこりしますね。  エピソードは以上です。  笑い声で元気をもらい、元気を与える。私には、笑顔なのかそうでないのかを目で見て確認することはできません。しかし、笑顔は声に表れます。笑顔で話していると楽しそうに感じられます。そして会話も進みます。新しい仲間にも出会えるかもしれません。  たいへんだったことを忘れてはいけない。そして、笑いはそのたいへんさを乗り越えるための切り札だと思います。  小さいころに言われた「痛みをわかる人になりなさい」という言葉が心に浮かびました。笑い飛ばすのではなく、痛みを知って歩き始めれば、また笑いに出会えると信じてみよう。やわらかい笑いに包まれる、そんな日々を過ごしていけますように。  フォント:UD新丸ゴM(サイズ14pt 行間8pt 字間−25) (120、121ページ) ロービジョン 見えにくい世界で見えるもの 見えている今のうちに ペンネーム/ダークバイオレット(70代 女性 弱視)  何年か前、「愛宕山」に登った。愛宕山は火伏せの神様。標高900メートル余。7月31日は千日詣りで賑わう信仰の山である。  この地に長年住んでいる私も一度は登ってみたい。友人の何人かに声をかけたが、「暑い」「しんどい」と誰も付き合ってくれない。服装、持ち物、食料品などを整え、登山日和のある日、一人で行くことにした。体力や視力に多少の不安はあったが、何かに突き動かされたように感じられた。  高校時代、富士登山をする機会があったが、風邪で参加できなかったことをずっと残念に思っていた。後年、「愛宕山に登れたら富士山にも登れる」というなんの根拠もない誰かの一説が脳裡をよぎり、富士登山代替の行動だったかもしれない。あるいは、60代半ばのあがきだったのだろうか…。  その日は人出も多く、山頂まではルートが決まっているので道に迷う心配はない。15分ほど歩くと Tシャツは汗でびっしょり、階段や根っこ道が多く、思った以上にきつい山道だった。山頂の愛宕神社にたどり着き、「火迺要慎(ひのようじん)」のお札を手にしたときの達成感は今も忘れられない。  しかし、下山が大変だった。登るより下りるほうが難しいことを身をもって知ることになる。膝はガクガク、枯れ葉や砂利で滑りそうになり、景色を楽しむ余裕など微塵もない。ひたすら足を前に進めるのみである。不案内な場所に身を置く心細さ、同じ景色を共有する相手がいない寂しさ、体力の衰えを実感し、無謀な行動だったかもしれないと後悔の念をかみしめながらやっとの思いで下山した。  以来、その日頂いたお札は我が家の台所を守り続けている。  電車の車窓から見る愛宕山はかすむ視界の中にある、あのときの苦い思い出とともに。かつてあの頂上を極めたんだ、そんな小さな満足感を、愛宕山は今も私に与えてくれている。  フォント:UD新丸ゴDB(サイズ16pt 行間8pt 字間−25) あるある 失敗談に は・げ・ま・し・を ●限定商品  丼チェーン店で、チーズ牛丼をお持ち帰りで買いました。帰って食べようとすると、ふたの上にセロテープでとめてあるものがあります。これがチーズか、チーズソースみたい、これでプラス120円は高いぞと思いながら牛丼の上にかけました。食べてからわかりました。チーズソースではなくて、タバスコでした。どうしよう、全部かけてしまいました。チーズはしっかり中に入っていました。 はげまそう 「キッチンペーパーで吸い取ろう」 「見えない判断は当たったり外れたり」 「まだ、情けない、の域ではない」 (122、123、124ページ 白黒反転) ロービジョン 見えにくい世界で見えるもの 写真、苦手にはなったけれど… ペンネーム/月あかりの奏でる音色(40代 女性 弱視)  見えにくくなって苦手になったもの…あったあった、写真。  娘が生まれた当時、カメラはまだフィルム式が主流だった。デジカメという存在は、名前を耳にする機会は増えてきていたものの、画質やバッテリーのもちなどまだまだ実用面で難が多く、大事な娘の写真を撮る大役は任せられないといった感じだった。   フィルム式は、当然のことながら、デジカメのようにばんばん撮っては良いものだけを残すという小技がきかない。それを百も承知で、娘のふとした表情、しぐさ、全部残しておきたくて、似たような写真を飽きずに何枚も撮った。24枚撮りのフィルムはいつも苦もなくいっぱいになり、ジーっとフイルムを巻き取る間さえもどかしい思いだった。  いそいそと近所の写真屋さんに足を運んでは、できあがった写真をめくりつ戻りつ何巡も眺めた。そのあとはかわいい、かわいいアルバムづくり。これも今はあまり見かけなくなった(と思われる)透明フィルムをめくって台紙に写真を並べていくタイプのずっしりしたアルバムに、写真をくり抜いたり手描きのコメントやイラストをつけたりしながら写真を配置していった。  アルバムはやがてポケットタイプのものに、手に持つカメラもいつしかデジカメに、写真を取り巻くスタイルは変わっていった。  四季折々の風景、学校行事、何気ない日常…。年に数回の旅行では、さまざまな瞬間を写しとっては帰ってきてからゆっくり余韻にひたった。プランニングから始まる旅の一連の楽しみ、写真はその大トリで、外せない作業だった。旅の思い出や娘の描いた絵などを整理して、フォトブックも何冊か作った。娘が1歳になる前に離婚してしまった私は、娘のかたわらにいてあげられるたった1人の親。娘の成長をこの目でしっかりと見守り、形に残してあげたかった。少しずつ見えなくなっていく中、私は震えるような思いで祈った。せめて娘が大人になるまでちゃんと見守らせて…。  娘が高校に上がる頃に新調したカメラはズームが何10倍にもきき、静止画と動画が同時に撮れるなど、時代の波に乗った多機能の優れものだった。でもその頃、私はもはやそのカメラを使いこなせなくなっていた。見やすいはずの大きな液晶画面も屋外ではほとんど見えず、細かい設定もできなければ、電池残量低下のサインも見落とし、高校3年間の運動会の写真は全滅だった。  学生生活最後の運動会の写真も、結局何かを失敗してうまく撮れなかった。しょんぼりする私を先に見てしまった娘は、強い言葉で私を責めることはなかった。そんな娘の内心を思うといっそう悲しかった。いろんな思いと向き合いたくなくて、私はカメラにふれることをやめた。  視力が低下し続ける今でも、たまに写真を撮りたくなることがある。撮りたい方向に適当に携帯をかざして撮ってはみるものの、家で確かめたら何が写ってるんだかわからない。がっかりため息をつくことも多い。  でも、残念なことばかりでもない。しょっちゅう会っている友達と初めて一緒に撮った写真を見たとき、初めてその友達の顔立ちがわかった。初めてわかったということは、逆に今まではわからないまま過ごしていたということだ。そして、そのことをさして気にとめていなかった自分にも改めて気づいた。普通に考えて、顔のわからない相手と話すなんて不思議で怖い感じなのに、いつの間にか慣れちゃってたんだなあと妙なところに感心した。  そしてもう一つ、目からうろこの話。写真に撮って、拡大したり明るさを調整したりしながらじっくり見れば、そのままでは見えないものが確認できる、またはできることもある。これはなかなかおもしろい発見だった。  ただ、大人数で撮ったときにはやっぱり誰が誰だかわからない。先日、ロービジョンの皆さんと一緒に撮っていただいた写真の中の私は、ものの見事に見知らぬ人たちとともにカメラに笑顔を送っていた。思わず「この人たち、誰?」と苦笑してしまった。  その写真を送ってくださった方は、他の数枚の写真にも楽しいファイル名をつけてくださった。だから、そのときの楽しさが写真ごとに蘇ってきた。見えにくい写真も、説明があると見返したときに何が写っている写真なのかがわかりやすいし、言葉を添えることで思い出す気持ちにも華が添えられる。  きっと写真でもなんでも、昔と同じようにとはいかなくても、ちょっとした工夫で今の自分ならではの楽しみ方ができるのかもしれない。  少し前には想像もつかなかったような便利なアプリなども登場している昨今、せっかくだから上手に活用して楽しく写真と付き合えば、むしろこれからは人生の味方にもなってくれるかもしれない。  折しも今、娘は二十歳を迎え、記念撮影をしてもらってきた。心のアルバムにしか残せなかった青春の一コマ、そのちょっぴりほろ苦い思い出をお酒の席で笑い話にできるにはまだ遠い。今の私の心はあの頃と距離が近すぎて、思い出せば心が痛み陰ってしまう。  けれど、娘は確実に成長している。振袖姿で微笑む娘、いくつになってもかわいい。私は、おニューのアイフォンに収めた数枚の写真を眺めては親ばかな感慨にひたる。娘が大人になるまでは…と必死だった頃に思いをはせつつ、今は「できればやっぱり娘の結婚式や孫の姿も写真を通して見れたらいいなあ」なんて、ちょっと図々しく想像してみる自分がいる。  悲しみに引きずられず、これからは自分の人生、前を向いて歩いていかんとや。  フォント:UD新丸ゴM(サイズ14pt 行間8pt 字間−25) (125、126、127ページ 白黒反転)  共感 安心して語る 傾聴する 仲間との出会いに支えられ 弱視あるあるを共有する まあまあ見える、そのリアル 語り手さん ペンネーム エメラルドグリーン(50代 男性 弱視)  私が見えにくさを感じたのは40歳頃でした。現在、右眼は失明し、左眼の視力は0.3で視野は5度以内です。見えるほうの左眼も視力低下と視野狭窄が進んでいます。  パソコンの画面は白黒反転し、フォントサイズは12ポイントで読んでいます。階段や段差を下りるとき、市バスの系統番号を見るとき、店内が暗いときなどは不自由さを感じますが、自宅内にいるときは困ることはありません。  ずっこけエピソードとしては、知っている人だと思って話しかけると全くの別人で知らない人だったなんてこともあります。唐突なハプニングを自分が起こすわけですから、相手には変人だと思われますよね。そういうときには、「まあまあ見えること」ならではのしんどさを感じます。  先天の眼科疾病で重度弱視、もしくは全盲で、視覚以外の感覚をフル活用して元気に生活しておられる方を見るとすごいと思います。まるで見えているようで、晴眼者より感覚が鋭くて、「内面まで見透かされているのでは」とさえ感じることがあります。  あるとき、道を尋ねたら、「あそこの○○と書いてある看板が見えるでしょう。そこですよ」と言われました。自分には看板も文字も見えないけれど、お礼を言って、わかったふりをして普段より早足で立ち去るなんてこともありました。まあまあ見えているので「看板が見えない」とは言えず、見えるふりをしたために居心地が悪くなってしまったんですよね。  おしゃれな店で食事をするとき、メニューの文字が小さすぎて見えないと、メニューを読んでもらうのではなく、おすすめを聞いてそれにすることにしています。パン屋など、単価の安いものは、中身に何が入っているかわからなくても、勘で推測して買っています。店内がすいているときや優しそうな店員さんがいるときは、こちらの欲しいものを伝えてそれに近いものを教えてもらっています。  以前は弱視を悟られないようにしていましたが、今は少しずつ人に頼るようになってきました。未来は、自分がもっと自然でいられたらと思います。いろんな場面で少しずつ「見えにくい自分」を伝えて、人にサポートを頼めるようになりたいと思っています。 聴き手さん ペンネーム チェリーピンク(40代 女性 弱視)  私の視力は、両眼ともにコンタクトを使用して0.05〜0.07くらい。中心暗点はありますが、周りの視野があるので移動などにはあまり支障はない程度です。見えにくくなってきたのは15年くらい前の20代後半、それからジワジワと進行中で、今に至ります。  パソコンはほとんど使わず、iPhoneを白黒反転し拡大文字を使用して、メールやネットショッピングなど、フル活用しています。墨字は、メガネやルーペで読み書きしています。  最初に見えにくさを感じたのは、同じ状況であっても、同じ距離から認識できなくなったのがきっかけでした。バスの番号の見間違いや人の顔の見分けなど、エメラルドグリーンさんと同じような失敗は多々あり、今も増え続けています。  最近は観光客に道を聞かれたりすることがありますが、地図を見せて尋ねられるとどこを指しているのかがわからなくて答えられない! なんてことがよくあります。「○○に行きたい!」って口頭で伝えてくれたら案内できたのにと、悔しい思いをすることも度々ありますね。  買い物では、値札や賞味期限などの文字が小さくて読みにくいです。周りが気になって商品に目を近づけて読むこともできず、いちいちルーペを出すのも面倒だし、もっとサッと読めたらなぁって思うことはよくあります。「見えにくいからこその歯がゆさ」は、「ちょっと見えるからこそのしんどさ」でもありますね。  私もエメラルドグリーンさんと同じように、見えにくい自分を周りに悟られないようにしてきました。今でもまだまだそのクセは抜けません。だからこそのしんどさはもちろんありますが、少しずつ自分の気持ちに問いかけながら見えにくさと付き合っていきたいと思っています。 自然体な自分でいられる時間や場所がもっともっと増えるといいですね!  フォント:UD新丸ゴM(サイズ14pt 行間8pt 字間−25) あるある 失敗談に は・げ・ま・し・を ●きれい  ドラッグストアできれいな箱を見つけ、じっと見ていたら、避妊具だった。 はげまそう 「紅茶と思って買って、人にプレゼントしなくてセーフ」 (128、129、130、131、132ページ) 見えにくいってあれこれ微妙 語り手さん ペンネーム マンゴーイエロー(30代 女性 弱視)  私の視力は0.1、視野は中心狭窄で5度弱です。家の中では特に不便は感じないけれど、まぶしいのが苦手なのでとにかく外出が困ります。たそがれどきはスタスタ歩けますが、昼間は恐る恐る歩いています。  見えにくいことが起因の困りごとやハプニングはあれこれあります。トイレの男女のマークっていろいろありますよね。おしゃれすぎてどっちが男?女?がわかりにくいデザインのプレートを前に立ち往生するなんてこともあります。トイレの入り口の前でうろうろしていたら、後ろから来たおじさんに「どっちやねん」とツッコミを入れられました。私はトイレに入るおじさんを見て、その反対側に入りました。  カラオケボックスの受付で、お部屋が空くのを友人と待っていた時、スタンドタイプの灰皿があることに気付かず思いっきり蹴とばしてしまいました。視野に入らないものは何もわかりませんから。  私がイライラして蹴ったように見られたようで、若いお兄さんに「荒れてるねー」と言われ、とても恥ずかしかったです。私は、片付けに駆けつけた店員さんにひたすら謝りました。  私はまぁまぁ見えているから、周囲の目が気になり白杖を持つことに踏み切れずにいます。なので、よくこういう事態に遭遇するんですよね。  まぁまぁ見えてる私は必要以上に人目を気にしたり、気を遣いすぎて助けを求められなかったりします。全盲の方が周囲の手を借りて一人旅を楽しんでおられる話を聞くことがあります。全盲の方のほうが私なんかよりよほどアクティブに活動されていて、羨ましく感じることがあります。知らないところを1人で旅するなんて、私にはとても無理ですもの。  見えているふりは、幼い時から日常的にしています。「あ、虹!」と言われれば「わぁ、きれい!」「あれ、かわいいー」と言われれば「本当だ、かわいいね!」。ママになった今でも、息子が「あ、飛行機!」と言うと、「あ、ほんとだ!」と条件反射で言ってしまいます。この悪気のないウソ、息子には遅かれ早かれバレるんだろうな。  見えてないのに適当にリアクションして微妙な空気になるなんてこともあります。前から歩いてきた人に「わぁ、久しぶり!」と言われ、心当たりはないけれど、こっちを向いて言われているので「久しぶり!」と元気に笑顔で答えたら、後ろでも「久しぶり!」の声。私ではなかったらしく、とても恥ずかしかったです。さすがに目線までは見えませんから。  今では、そういう怪しいシチュエーションの時は微笑んで会釈して、万一自分じゃなくてもさほど傷つかない程度のリアクションに留めています。とはいうものの、私の年齢も根性もおばちゃんに近づいてきているからか、以前に比べれば随分素直に「見えないので」と助けを求められるようになりました。  「あ、この人、目が悪いんだ。どうしよう」と周囲がザワザワする感じがまだまだ苦手なんですよね。だから、サポートをお願いすること自体、諦めてしまうことも多いです。「人が何を思おうが気にしない。私は私」と、鉄の女になるにはまだ時間がかかりそうです。  普通校で育った私は、見えていないことを周囲に悟られないように、「フツウ」に溶け込むことが学生生活の最大のテーマでした。「見えないからできない」「見えないから助けて」と誰にも言えなかったんです。  大学生の頃、当事者団体やきららの会で初めて自分以外の弱視の仲間と知り合えました。きららの会では、同世代の仲間と見えないことを見えないと素直に言い合え、笑い合えました。それまで抱えていた重たい荷物をそっと下ろすことができ、心が軽くなり、強くなれました。このつながりは、今でも私にとってなくてはならない心の支えとなっています。 聴き手さん ペンネーム ラベンダー(40代 女性 弱視)  私の見え方は左0.03、右手動弁です。視野検査ではよほど強い光なら見えるけど、それもほぼ中心でしか見えません。昼間の白線は見えるし、ものの形もシルエットなら見えます。中心狭窄だけど、白濁した視界なので、なんだかいつも白いフィルターを通してものを見ている気分です。  パソコンの画面は白黒反転で、エクセルだと400%拡大でカーソルの位置を確かめることができるけど、文字は無理して見ないことにしています。音声だけでやるほうが楽なので。  白杖を使っていると何も見てないと思われるかもしれないけど、うっすらとでも見えてる部分が助けになっているので、夜のほうが疲れます。  最近のトイレのマーク、確かに難しいですよね。たまたまシルバーっぽいプレートが見えて、どうも逆三角形っぽい形に見えたりしたらここは男?となりますが、その見えてるつもりの形が私の視力ではかなり怪しいのでプレートに触ってみたりするんです。でも、トイレ前でプレートをスリスリ触るなんて、ものすごく怪しい人ですよね。人の気配を感じたらキョロキョロと困ったちゃんをアピールして、声をかけてもらうのを待つ私です。最近では音声案内で男女の入り口の区別ができるトイレもあり、ありがたいです。  今は私の定番アイテムの白杖ですが、実は白杖なんて持つのは死ぬほどいやだって抵抗していたんですよ。30代前半まで、視野が大きく欠けていたものの視力両目0.1だった私は、当然あちこちでものを倒して人に迷惑をかけたり、誤解されたりしていました。「いきなり何するねん」という変な行動をとっていたと思います。薄暗いところや階段では男の子の腕をつかんで甘えてたので、「こいつ俺に気がある?」と勝手にいい気になられてたこともありました。「どう思われようが、こけて恥をかくよりいいや」って開きなおっていましたけどね。  見えにくい時より、随分見えてない今のほうが確かにアクティブかもしれません。でも、見えにくい時にできたアクティブと今のアクティブは少し違うジャンルの動きに思えます。見えているふりしてみんなと同じを体感したい、それに必死だった時こそできた冒険はありました。酔っぱらってハイヒールで繁華街を走り回ってたなんて、今思えば自殺行為ですよね。白杖で走ることはないけど、今でも5センチパンプスは毎日履いてるし、階段下りるのは今のほうが速いかも。  息子の指差す飛行機、私も「そうだね」と返事していましたよ。エンジン音が聞こえたら、見えてるふりではないと思います。見えるだけがわかる手段じゃない。見えるものの形を息子から聞いて飛行機だと自分がわかったら、それは自分も見えているのと同じだから。見えているふりをするママの気持ちは、きっと我が子には伝わるはず。だってほんまは、今いるこの世界を我が子と一緒に見たいよね。それはママだからこそ願うまっすぐな気持ちやもんね。  「この人、見えない人なんや」というザワザワ感、白杖を持ってサポートをお願いしていてもありますよ。1人であちこち行く私ですが、いつまでたってもこの微妙な空気はやっぱりしんどいですよ。それに慣れることがおばちゃん道を究めることになるのかも、鉄の女への道遠しです。  「重たい荷物をそっと下ろし、心が軽くなって強くなれる」、私もそうでした。私も普通校でしたので見えにくいのは自分1人、助けを求めることもせず、とにかく根性あるのみでした。心の支えとなる仲間とのつながり、それは私の人生にとってなくてはならないものです。このご縁もその一つ、「わかるわかる」を伝えられる時間に感謝です。  フォント:UD新丸ゴDB(サイズ16pt 行間8pt 字間−25) あるある 失敗談に は・げ・ま・し・を ●二足制  初めて行った病院で、様子がわからないので受付の人に聞くと、「靴を脱いでスリッパにはき替えてください」とのこと。自分の靴を脱いで下駄箱に入れ、手探りで探したスリッパをはいて待合室のソファに座りました。順番を待っていると、診察を終えた女性が「あっ、それ私のサンダルです」。 はげまそう 「受付、下駄箱、と見つけて見つけていいところまで行ってた」 「病院にサンダルで来ちゃだめだよね」 「サンダルはちがう人に履いてもらえてよろこんでいたよ」 (133、134、135、136、137ページ 白黒反転) 見え方、見えにくさを説明するのって難しい 語り手さん ペンネーム マシュマロクリーム(20代 女性 弱視)  私は小学6年生の頃に、暗いところが人より見えにくいのではないかと母から言われました。病院で診断を受けてから見えにくさを認識するようになりました。今の視力は、矯正で両眼とも0.5か0.6程度です。視野度数は不明ですが、下方が見えにくく、点々と欠けています。  パソコンの配色は初期設定のまま利用しています。マウスのポインタは、作業画面が白い場合が多いので特大の黒に設定していますが、字の大きさは、初期設定の10.5ポイントを変更せずに使っています。  目の病気を自覚するようになってからは、何が見えていないのかがわかるようになりました。でも、見え方にどのような変化があったのかははっきりわかりません。  不意に渡されたものの大きさや距離感をとらえるのは難しいですね。誰がどの方向から何を渡してくれたのかをすぐに見きわめることができないので、受け取ってもお礼を言うタイミングを逃してしまうことがあります。そんなときに見えにくさを感じます。  教室やお店などで人がいないことを確認して座ったのに、荷物を置いて席をはずしているだけの状況だったり、すごく汚れている場所に気づかず、私物を置いて汚してしまったりという失敗が多くあります。  また、人とぶつからないようにするのに必死で、前から知り合いが手を振って近づいてきても無反応で通り過ぎてしまいます。そんな場面でも声を出してあいさつしてくれる人はいますが、そうでない人は、自分が私に無視されたと思っているんだろうなと感じます。  普通に歩く際はあまり不便を感じずに過ごしていても、見えていると思って行動しているときに自分の見えてなさを感じると、すごく落胆してしまいます。同じような場面でも見えるときと見えないときがあるので、周りの人にどう説明したらよいのか、いつも悩みます。  全盲や重度弱視、先天弱視の方はお互いに頻繁に声をかけ合ってらっしゃる印象が強いです。誰がどこにいるかの手がかりは音がすごく重要なのだと感じています。  人に道を聞くとき、ジェスチャーやわかりづらい方向の指示が多くて、聞き直してもわかりにくい場合は理解したふりをしてその場を離れることがあります。それでも、やっぱりわからなければ他の人に聞くということは多々あります。  落とし物をしたり探し物をしたりしていて、どうしてもそれが必要なときは一緒に探してもらい、代用できるものがあったり時間に余裕があったりするときなどはお願いするのはあきらめています。  いつ目が見えなくなるかわからないという不安はありますが、私よりも見えづらい方の経験談を聞いていると暗くなるような思いはありません。弱視で働いておられる方は私と同じような悩みがあり、それぞれに工夫してらっしゃるお話を聞くと自分も頑張ろうという気になります。  将来は、自分の得意なことも苦手なことも、自分らしいと楽しめるような余裕のある大人になっていたいです。 聴き手さん ペンネーム ちょっとビターなショコラ(60代 女性 弱視)  私は、37歳のときに網膜色素変性症との診断を受けました。進行性の病気で治療法もなく、将来失明することもあるという宣告は結構重いものでした。けれど、仕事も日常生活も普通にこなせていたので、自分でも意外なくらい冷静に受けとめることができました。見えにくいという自覚もあまりなかったからかな? それから20数年、ゆっくりと進行してきました。  自分の見え方、見えにくさを説明するのって難しいですよね。中心暗点なので、読み書きには一番苦労します。  パソコンは、白黒反転画面でなんとか文字は見えるけど、見えてる範囲がほんの少しなので長い文章を追うことはしんどいです。90パーセントは音声が頼りで、ほんの少し目で補ってる感じです。  周りの視野は少し残っているけれど、全体に薄くもやがかかっていて、明るさや天候、季節、体調などによってすごく見えてるような気がするときもあれば、深い霧の中に迷い込んだみたいに見えて不安になるときもあります。1年ほど前から、歩行の際は白杖を使っています。  最近、バスでよく席を替わっていただくのですが、お礼を言おうと思ってもその方がどこにおられるのかわからないので、とりあえずこっちかなと思うほうに向かって「ありがとうございます」と大きな声で言うようにしています。目の前にあるものがわからなくて探し回ったり、お茶をテーブルに注いでしまうなんてしょっちゅうです。  ちょっと見えているというのが曲者で、その不確かで当てにならない目を頼ってしまっての失敗も多いです。下り階段で、「見えてる、大丈夫!」と颯爽と下りていって、最後の1段を踏みはずすこともしばしば。見栄を張ってもだめですね。やっぱり白杖をちゃんと使わなくてはね、反省です。  マシュマロクリームさんが感じておられるとおり、視覚障害者がたくさんいる場所ではお互いに声をかけ合うことが多いですね。自分から声を出さないと周りに自分の位置を伝えられないし、相手の声がないとどこに誰がいるのかもわかりません。  それにしても、最近は音声機器などが発達したおかげでずいぶん便利になりましたね。キー操作でパソコンを使い始めた頃は、スクリーンリーダーが何を言っているのか、まったく聞き取れませんでしたが、今では結構音声スピードを上げても聞き取れるようになりました。私、いつの間にかなんでも音で判断するようになってたんです。今まで耳の機能を使っていなかったんだなぁ、これ、実感です。  また、点字を習ったおかげか、指先の感覚が鋭くなったように感じます。折り紙も得意なんですよ。ウサギ、犬、猫、カニ、セミ、モミジ、ツバキ、サンタさんなど、慣れれば結構なんでも折れます。3センチ角くらいの折り紙を使うこともあるんですよ。  それと、私はにおい(嗅覚)も駆使しています。食べ物だけでなく、衣類などなんでもかんでもクンクンするので、家族にちょっと嫌がられてるかも…。とにかく、使える感覚はなんでも使おうって感じです。  見えにくさを抱えながら働くのってしんどいですよね。私は、45歳くらいまでは日常生活にそれほど不自由を感じずに生活していました。とはいうものの、細かい文字や数字が見づらかったり、薄い色が見分けられなくなってきて、仕事の面で少しずつ支障が出始めてきたんです。自分が目の病気で見えにくいことを職場の誰にも言えず、ひたすら見えてるふりをしてごまかしていました。見えないことが周りの人に知れたら仕事を失うのではと不安だったんです。それに、見えないことがなんだか恥ずかしいことのように思えたんです。  考えてみれば、周りの人にちゃんと話して助けてもらうこともできたんですよね。これも今だから言えることなんですけど、その頃の私にはできませんでした。  今は白杖を持っているので、言わなくても視覚障害者であることは他の人にわかると思うんですが、白杖を持っている人はすべて全盲と思っている人がまだまだ多いので、そこはちょっと困ったものです。  白杖を持つ前は、自分がロービジョンであることや自分の見えにくさを周りの人にどう説明したらいいのかわからずに悩みました。打ち明けたときの人々の反応も心配でした。変な目で見られるのではとか、同情されるのではとか、マイナスのことばかり考えてなかなか言い出せませんでした。  でも、話してみたらみんなすぐに理解してくれたし、助けてもくれました。みんな優しかったんですよね。もっと早く話していたら自分ももっと楽になれたかもしれないし、もっといろんなことができたかもしれないとちょっと後悔しています。  普段は見えにくくても楽しく生活しているつもりですが、お気に入りの風景や大好きな人の笑顔やとってもらった写真が見えないときは悲しい気持ちになります。張り切っておしゃれして流行の口紅を塗っても鏡の中の自分の顔が見えないなんて、ちょっとがっかりです。  だんだん見えにくくなっていくんだなって考えるとすごく不安になりますよね。マシュマロクリームさんの気持ち、わかります。私も、これからどうしたらいいんだろうと1人で悩んだ時期もありました。でも、たくさんの見えない、見えにくい仲間との出会いが私を変えてくれました。見えない、見えにくい仲間どうしだからこそ共感できることがあるし、失敗談だって笑いとばせるようになりました。  そして、いつもみんなニコニコ、自然体なんですよね。見えないところで努力されたり、悲しんだり苦しんだりと、きっとつらいこともいっぱいあったことでしょう。その優しい笑顔の下には強い心が隠されているのかもしれません。そんな先輩方を見ていると前向きな気持ちになれますね。私も、そんなふうに自然体で生きたいなと思っています。   仲間との出会いを重ねる中で最近思うことがあります。「見えないからできない、無理と言う前にまずやってみよう! それでだめなら、そのときまた考えればいい」ということです。   若いマシュマロクリームさんには可能性やチャンスがいっぱいあると思います。頑張りすぎず、自分らしく、自然体で歩んでいってほしいな。そして、夢は大きく持ってね! マシュマロクリームさんの素直な心と前向きな姿勢がとっても素敵です。私も負けずに、いつまでもきらきら輝いていたいな。  フォント:UD新丸ゴM(サイズ14pt 行間8pt 字間−25) あるある 失敗談に は・げ・ま・し・を ●外食  ファミレスで、順番待ちの名前を1段ずれたところに書いていたらしく、いつまでたっても呼んでもらえなかった。 はげまそう 「誰の迷惑にもなってないよね。  もし人の名前に重ねて書いてたらトラブル、  そうじゃなくてよかった」 「食べそびれたなら、次回の外食は予算倍増でぜひ」 「名前さんは特等席でよろこんでたよ」 (138、139ページ) 見え方体験 読み速度 いろいろなフォント ●10.5pt明朝体 白背景で黒色文字と白黒反転が138ページにあります。 ●14pt教科書体 白背景で黒色文字が139ページにあります。 ★「ボタン」 トイレの個室でのこと、流すつもりでボタンを押したら、 思わぬお尻へのウォータービーム! あわててストップボタンを探すも、 ボタンがたくさんありすぎて どれがストップボタンなのかわからない。 適当にボタンを押すも、水量がアップしたり的が変わったり。 下手に立ち上がると外にウォータービームが飛び出てしまう。 動くに動けず。 お尻にウォータービームを浴び続けること3分経過。 あれやこれやといろんなボタンを押しまくって、 やっとウォータービームが止まったころにはお尻も顔もびっしょり。 やれやれ、フー、脱出だ! (140ページ) あるある 失敗談に は・げ・ま・し・を ●けが  トラックが道に停まっていて、荷物の積み下ろしをしていたのに、気がつかなかった荷台のハッチの大きな留め金が飛び出していて、そこにおでこをぶつけた。怪我をしたけど、ひどくはなかった。しかし、おでこは血がよく出る。プロレスラーみたいに流血してしまった。 はげまそう 「痛かったでしょう。大丈夫でしたか」 「あんたはわるくない。トラック許せん」 「トラック本当にてごわい。天敵」 == (141ページ) 第5章の扉 第5章 絆、素顔のままで語らせて(アイキャッチはハート型です) 自己受容 心に鏡を置いてみた、すると (142、143ページ 白黒反転) 自己受容 心に鏡を置いてみた、すると 機(はた)を織る人 ペンネーム/白絹(50代 女性 全盲)  実家のある田舎町では、どこの家からも機織りの音がしていた。私の母も毎日絹の白生地を織っていた。私は、昔書いた作文に「母の後ろにはシルクの道が続いている」と記した。私が嫁入りする時には母が織った着物を持たせてくれた。  機を織る音はあの町でもめったに聞かれなくなり、実家も機を手ばなした。しかし、その思いは今も変わらない。  母は、機織り以外も器用にこなす人である。料理も裁縫も編み物も運動もお茶もお花も。私は、何一つ母をこえられない。  ガチャンガチャンと響く機織りの音はうるさいが、そのリズムは心地よかった。子守歌がわりに育ったせいだろう。幼い頃、家に帰ると、外まで響くこの音に安心したものだ。  真っ先に機場に入り、母に駆け寄った。抱きつきたかったが、できなかった。母の胸元にはいつも縫い針がついていた。母に近づきすぎると針が刺さりそうで、こわくてもどかしかった。仕事で使うから仕方ないのだが、母が少し意地悪に思えた。  機の後ろには、美しい絹糸が何百本も流れていた。シルクの道のようで、私はそれを眺めているのが好きだった。糸がなくなると、1本1本新しい糸とつながなくてはならない。母は、月に一度はこの「たてつなぎ」という作業を夜遅くまでしていた。  私は3人姉妹の末っ子である。上の姉は絹糸を挟んで母の前に座り手伝っていた。2番目の姉も手伝える年になると母の前に座った。私だけその席に座ることはなかった。私はそれをラッキーと思っていたが、同時に気づいてもいた。そして、傷ついてもいた。それは、弱視だった私の目を気づかっての計らいだった。母は、姉たちよりも私に気をつかう癖がある。私の生まれつきの弱視は、自分のせいだと思い込んでいる。  私の目が見えなくなった時、母が手紙をくれた。内容は想像できた。案の定、「申し訳ない、すまない」と何度も書かれていた。「自分のせいでなかったら父親のせいだ」。この下りには母らしさを感じて笑えたが、この年になってもまだ親に心配をかけていると思うとたまらなくなった。手紙を読んでくれた私の娘もつらかったと思う。私は、そんな手紙を母に書かせたことが情けなかった。「大丈夫だから気にしんといて」。そう言っても私の気持ちの全ては母には伝わらないだろう。  私は今、あの縫い針を思い出して母に少し意地悪をしたくなる。なんでもできる母だから、一つくらいかなわぬことがあってもいいじゃないか。私の行く末が気がかりで、母は死んでも死にきれないだろう。「お母さん、なんにもしてあげられへんけど…どうぞ長生きしてね」。  するすると流れる川のような、艶やかに光る道のような、母が織り続けた反物。母からもらった確かなものはシルクの感触の中にある。それはすでに娘たちに授けた。やがて孫へと流れゆくことだろう。母の後ろには長い長いシルクの道が続いている。母から娘へ、変わらない思いとともに。  フォント:UD新丸ゴM(サイズ14pt 行間8pt 字間−25) (144、145ページ) 自己受容 心に鏡を置いてみた、すると 人生万事塞翁が犬 ペンネーム/ソメイヨシノ(60代 女性 弱視)  我が家の愛犬、タイソンとの暮らしについて書いてみました。大げさでふざけたタイトルですが、ラフに読んでいただければ何よりです。  掃き出し窓から足を投げ出して座り、ひざの上のぶ厚い座布団に愛犬タイソンを寝そべらせます。雨や雪が降らない限り、北風吹き抜ける寒い日でも、そんなふうに座って日向ぼっこをします。それが、私の最近の日課です。なぜって、私が1人で散歩に連れていけなくなったから。  タイソンはブランケットから顔だけ出して、フーフーと大きな鼻息をあげます。きっと、人間の私にはわからないような音やにおいから、世間のいろいろな情報を得ているのでしょうね。私はというと、ただ座って、移ろいゆく季節を感じながらぼうっと物思いにふけってます。  タイソンは9歳のミニチュアダックスで、4本足では歩けないんです。  昨年の5月、朝起きたら、タイソンはお尻を床に下ろしたまま前足だけで動いていました。急いでかかりつけの獣医さんに診てもらうと、椎間板ヘルニアということでしたが、あいにく連休で動物用のMRIや CTを撮ってくれる病院が休みでした。獣医さんにせかされて、仕方なく手術に踏み切りました。リハビリは現在でも続けています。  1年近く経った今のタイソンは、筋肉隆々の上半身とやせ細ってオムツをした下半身というアンバランスな体形です。力強い機関車が後ろの車両を牽引するように、前足だけで室内を自在に動き回っています。  地面に下ろしてやってもいいのですが、私1人では後始末がたいへんになるので、夫が車イスに乗せて散歩に行ってくれます。  窓際にじっと座っていると、あの時こうしていればとか、選ばなかったあまたの選択肢が、望んでもいないのに勝手に脳裡をよぎっていきます。「たら・れば」を考えるのは所詮むだなこと。いくら願ったところで、過ぎた時間は戻りはしない。これからのことを考えたほうが建設的だとはわかっている。けれど…。  私はタイソンに掛けたブランケットに顔をうずめたまま、なかなか動けないでいる日もあります。術後のタイソンをどうやって介護していったらいいのか、途方にくれることもありました。私が泣いてしまうと、上半身をグッと持ち上げて私の涙をなめようとしてくれます。  人生というのは、何がいいことなのか、悪いことなのか、最後までわからない。幸福や不幸は予想のしようがないということでしょう。  目が不自由になってからというもの、いくたびも後ろを振り返りながら、後ずさりで未来に歩を進めているような気がします。でも、まあ、未来なんていくら考えたってわからない。考えたって意味がない。何が起ころうと、流れに任せてやるしかないと思っています。人間万事塞翁が犬、フーフーと。  フォント:UD新丸ゴDB(サイズ16pt 行間8pt 字間−25) (146、147ページ 白黒反転) 自己受容 心に鏡を置いてみた、すると 父の日 ペンネーム/雨のインクでしたためた手紙…いつか、きっと虹色(40代 女性 弱視)  父の日…、そのフレーズはいつも私を物憂い気持ちにさせる。私、父に感謝してる? その問いに対して黙り込む私がいる。それから、その私をののしる私の声がする。親に感謝できないというのは、人に言ってはいけない、人として恥ずべき欠点ではないか。恩知らず。反論の言葉は見当たらない。  父には暴力をふるわれたことなどない。むしろ、幼い頃はよく一緒に遊んでくれた。だから、悪いのは全面的に私だ。私はどんどん重い気持ちになる。いつも、涙がこぼれる前に考えをそらし、そのことについては深く考えないことにする。  子どもの頃、家族で自転車で出かけた時に、父が転んでけがをしてしまったのを覚えている。私と同じ病気の父。私は、父の悲しみから目をそむけたかったのかもしれない。  私が小学生の時に勤めを退き、盲学校に通うために3年間家をあけた父。その頃には、すでに私もその病気を受け継いでいることを知っていた。父から目をそらすことで、私は私自身の将来を脳裏から締め出してしまいたかったのかもしれない。  私も確実に見えなくなる…、その現実が目をそむけようもないほど眼前に迫っている今、父に対する鉛のような心は急に氷解するものではない。というより、今は逆に私を見せたくなくて…、「大丈夫、平気」そう言い続けるのがしんどくなって、私は住み慣れた土地を後にした。まるで逃げ出すかのように。進学する娘と一緒に引っ越そうと思うという私を、親はとめなかった。たぶん、私の気持ちはわかっていたのだろう。この重い気持ちが、いつか何かのきっかけで変わることはあるのだろうか…。  父の日が私の気持ちを重くさせる原因がもう一つある。娘には、疎ましく思う父すらいないということだ。それはとりもなおさず、娘が幼い頃に離婚してしまった私のせいだ。  今は昔と比べると家庭の形態も多様化し、子どもの年齢が上がるにつれて1人親家庭も驚くほど増えてきた。小学校でも、母の日や父の日に親の似顔絵を描かせるという行事は恒例ではなくなってきた。そうやって何でもかんでもなくしてしまうのもどうかとは思うけど、保育園の時は、1人、おじいちゃんの似顔絵を描かされる娘に心が痛んだ。保育園児たちの絵からはモデルの年齢までは露呈していないことが、心の中でせめてもの救いだった。  娘は、父の日にいつも何を思っていたのだろう…。父のいない寂しさを私に訴えることはなかった。私も、聞いてもどうしようもないその問いを投げかけることはなかった。おそらく、これからも2人で話すことはないだろう。自分がしてあげられないくせに、都合の良い話かもしれないけど、父に対する心の内を娘1人が抱えたままにしないで、いつか話せる相手ができたらいいなと思う。  娘には幸せな家庭を築いてほしい。そこに、「早く過ぎればいいのに」と気まずく思われる日としての父の日が存在しなければいいななんて、自分にはできなかったことをはかなく娘に願ってみたりする。ホントは、そんな絵に描いたような幸せでなくていい。ただお互いに幸せと思えれば、形なんてどうでもいい…。そう、わかってはいるのだけど。  父からは、時々しようもない電話がかかってくる。何かのニュースで聞きかじったらしい、今年の新卒者の初任給がいくらだとかいう話を私と娘それぞれに長々と話す。かなりうんざりしながら「はい、はい」と雑に相づちを打ちつつも、こちらを気にかけているんだろうとは感じる。私にとって娘の幸せが一番の願いであるのと同じで、父にとっても1人孫が幸せになることが今は何よりの楽しみなのではないかと思う。  親不孝な私にできることといったら、やはり娘の幸せを全力で応援することかなと思う。そして、私自身も幸せになることが。自分は幸せだと心から思えれば、きっと親に対してもおのずと感謝の気持ちになれるだろう。今はまだ「ごめんなさい」の気持ちが強いけど、いつかちゃんと「ありがとう」が言えるように頑張って生きていきます、お父さん。  フォント:UD新丸ゴM(サイズ14pt 行間8pt 字間−25) (148、149、150ページ) 自己受容 心に鏡を置いてみた、すると 次に変わるのは ペンネーム/夜色鷹人(40代 男性 全盲)  「目が見えなくなって、他の感覚が鋭くなりましたか?耳がよくなりましたか?」こんな質問をされることがある。年に2、3回はされるかも。  結構、答えにくい、この質問。いつもそう思いながら、「はい、そうですね、よくなりました」だとか、「いや、そんなことないですけど、音を聞き分けるのはうまくなってます」だとか、適当に答えている。  適当な方がいいみたいだ。正確に、丁寧に、と説明に力を入れても、空回りしてる。そう、言葉で言い表せるものではないのだろう。耳はよくなってるのだろうか。  街中、外にいるときはクルマやバイクのエンジン音を聞いている。その動き、その流れ、その方向が道路を示している。  クルマが自分に近づいてくる。もし自分がクルマの進路をふさいで邪魔になってたら、クルマはブレーキをかけるはず。ずっとノーブレーキだから、自分はこのまま歩いてていい。  自転車も近づいてくる。自分の左を通るのか、それとも右を通るのか。自転車の方に白い杖を出すとからんで事故になる。そうならないためには、これを聞き分けないといけない。  部屋にいるときも、音を聞いている。キッチンの方から冷蔵庫のモーターがうなる音が聞こえる。窓の方からは、外に広がる町の騒音が聞こえる。自分が部屋のどこにいて、どっちを向いているのか分かっているのは、常にそうした音を聞いていて、判断材料にしているのだと思う。  見えない。見てない。それでいて、耳で聞いて分かることが結構ある。中途で失明して、年月が経って、だんだんそうなってきた。「変わったな」と思う。  でもね、音がしないことは分からない。例えば、人の顔。この人がどんな顔してるのか分からない。でもね、今は、「それがどうした」と思っている。「分からなくたって、痛くもかゆくもないや」と思っている。そう、肉体的に痛くないし、金銭的にも痛くない。あとは気持ち的に痛くなければ問題じゃない。いつの間に、そんなふうに考えるようになったのか。そして、いつの間にか気持ち的にも痛くなくて、平気になっている。まあドライなやつだこと。  年月が自分を変えて行く。そして、「ああ、変わったんだな」と実感する。  けれども、思いがけないときに、予想もしてないときにあるんだよ。  例えば、あれは花火大会に行ったときだった。ヒューン…ドーンという音がすれば、花火の光が空に広がったのだとその音で分かる。大勢の人がそれを見ている。でも、その中の自分1人が見てない。ヒューン…ドーン。また上がった。それは分かるけど、見てない。涙があふれてきた。止められなかった。  そう言えば、こんなこともあった。ある集会に参加することになった。いわゆる健常な人たちの集会で、目が不自由なのは自分だけだった。スタッフの人が、「これ資料です」と言いながら、自分のところにも紙の資料を置いていく。こういうことはよくある。残念ながら、紙の資料は配ってもらっても読めない。そういう事情でも、ほとんどの場合、「資料です」と机の上に置いていかれる。  まぁいつものこと。この時間の内に耳で聞いて入ってくることを吸収すればいいや。そんな姿勢で臨んで、話について行けるときもある。その逆で、分からないときもある。  例えば、パワーポイントで図や写真がたくさん使われるプレゼンだと分からない。まあそういうこともあるよな。いつしか、そう思うだけで済ませている。  何年もこういうことをくり返している間に、見えないことが平気になっている。そして、「ああ、自分は変わったんだな」と実感する。  でも、本当はどう声をかけてほしいんだろう?「資料です」ではなくて、どんなことを言ってほしいのだろうか。図や写真がたくさんのパワポのときは、どんなことを言ってほしいのだろうか。  一度この疑問をみんなと考えたいと思った。その機会を得て、別の集まり、人権や障害について学ぶ集まりで、この疑問を話題に出した。  「どう声をかけたらよいと思われますか?」  そう問いかけながら自分でも考え出す。すると、涙が出てきた。止められなかった。予想してなかった。気持ち的にも痛くないし、その場でも平気だったはずなのに。  「今日は紙の資料しかありませんが、どうにか参加してもらえるようにと思います」  「パワーポイントで分かりにくかったと思います。うまく説明できたらよかったのですが」  温かい声かけがほしい。どんな声かけでもいいから、温かい声かけがほしいんだ。そんなことを自分が思っていたとは知らなかった。   年月が自分を変えて行く。少しずつ強くなっている。その一方、どこかで求めている。温かく声をかけてほしい。  このまま、また変わって行くとしたら、今度は平気と思うだけでなくて、素直に言えるようになりたい。言えるかな、「温かい声かけ、よければお願いします。」  フォント:UD新丸ゴDB(サイズ16pt 行間8pt 字間−25) (151、152、153、154ページ 白黒反転) 自己受容 心に鏡を置いてみた、すると 愛しきMy bitter home ペンネーム/大きな青いキャッチャーミットと真っ白なボール(40代 男性 全盲)  あれはもう10年以上前のこと、私の失明は突然にやってきた。目の病気で幼少期に医師に病名を宣告され、将来は失明する可能性があると言われた仲間達の気持ち、私には分からない。何年もの間、とても重い荷物を背負っての人生、おそらく辛いことだろう。生まれてからずっと見ることに全くの支障もなかった私が、突然の交通事故で失明した。心の中のどの部分にも存在していなかった現実を受け入れないといけない私の辛さも、幼少期に目の病気を宣告された友人には分からないことだろう。もちろん、その辛さは家族にも分からないだろう。逆に、失明した夫や父親を持つ妻子の気持ちは私には分からなかった。  当時、我が家は社宅に住んでいた。同じ会社の人間、家族が何十世帯も住んでいる大きな社宅だ。昼間の社宅の敷地内では子供達が走り回って遊んでいて、お母さん達は子供の様子を見ながらあれこれ談笑している。そんな社宅の光景に、片手に白杖を持ってフラフラと歩いているお父さんの姿、目立たない訳はない。  私は毎日、お父さん達が出勤した後、歩行訓練のために白杖を振りながら敷地内を歩いていた。そんな私の姿を見た社宅のお母さんや子供達が私のことをどのように言っていたのか、私の耳には入ってこなかった。事情を知らないお母さん達の噂になっていてもおかしくない。また、子供達はそういったお母さん達の噂話を聞いて、オブラートに包むこともせずに、私の子供に「○○ちゃんのお父さんは目が見えないの?」と言っていたかもしれない。  その頃の妻は、失明した私に決して優しいばかりの妻ではなかった。それが妻なりの優しさだったのかもしれない。急に失明して何もできなくなった私に「自分でできることは自分でして」と、何もかも手伝ってくれるようなことはなかった。ある意味当然なのかもしれないが、私の将来のことを考えて敢えて何でもやみくもに手伝わない、そういった考えの元に厳しく接してきてくれたのかもしれない。  今ではそう考えられるものの、その当時の私は「何で手伝ってくれないんや。何でもかんでもできる訳ないやろう」と、心の中で叫ぶ日々が続いていた。  ある日、妻が言った。「お友達が、今度お芝居を観に行くらしいの」。私は何気なく言った、「じゃあ、お前も一緒に行ってきたらええやん」と。私が失明してからお友達と出かけることもなかった妻、良い息抜きにでもなればと思った。「誰が貴方の食事の用意をするの? そんなに簡単に言わないでよ」と、妻は烈火の如くきつい口調で返した。おにぎりでも準備してくれたら子供と二人で勝手に食べるのにと思っていたのだが、妻は頑として私の意見を受け入れなかった。  家族旅行の相談で「あそこに行きたいなあ〜」という話になっても、妻はいつも「簡単に言わないでよ。貴方を連れて歩くのがどれだけ大変なのか…。それは全て私がしないといけないんだから」と、何をするにしても見えていない私がいるから大変なんだ、何もかも私のせいだと言わんばかりの態度だった。  日々そういった妻からの言葉を耳にすることは大変辛く、屈辱的にも感じた。「何でもかんでも俺のせいなのか? 俺だって自分で好き好んで失明した訳ではないんだ。あの事故がなければ普通に生活していたはずなのに、事故のせいなのに、なぜ、何でもかんでも俺のせいにするんだ!」と、それを声に出して言えば大喧嘩になる。子供にかわいそうな思いをさせてしまうから、「なぜ」と叫びたい思いを私は来る日も来る日も心の中にグッと押し込めていた。だから、私の心の中は愚痴やら不満で溢れんばかりになっていた。  いつまで休職しているか分からない、いつ職場に戻るか分からない、そんな何も将来の保障がない私の姿を見ながら妻なりに焦っていたのかもしれない。私だけではなく、子供にもきつく当たっていたことがあった。何かに当たりたい心境だったかもしれない。しかし、私にはそんな妻の気持ちまで考えられるだけの余裕はなかった。  その頃、社宅の周辺には新築のマンションがあちこちに建設されていた。私の妻も、社宅のお友達と何度となくそのような新築マンションを見にいっていた。そして、「買うの? 買わないの?」等の会話が繰り広げられていたようだ。しかし、私が失明して昼間に白杖を振りながら社宅内を歩くようになってから、お友達から妻にそういった話題が振られることは一切なかった。  「皆、私には話題を振りにくいのやろうね。買える訳ないやんて思っているんやろうね。貴方のことも、どうして目が悪くなったの? 今、会社はどうなっているの?とか、本当は聞きたいと思っているんやろうけど、きっと私に遠慮して何も言わないねん。不自然なぐらいに何も聞かないねん。そんなんおかしいよね。どうせやったら何でも聞いてくれたほうがええのに。そやなかったら、マンションの見学に私を誘わなくてもいいのにね」。そう言う妻の声は半ば笑っていたが、その目には悔し涙が溜まっていただろう。  そして、妻はポツリと続けた。「突然目が見えなくなった貴方は辛いと思う。きっと一番辛いと思う。でもね、目が見えない配偶者を持った私の気持ちが貴方には分かる? そんな父親を持った子供の気持ちが分かる? 分からないでしょう? 普段、私や子供がどんな思いをして生活しているかを」。最初は静かだった妻の言葉も、最後には大声で私に挑むような、訴えかけるような声になっていた。その言葉を話している妻の目からは、悔し涙が溢れていたことだろう。  「スマン、俺のせいで…。本当にすまない」と、私には頭を下げることしかできなかった。妻も辛い思いをしながら社宅で生活していたんだなあ〜、日々悔しい思いをしながら社宅の友人達と接していたんだなあ〜、私には何も言わなかったが、子供なりに辛い思いをしていたんだなあ〜、辛いのは自分だけではなかったんだなあ〜と、改めて金槌で頭をドカーンと殴られた心境だった。  その後も「それも俺のせいなのか?」といった妻からの言葉は続いたが、妻や子供の辛さや悔しさを知ってからは、笑って「ホンマ、申し訳ないことです」とさらりと返せるようになった。  そして、毎日のリハビリを重ねて、私が会社に戻る復職の日が見えてきた。「あと何か月」、そう思うと私のリハビリにも力が入り、気のせいか妻の言葉にも元気が出てきたようだった。  ある夜、ダイニングで妻と二人でお酒を飲んでいた時、妻が「そうそう、全て貴方のせいなの」と笑いながら言う。そして、妻はさらに続けた、「私は何もかも他人のせいにしないと自分がやっていけなかったの」と。妻も自分のことを分かっていたらしい。行き場のない妻の気持ち、その安定を保つための矛先が私だったのだ。  いよいよ会社に戻る復職の日が近づいてきた。妻が新聞に入っていた近隣の不動産の広告を見ていた。「○○駅から徒歩10分、○○万円…。やっぱり高いよね」と独り言のように言っている。コーヒーを飲みながら妻の独り言を聞いていた私はおもむろに言った、「家を買おうか!」と。その私の言葉を聞いた妻の顔、驚きを通りこして鳩が豆鉄砲をくらったような顔だっただろう。そして、無言…、私は続けた。「いや、マジやで。会社に戻って仕事をするんやし、ローンが組めたら家を買おうや」。「でも…」と躊躇する妻に私は続けた。「もちろん、ローンが組めたらやで。でも、組めたら買おう。俺らには絶対に家は買えないって思っていた人達を見返してやろうや。で、あの人達より早く家を買って社宅を出ていこうや。俺も復職して、仕事を続けるのにローンがあったほうが励みにもなるし、モチベーションも上がるしな」。私のその言葉に、妻は「そやね、そうしようか」と言ってくれた。その時の妻の顔は笑顔で一杯だったに違いない。  そして、私は復職して自宅を購入した。今も日々楽ではないが、仕事を続けてローンを返済している。  先日、妻が「今度の夜、お友達とお芝居を観にいってきてもいい?」と言うので、「ああ〜、たまには息抜きでもしてきたら」と私は答えた。「ありがとう」と妻は明るく出かけた。その夜は、もう大きくなった子供が私の食事の準備をしてくれた。  家族旅行の話になった時には妻が相変わらず言っている、「そこに行くのはいいけど、お父さんを連れて歩くのは私なんやで。それ、大変やん。だからやめとこうよ」と。  やはり、今でも「俺のせいか?」は続いているが、今ではそれもご愛嬌。ほろ苦くとも愛しきマイホーム、「大変なのは私なんやで」、「それも俺のせいか!」と苦い言葉が行ったり来たり。繰り返される対話も旨みを増し、気付けばあの突然の日から生まれた「我が家の味」となっている。  フォント:UD新丸ゴM(サイズ14pt 行間8pt 字間−25) (155、156、157ページ) 自己受容 心に鏡を置いてみた、すると ゆっくりゆっくり私とおしゃべり 気付けば可能性はすぐそばに ペンネーム/クリスタルスノー(30代 女性 全盲)  初めまして。クリスタルスノーと申します。私は病気によって突然全盲となった30代の女性です。見えなくなって20年近く経つといったところでしょうか。若く多感な折に光を失ったためなのか、ようやく心が落ち着いてきたと思ったらこんな年齢になっていました。  心は案外と頑なで脆弱なものです。不慮の事象に遭遇すると、いきなり熱湯を注がれたガラスコップのように急激な変化には耐えられずに割れてしまうのです。それを修復するには、そのガラスコップを完成させるために要した時間と同じくらいの時間を要するのだと私は知りました。もうすぐ見えなくなって20年、その時間を振り返ってみました。  見えない事実を受け入れることは本当に難しいですね。かつて、見えないという苦しみや悲しみは、私の心まで盲目にしていました。例えば料理することにしてもそうです。見えなくなった当初、私は「もう包丁を持ったり、火を使ったりするなんて無理」と勝手に思いこんでいました。でも、「見えない=できない」じゃなくて、「見えない=工夫する」なんですよね。このことに気付くにはやはり時間が必要でした。  今ではIH調理器を使ったりピーラーやスライサーなど道具を上手く利用して、好きだった料理を楽しめるようになりました。物事は一方向からだけで捉えていると考えは固まって、人を盲目にしたり頑なにします。  いいえ、今だってその波に飲み込まれそうになることがしばしばあります。でも、見方を変えればいつだって可能性はすぐそばにあるんですよね。  そんな私に気づきを与えてくれたのが、いつの頃からか始まっていた私自身との対話です。おかしな話ですが私にはこの対話が良かったようです。憤りや苦しさの原因に気づいたり、少し気持ちが穏やかになれたり…。そうして大抵の原因が自分にあることが分かって、またイライラしたりしてを繰り返してます。そうした自分自身への問いかけを、今でもずっと繰り返しています。人間、悩みは尽きないものですね。  それでも結局私は毎日私と生きていかなければならないんですよねえ。きっと私を大切にしてあげられるのは私だけなんでしょう。自分を大切にできないのに、誰かを大切になんてできないのでしょうね。  最近は今日を生きていることが大切なんだと思えるようになってきました。毎日世界中で多くの人々が命を落としています。その要因は病気や事故・戦争や食糧不足などさまざまです。だからこそ、今日一日を生きるとは本当にかけがえのないことなのです。  生きるって苦しいですし、悲しくて辛いです。小さなことで嬉しくなったり傷ついたりします。でも、そのかけがえのない今日を私は与えられているのです。  人は誰もが心に決して完全には溶けない雪のような水晶のかけらを持って生きていると思います。そのかけらは不意に動いて胸を刺し、私達の心を苦しめたり悲しませたりするでしょう。それでも、生きているって素晴らしいことなのです。  私は不完全でゆっくりゆっくりしか進めません。一歩を踏み出すことは怖くて、動けないこともあります。だから、踏み出しかけて止まったり、また引き返したりします。すぐに勇気ある一歩が踏み出せなくてもいいと、私は思っています。きっと、そうして葛藤しているうちに何か見えてくるものがあるでしょう。全盲になった当初の私と、あれから20年弱を経た今の私。変化していないと思うけれど、確かに変わっているところがあります。だから、これからも気づいたら少し変わっていたくらいのペースで歩いていきたいです。明日も、明後日も、ゆっくり、ゆっくり私とおしゃべりしながら。遠回りをしたり立ち止まったりしながら。いつかの私が少しプラスになっていることを願いつつ…。  フォント:UD新丸ゴDB(サイズ16pt 行間8pt 字間−25) あるある 失敗談に は・げ・ま・し・を ●突然  道路を歩いていて急に閉塞感や暗い感じがしたので、どこへ迷い込んだのかと思ったら、引っ越し用の大型トラックのコンテナの中に入り込んでいました。なかなか外に出られなくて、心臓がバクバクしていました。 はげまそう 「ここまであり得ない、ほんま、という話。すごい体験」 「現実をほとんど超越している。めったにない経験ができた」 (158、159ページ 白黒反転) 自己受容 心に鏡を置いてみた、すると 最後の一皿 ペンネーム/焼き色はやや黒め(40代 女性 弱視)  人生最後の一皿は?そう聞かれたら、私は迷わずこう答える。お母さんのハンバーグ。どこのお店のハンバーグよりもおいしくて、つい2個くらいは食べたくなる。  それは、子供の頃から普通に我が家の食卓にあった。小学生の頃は、ハンバーグの上にケチャップがべったりとのっていた。ハンバーグを焼いた肉汁の中にケチャップを落とし、それが熱々のままハンバーグにかけてあった。いつの頃からか、それがデミグラスソースとかハンバーグ専用ソースに変わっていった。当然、ケチャップよりおいしい。ハンバーグを焼いた肉汁と一緒にキノコやナスなどの野菜を焼き、そこにデミグラスが投入されて味は少しまろやかになる。それがハンバーグにのっている。でも、基本的に母のハンバーグは何もかけなくてもおいしい。  特徴は、タマネギがやや粗いのとつなぎ以外に少しバターが入っていること、ナツメグと黒コショウがたっぷりで、お肉の味がしっかりしていること。表面はバターのせいでやや黒くこげていて、でも中はふんわりやわらかい。大きめサイズと中サイズを作っていて、私は大きめサイズよりも中サイズが2個のった皿が好きだ。つけあわせは大したものはなく、サニーレタスが適当にちぎってあって、トマトとキュウリがあったりなかったり、いわゆる家庭の普通のハンバーグだ。洋食の名店やホテルのハンバーグの濃厚なソースはおいしいけれど、こげた表面になじむあのマイルドなソースがやっぱり一番だ。同じものはどこにもない。  弟は食べるものにかなりうるさく、「素材を殺すな」とかいろいろ言う。でも、母のハンバーグにかかると無言で4個くらい食べている。「ソースはかけるな」と、必ずプレーンを要求している。慣れ親しんだ味が一番おいしいと感じる人がいるけれど、母のハンバーグもそうなのかもしれない。今、最後の一皿を選ぶなら絶対にこれだ。  でも、あと数年したらこの一皿は選べないだろう。車いす生活の母が特別な日に作る料理となったハンバーグ、あと何回食べられるだろうか。  仕事から帰ってきた夫が台所へ直行する日がある。「お母さんのハンバーグ!」とうれしそうにフライパンのふたをあけている。「うまそうや」とお風呂へ急ぐ夫に、「大きいの食べなさいね」と母が声をかける。義理でも親子、これが家族になるってことなんだなあとしみじみ思う。理屈なんかじゃない、愛情をとじこめた料理が絆を支える。私にとって、母に勝てない料理があるのは幸いだ。ちなみに、夫は母のだし巻きのファンでもある。  私のハンバーグは野菜いっぱいのトマト煮込みだ。これにときめく家族はいない。  見えにくくなった私が厚焼き玉子をあきらめたのは、もう10年ほど前のこと。以来、スクランブルか目玉焼きばかり焼いている。母自慢のおだしたっぷり、ふわふわだし巻きを作るのは難易度が高い。せめて母を思い出しながら作るハンバーグだけはマスターしておきたい。私、できるかな、心折れないでいられるかな。  フォント:UD新丸ゴM(サイズ14pt 行間8pt 字間−25) (160、161、162、163ページ) 見え方体験 読み速度 いろいろなフォント ●12pt明朝体 白背景で黒色文字と白黒反転が160ページにあります。 ●14pt教科書体 白背景で黒色文字が161ページにあります。 ●24ptゴシック体 白背景に黒色文字が162ページ、白黒反転が163ページにあります。 ★「君の名は」 君は、また黙って僕のもとから離れていってしまうんだね。 ころころころと転がって、 僕の見つけられないところに隠れてしまう。 あんなに大事に掌でぎゅっと握りしめていたのに。 なぜ、なぜなんだ。 もう一生君に会うことはないだろう。 「君の名は」、ペットボトルのキャップ。 僕は君のいなくなった世界に立ちつくす。 悔し紛れに「ワイルドだろ」と捨てゼリフを吐きながら 一気飲みするのさ。 (164ページ) あるある 失敗談に は・げ・ま・し・を ●やさしさ  ガイドヘルパーさんのお迎えで、「はーい」と急いで出かけました。気持ち良く自宅に帰ったら、ガイドヘルパーさんからのびっくり告白。「実は靴が左右違っていたの。でも、途中で言うとそれが気になって恥ずかしくなられると思ったので、家に着くまで言わなかったの」。なんとよくできた素晴らしいガイドヘルパーさん。「出かける前に見つけてほしかった」なんて他人のせいにしてしまわないで、私。 はげまそう 「足元なんてみんな気づいてない」 「言ってもらったら足元かばんで隠したりできたのにね」 「いつもとちがうペアでお散歩、くつもドキドキ」 「見えてる人からも、同じ失敗談を聞いたことがあります」 「ガイドさんのやさしさに触れましたね。   伝えるやさしさと伝えないやさしさ、考えさせられます」 「未来にはこれもファッションになってしまえば 気楽やのにね」 「常識を打ち破る私達」 == (165ページ) 第6章の扉 第6章 言葉のつばさ(アイキャッチは六角形です) 創作 文章で描く世界 そこに見えない壁はない エール セルフケア応援団 (166、167、168、169ページ) 創作 文章で描く世界 そこに見えない壁はない ともだち ペンネーム/茄子紺(30代 男性 弱視)  京都ライトハウスの文章講座で頂いた課題「高校2年生と魔法の杖」をオムニバス形式で書いてみました。盲学校に通う二人が魔法の杖を授かり困難を乗り越えていくお話です。まずはあかりちゃんの場合…。  生まれつき弱視の私は何でも確認する癖がある。「確認しないと危険だから」そう言われて育ってきた。忘れ物はなかったかな。友達の機嫌を損ねてないかな。何でも確認する。私はいつしか自信がなくなった。  先生が私にくれたもの。握ると自信が湧いてくる杖。半信半疑だった私は結局確認を繰り返した。  中間テスト。問題が解けなかった私は適当に答えて杖を握った。握った杖は弱く震えた。  「先生、この杖はインチキだ。確認したのに間違いだった」  「インチキはあなたじゃないの。魔法の力は正しいことに使いなさい」  それからというもの不安な時は杖を握ってみた。するとどうだろう。不思議と自信が湧いてくるのだ。結局確認は繰り返しているけれど。私の性格だから直しようがない。でも杖のおかげで自信がついた私は前向きに生きられるようになった。  終業式、今日で先生ともお別れだ。  「今までありがとうございました。魔法の杖のおかげで自信がつきました」  先生はくすりと笑った。  「魔法の杖? それはただの杖よ」  私はふふっと笑い返した。  もうすぐ高校三年生。私は進路に迷っている。不安な時は杖をそっと握ってみる。不思議と自信が湧いてくる。何の変哲もない杖、それはいつも私の傍にいる。そう、ずっと傍にいてくれる私の友達。  続いてひかる君の場合…。  「マジックハンドになる杖が欲しいです」  不思議そうに先生が返した。  「でも歩きにくくなるんじゃない?」  先生は何もわかっちゃいない。  杖の先にはマジックハンド。柄を握ればビューンと伸びて何でも手元に引き寄せる。僕は自由を手に入れた。  机から落ちた鉛筆や消しゴム、ほかほかのカレーパン、中間テストの答案用紙、その気になればお札だって。  魔法の杖を手に入れた僕は学校を休むことが多くなった。苦労して出歩くこともなくなった。昔の白杖は捨ててしまった。  ポテトチップス、缶ジュース、最新のゲーム機、発売前の漫画本。今の僕に足りないのは、退屈しのぎの話し相手。  「友達を連れてきて」  マジックハンドを握ったら首根っこをつかんできた。怒った友達は帰ってしまった。  「友達を連れてきて」  そう念じてみたけれど、マジックハンドは空をつかむばかり。もう何も引き寄せてこなかった。  もう友達じゃないんだな。  「仲直りがしたい」  マジックハンドがつかんできたのは、僕が捨てた昔の白杖。  何の変哲もない杖だけど、今の僕には魔法の杖だ。  白杖を持って外に出かけよう。友達に謝りに行くために。  フォント:UD新丸ゴDB(サイズ16pt 行間8pt 字間−25)  挿絵が2枚あります。  1枚目「ショートカットのあかりちゃんが白杖を手にしています。」  2枚目「ひかる君が白杖を手に高く掲げています。」 総括 あるある 失敗談 「自分だけじゃないとわかります」 「こんなこともあるんだと教訓になります。私の役に立ちます」 「応援する気持ちを持たせてくれます」 「みんな失敗しながらいろんなことしているんだ、私もがんばろうと思えます。私のほうがはげまされます」 (170、171、172、173ページ 白黒反転) 創作 文章で描く世界 そこに見えない壁はない いざ、立ち食い寿司屋へタイムスリップ 立ち食い寿司屋 ペンネーム/電線に引っかかったパールライトグリーンの風船(40代 男性 光覚)  通勤時に利用する駅に立ち食いのお寿司屋さんが2軒ある。どちらもほぼ同じつくりで、カウンターのみの店だ。3人ぐらいの職人さんが、10人前後のお客さんにお寿司を提供している。駅ビルにある便利な夕食の場所だ。客の半数がサラリーマン、あとはアジア系の観光客だ。常連さんも少なく、普通のお寿司屋さんのような敷居の高さもない。  ケースには切りそろえられた数種のネタが並べられている。カウンターの前に立つと、さっとお茶が提供される。木札やネタケース、黒板に書かれたおすすめの中から気ままに握ってもらう。握られた寿司は、笹の葉に乗せられ私の前に置かれる。ビールや酎ハイなどとともに、小気味よく提供される寿司を楽しむ。  周りを気にせず気軽に入りやすい、しかも待ち時間も短い立ち食い寿司屋は私のお気に入りだった。  それがどうだろう。見えない自分が行くとしたらどうなるんだろう。  駅ビルは人が多いし、エスカレーターはあるけど、エレベーターは隅に追いやられている感じがする。例え店までたどり着けても、手狭なエリアにいなければならない。目の前に置かれているはずの寿司が自分の注文した寿司かどうか区別できるのだろうか。もしかしたら、隣の人のお寿司を食べてしまうかもしれない。おすすめのネタもわからない。少ない職人さんが手際よく寿司を握り注文をさばいていく、そんな流れを止めるように「今日のおすすめは何ですか」などと声をかけること、それは職人芸ともいうべきリズムを乱すことになる。それに、好きではないネタをメッチャすすめられたら、断ることができるのだろうか。そんないくつもの「どうだろう」が頭をよぎる。  私は、頭の中であの店に行ってみた。そして、心に問いかけてみた。…、見えないながらも冷たい視線を感じるかもしれない。おいしかったと思いながら店を出ることはできるのだろうか。かつてのお気に入りの場所で、私はもう一度食事を楽しむことはできるのだろうか。 きっと偶然に そっと自然に ペンネーム/パールライトオレンジの紙(40代 女性 弱視)  今夜は誕生日、そんなことはすっかり忘れていたのに、私に嫌なお知らせを告げるのはスマフォのカレンダー。いくら便利でも空気までつかめない、あと一歩使えない相棒。  バーゲンで大人買いしたパンプス、履き心地いいからつい色違いで買ってしまう。いつも、どんなコーデでも、靴の色は違っても、フィットは同じ、いつの頃からかそんな安定が私の日常になっていた。  なんで今日なのよ!、報告書の締め切りのせいで誰ともご飯できないじゃない。そんな独り言も平気になってきたことにとことん嫌気がさす。こんな日は、思い切っておやじだらけの立ち食いで一人めしでもしてやるぞ!  初めて入る店にもドキドキせず、女一人の空しさも気にならず、私はカウンターにお茶が置かれると同時に平目とサーモンあぶりを注文。  周りなど気にしない私だけど、なんか隣のおっさんの手の動きが怪しい。おそるおそる手を伸ばし、寿司が置かれる台にいちいち手の甲を当てている。そっとおっさんの手を握り、彼のお寿司にタッチさせてみた。  「あっ、すみません」と、彼は静かにこちらを向いた。安心と情けなさの混じった笑顔だった。見えない彼の仕草は、一人ぼっちの私の心を慰めていた。私は何も聞かなかったし、彼も何も説明しなかった。そんなことはどうでもいい、それが立ち食い寿司屋のモラルかもと自然に思えた。  ただ、彼はおっさんではなさそうだった。駅ビルの立ち食い寿司屋に並ぶ、紺のスーツの背中。そこはくたびれたおっさんの寄り道ポイントだと勝手に思いこんでいたけど、違っていた。  ビールのグラスを彼の手に寄り添わせ、「飲みますか?」と声をかけてみた。私は彼の戸惑う声を遮り、「『お誕生日おめでとう』って言ってください」と投げた。「そうなんですか。おめでとうございます」、彼の声は少し明るくなった。  彼の前に寿司が置かれるタイミングで私は何度か彼の手を取ったけど、蛸が置かれた時にはもう私の手は必要なくなっていた。ビールのせいか、彼は何の疑いもなく私のつぶ貝をおいしそうに食べていた。彼には見えるはずもない、黒板に書かれた今日のおすすめはつぶ貝だった。  「蛸とつぶ貝の違いもわからんの?」、私は大笑いしたいのをこらえながら黙って彼の蛸を食べてやった。  何も気づかない彼に「いい年してアホみたいやわ、私」と言ってみたら、「私には女の人の年はわからないので」と彼が的外れなことを返してくれた。彼のその笑顔には、もう情けなさなど消えていた。  きっと偶然に、そっと自然に。  悪くないやん、この感じ、私は静かに目を閉じてみた。心の引き出しが一度にバタバタ開き出すのがわかる。神様、教えてください。これって偶然? 自然? なんで今日?  お2人のタイムスリップ体験、どうでしたか?  タイムスリップした風船さんのいる場所へ、紙飛行機さんが飛んでいきました。どちらも不安げにゆるゆると進みながら、同じお店にランディングできたようです。「〜だったらどうだろう」と問いかけた結果、なんだかほんわかムードが生まれたようですね。男の背中が語る不安や虚無に、力の抜けた女心が寄り添ったようです。  語ることから生まれる展開、やさしくてコミカルなタイムスリップの一幕でした。  フォント:UD新丸ゴM(サイズ14pt 行間8pt 字間−25)  挿絵が3枚あります。  1枚目「男性が店先に立っています。」  2枚目「男性が店に入ろうとしています。」  3枚目「男性が右、女性が左に座り、お寿司を食べています。」 (174、175ページ 白黒反転) エール セルフケア応援団 へこたれつつ絵筆、へこたれてもゆるくイラスト体験を  見え方・見えにくさ体験ページのイラストを担当させていただきましたまるこいなおです。イラストを描く中でのあれこれを少しお話します。ご依頼のはじまりは、「見え方の違うひよこ」でした。大きさは同じでも顔のパーツがあったりなかったりなど、見え方の違うひよこです。弱視であると、同じ形のものを描くということは想像以上に難しく、大きさを揃えるために厚紙に描いたひよこ型を切り抜き、ひよこ型のうち側を色つけして形を揃えました。ただ、この型抜きひよこを作るのには、はさみを使うという難関を越えないとなりませんでした。画材は色つけでは色ムラやぬり残しに気をつけたり、ひとつ描き終わるのにとにかく時間がかかってしまいました。画材は、おもに色つけを水彩絵の具で、輪郭のうち側は輪郭からはみだしても消すことのできる色えんぴつを使いました。「しりとりイラスト」では、違う素材を描くことは楽しいものの、ラクダでは、コブのバランスをとって描くことが難しく、何度描いてもラクダというより富士山をふたつ乗せたウマになってしまいました。  私の視力は両目0.04視野は下部がとても見にくいです。このページの文字サイズなら1文字ずつがどうにか見えるという状態です。何を描いても「もう少し見えていた頃なら、もっとすんなり描けたのに」と弱音をはいてしまったり。しかし、この挑戦を断念することなど、イラストの依頼主である私の恩師には許してもらえそうにありません。朝一番に元気な声を聞かせてくれるにわとりのような恩師、いえいえ、ひよこのような恩師の顔が浮かんだり、何かのお役に立てるという気持ちだけで描かせていただきました。  私はへこたれつつ、とりあえずイラストを描いてみました。みなさんも見えない、見えにくいかもしれませんが、とりあえずへこたれながら、イラストのページを通り抜け程度にでも体験してみてくださいね。「これ、描いた人も見えにくかったらしい、そりゃそうか」とそんな共感タイムもありかななんて、のんきなこと考えています。へこたれるのを通り抜け、見える、見えない、見えにくい、いろいろ通り抜けしてもらえたら何よりです。  2021年春 まるこいなお  フォント:UD新丸ゴDB(サイズ20pt) (176、177ページ 白黒反転)  エール セルフケア応援団 心の言葉たち  心は直接見ることも見せることもできない。手で触れることもできない。だから僕たち人間は文章に心を託す。その文章に触れた誰かがほんの少しでも自分の心を感じてくれることを信じて。  本書には視覚に障害を持ったライターたちの文章が綴られている。順に読み進めていくと、それはまるで一本の長い長い川。人間が生きていく上で欠かすことのできない、言葉という名の水が造り出した川だ。僕はその水面に自分の姿を映してみたり、そっと手ですくってみたりしながら、川沿いの旅を味わった。小川のような優しい流れもあれば、岩を砕くような激しい流れもあったが、そこにある言葉たちは何度も僕の心にまで流れ込み、胸を満たして瞳からあたたかいものを溢れださせたのである。  言葉に託された心を想像しながら、僕は同時にその心の持ち主の姿を想像した。会ったこともなければ顔を見たこともない、それぞれの弱さと強さを宿した色とりどりの心の持ち主たち。この一冊の本は、距離を越え、時を越え、さらには視覚障害をも越えて、いくつもの心を僕に運んでくれたのだ。  心に嘘をつくことがある。心が嘘をつくこともある。しかし言葉には偽りない心がいつもほのかに託されている。空振りでもまぐれ当たりでも、それを感じ合おうとする営みこそ、この世界を潤すために僕たちがあきらめてはならないことなのだ。  目が見えない精神科医になってもう十年以上が経つ。患者が言葉に託した心を感じたい、医者が言葉に託した心が届いてほしいと、いつも願ってやまない。そして実感している。人間は言葉を生み出し、言葉によって生かされると。  もちろんまた目が見えたらと夢見ることはある。それでもどちらか一つだけと言われたら、見える目よりも涙が出る目を僕は選びたい。  たくさんの心の言葉をありがとう、メルマガ色鉛筆。  2021年春 福場将太  フォント:UD新丸ゴM(サイズ14pt 行間8pt 字間−25) (178、179ページ 白黒反転) エール セルフケア応援団 当事者の方達の熱意  私が大学を卒業して名古屋ライトハウスの職員として初めて中途視覚視覚障害者の相談にのってから、早いもので47年が経とうとしています。その当時から今に至るまで、視覚障害になりたての方たちが共通して言われるのは、「視覚障害者として生きて行くための目印になる情報がない」「同じような立場の方と交流してみたい」ということでした。  支援する立場として「同じ立場の方の意見を聞きたい、情報が欲しい」という希望に応える手段を探し求めてきました。なかなか良い方法が見つからない中、私は「メルマガ色鉛筆」の活動を知りました。メールという手段を使って、多くの視覚障害者の体験を発信するというこのアイディアの斬新さに感動し、「転送」という方法で、「色鉛筆」を広げていくことにできるだけ協力させていただいたつもりです。  一方、メールは便利ですし広げやすいのですが、あくまで時の経過の中で流れて行ってしまうものだということ、もう一つ、ITを使いこなせない当事者の方達に届けるのが難しいということがありました。そのもどかしさに、ちょっぴり不満も持っていました。  今回書籍として作り上げるコンセプトは、「必要な情報別に章立てを行う」「当事者個々の見え方の違いを自らが理解して発信する」「眼科医や関係者にも配布して見えない・見えにくい人たちへの理解を深める」など、メルマガの欠点を補うなどという範疇を超えた素晴らしい企画だと思いました。   私自身ロービジョン(弱視)です。強度近視でいつ網膜剥離を起こすか分からないという状況です。見えなくなることに恐怖を感じています。支援者という立場だけでなく、当事者の一人として『見えない地球の暮らし方』に多くの期待を寄せ、この本を広めていくことに精一杯協力したいと思っています。  2021年春 視覚障害リハビリテーション協会 吉野由美子  フォント:明朝体(サイズ16pt 行間8pt 字間−25) (180、181ページ) 本音ちゃん行こうよ 美術館  絵が好きだった私、もう道具も捨てちゃったけど、美術館には行きたいな。でも形も色もよくわかんないし、愉しめるかな。 行こうよ  直接に見れへん絵を、人といっしょに見て、その場でことばで伝えてもらうとどうなると思う? そんな回り道をして、本音ちゃんの心の中に、その絵がその絵らしく浮かぶことを願っている。ミュージアムガイドツアーというのもあって、作品鑑賞のお手伝いをしてくれます。 映画館  映画、見えない人のために副音声てのがあるけど、どうもあれが好きじゃない。やたらうるさいし、集中できない。みんな、楽しいのかな。 行こうよ  うーん、そうやなぁ、主役は映画のほう、せりふ、物音、音楽やもんね。副音声てんこ盛りにすると主役を奪っちゃう。名わき役な副音声を付けてくれてる映画もたくさんあるから、今度、紹介するね。本音ちゃんにももう1回、映画の世界にぐぐっと入ってほしい。笑わせたいし、泣かせたい。 本  随分見えにくくなって、とうとう本もあきらめないといけない感じになってきた。仕事でも読まないといけない場面がいっぱいあるのに、これからどうしよう。拡大で読むのは酔うし、長くは続かない。たくさんは読めないし。 行こうよ  電子書籍をiPadで読むとか、何かいい方法があるとよいのだけど。目を使わない、耳で聞く読書の方法もいくつかある。耳で聞く読書は、頭に入ってこない、としばしば言われるけど、1つ、すごい強みがある。それは、部屋のどこにいても何かをしていても聞けること。ラジオみたいに聞きながらコーヒーを入れて飲む、といったことも可能なことだよ。本音ちゃんの生活になじんで行くとよいなぁ。 == (182ページ) おわりに    〜寄り添い歩き言葉を編む、それが力を成す〜  今、私はゆるやかな丘の上でやわらかな春の風を感じながら2013年11月の創刊の日のことを思い出している。いよいよだ、もう止まれない、止まらない、私の心の中にはこれから送り出そうとする企画の束があった。それはまだ真っ白なページであり、描きかけのデッサンでもあった。  さらに、時を戻しふりかえる。幼い頃からいつだって、どんなにがんばってもだめだった。見えないということがどちらに向いても壁となり、私の前に立ちはだかっていた。見えにくさを支える術に出会うこともできないまま、ピアノ、勉強、仕事、いくつもの悪あがきをした。どうしたってなりたい自分に近づくことすらできなかった。文章を書くこと、それを生業としていくこと、これならできるかもしれないと描いた夢もあっさりと投げ捨ててしまった。それは25歳の冬だった。けれど、人生は実にミラクルだ。思いもよらぬことが起きる。筆を捨てて18年、さらに見えない状態になって、メールマガジンを創刊した。そこに見えないゆえの壁はなくなっていた。  よちよちと歩きだした色鉛筆は、たくさんの支援者や当事者の口コミで読者数を増やしていった。時折届く読者からのメールには、読者自身の体験や環境と重ね合わせながらの声があった。「強くなれない、がんばれない、もう少しだけまだやれるかな…」、それは井戸の奥底にあるような叫びの数々だった。そうした思いに触れるたびに、私の心は震えた。見えないものの声に、もっともっと耳を澄まさなくてはならない、私は出会いたい、まだ見ぬ誰かに出会い続けたいと。月3回の配信を安定して配信できていることが私にとっての「いつも」であり、見えない見えにくい自分として生きる意味を問う時間の一部分となっている。  私はゆるやかな丘の上でやわらかな春の風を感じながら、今この場所にある見えないもの、音のないもののことを考えている。すると、小さな投げかけが聞こえてきた。「いつも」の時間の中で、企画や編集を担当する私の心はどれだけ「はじめて」のままであっただろうか。色鉛筆の書籍化に際し、真っ白なノートの1ページを開きながら、私は自らに問いかけてみた。  色鉛筆では編集を担当する私とライターとの間で数回のやりとりを重ねている。その中でレポートにはないもう一つの物語が生まれることがある。できるだけリアルなエピソードをもって伝えるという編集コンセプトから、具体的な中身の掘り下げを提案してきた。リアルを見つめる過程では、心の葛藤や抵抗、見つめたくないものからの逃避の場面もあった。「原稿を書いていると自分が考えていなかったような自分が出てきた」「これを言葉にすることは今は苦しすぎる」「この気持ちを書けば、それがあの人にも届いてしまう。それはしたくない」、そうしたライターのもがき過程にご一緒してきた。その時間の中には、心臓を貫かれるような痛みを伴う共感もあった。  前段での問いかけへの答えが見えてきた。色鉛筆のレポートはいつだって「はじめて」を私にくれる。何度も読み込んで何度もやりとりしたレポートだから、どれを読み返しても新鮮とはいかないはずなのに、色鉛筆が語るものに触れると「はじめて」の感覚で静かな涙が流れる。それは主に通勤電車の中、いつもの時間、いつもの風景の中にある。何気なく読み返す色鉛筆のバックナンバーとの時間は、私の心のひだにやさしく触れるようにさらさらと流れゆく。色鉛筆はいつも新鮮なまなざしで私に寄り添ってくれているのだ。  さらに、「はじめて」について考えてみる。編集で、セレクションで、章立てで、校正で数えきれないほど原稿を読み返してきた。それなのにここにあるレポートは、私の心に「はじめて」の繊細さで寄り添い続けている。それはなぜなのか、明確な答えはわからない。あえて、おそらく、あいまいな形で言うならば、そこに魂の疼(うず)きがあるからではないだろうか。色鉛筆ライターの一人一人が「私も独りぼっちでした、でも、大丈夫、誰かとどこかとつながれば、あなたは一人じゃない」というメッセージをもって、言葉を紡ぎ、世に放たれたからではないだろうか。  さらに、涙について考えてみる。障害者手帳を取得するまでの私は、見えにくさを隠し、見えている人と同じように振る舞いたくて、そのための努力をすることが自分にとってのすべてだった。どんなにたくさんの愛あるご縁に包まれていても、「自分だけ」という壁を心の内側に持っていた。だからかもしれない。悲しいこと、悔しいことがどれほどあっても人前で涙することなどほとんどなかった。こんなに苦しいのに泣けない自分、それが不思議だった。私は今、色鉛筆のはじめの一歩の日に心を置き、そこから流れた時間の中でくりかえし静かな涙を流すことができていることに、幸せを感じている。  こうして色鉛筆はさらなる一歩を踏み出した。軽やかなメールの世界の先に、本という実際に手にすることのできるものに命を吹き込んだ。本書に収められた色鉛筆の1本1本に熱いものが宿っている。本当に苦しいことは見えない見えにくいことそのものの中にあるのではなく、孤独の中にある。私もそうであったし、私が出会ってきた多くの見えない見えにくい仲間もそうであったと聞いている。メルマガ色鉛筆の読者の皆様からの「もっと早くこんな情報、つながりがほしかった」というメッセージがなかったら、ITや福祉の外側にいる人にも色鉛筆を届けるという構想は生まれなかっただろう。医療から福祉への早期連携の取り組みもひろがりつつあり、情報へのアクセス方法も増えている。それでも情報につながれない人がいる、忘れてはいけない見えない声がどこかにある、そのもやもや感が起点となり、色鉛筆は手渡し可能な紙となった。  さらに、紙だからできること、直接手に触れるものだからできることについて考えてみた。疾患を告げられ、途方に暮れる中、もし、本書を手にされたとしても、ここにあるものをヒントに人と情報につながるまでの活用に至ることは容易ではないだろう。それでも、できることはないだろうか。小さなセルフケアの提案、不器用であってもいい、挑戦してみたい、見え方見えにくさ体験ページを試みた。  自分の見え方見えにくさを自分が一番よく知っているという方も、自身の保有視覚の認知が十分ではなかったり、そもそもまったく理解されていなかったり、視力や視野を数値では理解していてもうまく保有視覚を活用されていないことを、私は多くの出会いの中で知った。また、私自身が見えにくさを抱えてきた中で何がまぎらわしく、わかりやすく、見えないなりにもどうにかできないかと工夫してきた経験をこの体験の要素に入れた。同じ対象物でも見えます、見えません、見えにくいなど、同じ人でもその時々で返答が異なることがある。なぜだろうか、それは見えないと言えば見えないし、見えると言えば見えるしという状況が本人の中にあるからだ。また、1行をすっと読み流すことができないと見えないと認識される人もおられる。1文字を巨大なフォントにすればどうにか見えるという方が、自分は字が見えるし読めますと言われることもある。そもそも見える、読めるという認識は個々に異なるのだ。自分が自分の見え方見えにくさを知らないから、人に伝えられない、伝えるための具体的素材がないという仮説のもとに、イラスト体験、フォント体験を考案した。ロービジョンケアや視覚リハビリテーションの支援者に私の提案するこの挑戦に助言をいただきつつ、あくまでも見えない見えにくい自分にできるセルフケアを、当事者目線からのアイデアの一つとして掲載することとした。絵筆を持ち描くことは容易ではないという弱視のまるこいなおさんにイラストをお願いし、いろいろなフォント体験では、読者による見えない見えにくい五七五作品が活躍した。  白杖を持って19年、見えない見えにくい自分を明らかにして生きる、そのことをゆるやかに受け止め歩くようになった私は、いつの間にか「一人じゃない」ということを伝える側に立っていた。受け止めて歩く、それは簡単なことではないし、受け止められたら楽なのかと言えば、そうでもない。見えない見えにくいことをそう悪くもないなあと感じつつも、でも、やっぱり見えたらいいなあと、毎日のようにふとした場面で思う。ただ、生まれた時からこれまでの自分はずっとつながっていて、孤独の壁や分かち合える喜び、そのどちらも私というたった一つの命の中に持っている。その小さなもの、点でしかないものを一つ、一つ、何かしらの縁で結び、丸いまあるい輪となっていくよう努めたい。そんなことをぼちぼちと思いながら生きていると、その縁の輪は、真の力を発揮することがある。限界を越え闇に支配されそうな日に、読者が、ライターが私に呼び掛ける。「お前は必要とされている、生きろ」と。色鉛筆で結ばれた縁は丸く、真の力で私を支えてくれている。今なら言える。文章で伝えること、表現することはバリアバリューの一つ、障害を価値にすることなのだと。  本書の制作にあたり、私の恩師でありプロの編集者である越智田吉生さんに編集補助をいただいた。若き日の私に「魂の入った文章とは何か」を教えてくださった越智田さんと、30年を経て本書をともに作ることになった。これも、実にミラクルなご縁だ。越智田さんにとって私は生意気な教え子だったはずだ。当時の私は、観念的すぎる、空回りだらけの稚拙な文章しか書けなかった。けれど、やんちゃな小娘の私と越智田さんは「文章の力を信じる者の契り」を交わしていたのではないだろうか。私はこの導きの力を信じている。こうして、豪快にやんちゃをしまくっているおばさんの私を支えてくれたのだから。  本書発刊にあたり、多数の方よりご寄付のご協力を賜った。ここで私は、本書の制作を資金面で支えて下さった多数の皆様、ご寄稿いただいた皆様、メルマガ色鉛筆読者の皆様、編集、私の活動と日常を支えてくださった人すべてのお名前を挙げ、感謝の言葉を届けることはできない。そこで、ここでは言及しきれないすべての人々にたいする私の感謝の気持ちを伝えたい。皆様とともに本書をつくることができて、心底うれしいです。とても幸せです。満面の笑顔です。ありがとうございました。最敬礼。  2021年春 石川佳子  フォント:UD新丸ゴM(サイズ14pt 行間8pt 字間−25) (187ページ) 表紙説明(テキストデータでは、表紙の入っている箇所で説明しています。) (188ページ) 中表紙説明(テキストデータでは、中表紙の入っている箇所で説明しています。) (189ページ) 裏表紙説明(テキストデータでは最後に説明を入れています) (190、191ページ) 推薦の辞  見えない・見えにくい方の現実と本音とたくましさにこころ打たれました。医療関係者には必読です。患者さんにも手渡したい。見えない・見えにくくても人生は明るい!  京都ロービジョンネットワーク いなば眼科クリニック 稲葉純子  いきいきとした生命力のある黄緑の葉っぱが添えられています。  人生のさまざまな色がいっぱい詰まった本。見えないってどんな世界? 本人もわかっているようで実は知らない世界、多くの人には未知の新しい世界。ちょっと覗いてみませんか。人生のヒントや心の栄養がもらえます。  株式会社ビジョンケア 神戸アイセンター病院  高橋政代  静かで華やかな深いブルー、輝く瑠璃紺色の葉っぱが添えられています。  病を患ったり、障害を負ったりしたときに同じ病気の人と話したくなる、同じ障害の人の話を聞きたくなるのは普通のことなのに、簡単にはできない。この本は、そんな心にどんな薬よりよく効きますよ。皆さん、処方してみませんか?  岡山大学病院 眼科医 守本典子  桜の花のような淡いピンク色の葉っぱが添えられています。  目で見ていたものを心で見るようになるには、時間とそれを一緒に乗り越えてくれる仲間が必要です。色鉛筆には、そのような仲間と出会える場があります。是非お読みいただきたい一冊です。  理化学研究所上級研究員 仲泊 聡  エメラルドグリーン、鮮やかな黄緑、茶色、そしてさらに鮮やかな黄緑色のグラデーション、タマムシ色の葉っぱが添えられています。  散りばめられたエッセイや見え方体験のいろどり、きらめき。これらがまさに、「色鉛筆」です。多くの方々が手にされて、ご自分ならではのいろどりを添えてくださいますように。  神戸アイセンター病院 心理カウンセラー(公認心理師)  田中桂子  上に向かって薄くなるグラデーション、やわらかで、はかなげなみずいろの葉っぱが添えられています。  当事者としての葛藤や、情報を得て気持ちや生活が変わっていくリアルな情景が詰まっています。患者さんに寄り添い、そっと背中を押してくれるエッセンスが詰まっています。支援者にもヒントが詰まった一冊です。  町田病院 ロービジョンケア担当 視能訓練士・歩行訓練士 別府あかね  落ち着いた深い赤、あかね色の葉っぱが添えられています。 == (192ページ) 奥付 見えない地球の暮らし方 -見えない・見えにくい人のリアルな日常レポート集- 2021年5月28日 第1版第1刷発行 発行:公益社団法人 京都府視覚障害者協会    情報宣伝部 メルマガ色鉛筆チーム    京都府京都市北区紫野花ノ坊町11    電話:075-462-2414    e-mail:iroenpitsu-hensyubu@kyosikyo.sakura.ne.jp 印刷・製本:アインズ株式会社 色鉛筆書籍化活動協力金:1,000円 【制作スタッフ】 編集:メルマガ色鉛筆チーム 小寺洋一 石川佳子 編集顧問:越智田吉生 装丁/デザイン:木貴代 イラスト:まるこいなお 本書掲載のレポートはメルマガ色鉛筆で2013年から2020年に配信されたレポートに加筆修正をしたものです。 本書掲載の情報は2021年4月現在のものです。 (裏表紙説明) 本書の発行にあたり、6名の方に推薦の辞をいただきました。手にしていただく皆様のお心に真っ先にこのコメントをお届けしたくて、裏表紙に入れています。推薦の辞をいただいた皆様のお好きな色を拝聴し、その色で彩られた葉っぱをコメントに添えています。裏表紙の説明として、推薦コメントとお名前、葉っぱの色の説明を記します。色が見えない人と色が見える晴眼の人との間で、言葉で色を伝える、目で見た色を言葉にするやりとりが何度もくりかえされました。そうして生まれた1枚1枚の葉っぱにも「分かち合い」の心は生きています。色がわかりにくいという方も、言葉のナビゲートでそれぞれの葉っぱの色をイメージしてみませんか? 190、191ページの推薦の辞を裏表紙に掲載しています。 (この本の内容は以上です。)