メルマガ色鉛筆第292号「今もあるもの」

タイトル 今もあるもの
メルマガ色鉛筆編集チーム
こんにちは。
メルマガ色鉛筆編集チームです。
捨てられずに今もあるもの、皆さんのそばにもあるでしょうか。
今回は、「今もあるもの」をテーマに二つのエピソードをお届けします。
二人のライターさんは、お互いのレポートに小さなコメントを添えられました。
タイトル 曖昧模糊
ペンネーム グレージュベール(30代 女性 弱視)
 30年以上前に私のところにやってきてくれたおふたりさん。
ぬいぐるみのうさちゃんと、くまさん。
もうとっくの昔にぬいぐるみ遊びはしなくなったし、
遊び尽くして腕も足ももげそうになっている。
だけど、他のぬいぐるみは一掃できても、この子たちは手放せず、
今もピアノの上に鎮座している。
多分一度もお風呂に入れたこともなく、手垢ホコリまみれ。
なんなら、よだれだ、食べかすだで、カビや菌の温床のような気がする。
でも、洗うのはためらってしまう。
型崩れしたらどうしようとか、縮んだらどうしようとか。
なんなら思い出まできれいになってしまいそうな気もしなくもなく。
うさちゃんは確か4、5歳頃のお誕生日かなにかのプレゼントで買ってもらった
もの。
耳がピンっと立っていて、可動式ではないものの、手足を動かせて、お座りもで
きる。
真っ黒の大きなおめめで、焦げ茶色とベージュのバイカラーのうさぎさん。
くまさんは、叔父の結婚式のフラワーガールをしたお礼にともらったもの。
2、3歳頃の話だからフラワーガールの記憶は全くないけれど、
物心つくよりも前から遊び仲間だった。
うさちゃん同様焦げ茶色とベージュのバイカラー。
書きながら不安になってきた。
記憶している色ももしかしたら違うのかも。
色あせて日焼けして、記憶している色に最終的になっただけで、当初はもっと鮮
やかだったのかも。
見えにくくなっていく時の中で、勝手に思い違いをしてるかも。
手放せないからすっとそこに置いているのに、日々必ず目に入っているのに、手
に取ることは全然していなかったな。
久しぶりに膝に乗せてみようかな。
ーー
ブラウンの温度さんより感想コメント
 見えにくさにもいろいろあるよね。
色がわかりにくい、なんとなく想像はできるけれど、という見え方だよね。
もしかして、そんな状態がずっと続いているのかな。
だとしたら、記憶、感覚、全部が不安になるよね。
それでも感じたい、ほんまはどんな色なの、そう語りかける、
それだけ大切なものなんだよね。
ちゃんとわかっていたいよね。
お膝の上で答え合わせができるといいな。
私も今、思い出してる、うちにいた大きなくまちゃんとわんちゃんのぬいぐるみ
のこと。
多分濃い茶色と黄土色だったはず。
でも、ほんまはちがってたのかな。
もう答え合わせできないけど。
タイトル 信楽焼の器たち
ペンネーム ブラウンの温度(50代 女性 弱視)
 私の父は陶器を愛した人だった。
父の親友も信楽焼の窯元のご子息であったので、いくつかの作品が我が家にもあ
る。
父から譲り受けたものは工芸品ではなく、日常使いのものが多い。
いわゆる床の間に飾られているような壺もあるが、花をさりげなく生ける壺や、
灰皿なんかのほうが記憶に濃い。
さらに普段使いなのが食器、信楽焼の食器もある。
その中で私が好んで愛用しているのがコーヒーのカップとソーサーだ。
あったかい茶色のグラデーションで、もちろん一つずつ色の具合も風合いも異な
る。
カップの中に湯を注ぐと、不思議なことにカップの底がキラキラと光る。
黄金色というか、ブロンズのような色にも見える。
カップだけで使って、ケーキや焼き菓子をソーサーにのせてもいい。
ソーサーはカップのくぼみが入っていない平らなデザインなので、
ソーサーとしても皿としても使える。
この皿には繊細なショートケーキよりも、
パウンドケーキのようなシンプルなケーキが似合う。
 私は モダンで自然な風合いの食器が好きだ。
信楽焼だけでなく備前焼や萩焼も好きだ。
家族旅行に出かけた時などは、
そうしたものとめぐりあうと気に入ったものを一つ選んでいた。
たくさんの土産物が並ぶ中で、萩焼の小さなカップを選んだ私に、
「ふーん、それがいいのか」と父が小さくもらしたことを今も懐かしく想う。
 夫も和食器が好きだ。
よく二人で食器を見て歩いた。
さんまのお皿、小鉢、盛鉢、取り皿、フリーカップ、いろんな器を少しずつ集め
てきた。
私たちが集めたものと父が遺してくれたものとを組み合わせて日常使いしている

娘時代から親しんできたものが今でも我が家のテーブルとともにある。
 イタリアンや中華とも相性がいい信楽焼、
その飽きのこないデザインと風合いは、
白くかすむ視界の今も、私にやさしい色を見せてくれている。
ーー
グレージュベールさんより感想コメント
私の祖父は清水焼を扱う仕事をしていたので、祖父母の家にはいろいろな器が昔
からあり、祖父母が他界した今、我が家にその器たちがやってきています。
すべての器を我が家で使うことはできないので、ずいぶんと処分してしまいまし
たが、選りすぐりのもの使わせてもらっています。
 幼心に器への興味が芽生えるはずもなく、
祖父から器の良さや目利きなどを教わったことはなかったけど、
年齢を重ねるにつれ、そういう会話もしておけばよかったのかなぁと思ってみた
り。
 母からの聞き伝いで、祖父は「器は大事にしまっておくんじゃなくて、
使って割れてする方がいい。
器のためにも商売のためにも」と言っていたそうです。
 そういえば、最近はめっきり目で見る「おいしそう」は感じられなくなっちゃ
ったなぁ。
綺麗なお皿が見えたなら、どれほど「おいしそう」の気持ちが増えるのかなぁ?
 いや、食欲が増えたらいけないから、やっぱり今のままでいいや。
編集後記
 思い出、見えていた記憶、それらが確かにそうだった。
そうだった証でもある今もあるもの。
あらためて手に取ったり、気持ちをそこに向けて思いを巡らせる。
そしたらまた何か新たに気付かせてくれることもありますね。
 グレージュベールさん、ブラウンの温度さん、ありがとうございました。
みなさんにも、お互いの大切にしているものを語り合うひとときがありますか。
あれば、きっとそれはよい時間になることと思います。
 -- このメールの内容は以上です。
発行:   京都府視覚障害者協会
発行日:  2023年2月17日
☆どうもありがとうございました。


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