メルマガ色鉛筆第256号「Moonlight Hourglass(月明かりの砂時計)

タイトル 「Moonlight Hourglass(月明かりの砂時計)
ペンネーム 雪うさぎは三日月の夜に・・ (40代 女性 弱視)
レポートの要旨です。
 芸術、美術、美しい作品は大概、見ること、見えることを前提としています。
見えない・見えにくいことはとても不利です。
けれども、手を伸ばしてつかもうとした。
考えた。
試みた。
そんな記録としてのレポートです。
ここから本文です。
京都のギャラリー、アトリエみつしまさんでアート制作のワークショップに参加させ
ていただくことになったのは、2021年秋のこと。
見えない人が見える人とチームを組んで、つくりたいものを形にするという企画でし
た。
ここ数年、視覚障害者の参加できる美術鑑賞イベントに多く参加してきましたが、今
回は観るのではなく「つくる」ことへの挑戦です。
何をつくりたい? 自らへの問いに対し、私の中にはひとつの揺るぎない答えがあり
ました。
心で“綺麗”と感じられるもの。
今よりもっと見えていた頃、私の周りにはとても美しい世界が広がっていました。
海、空、花、木、街路、山並み。
今よりもっと見えなくなったら、私はそれらを忘れてしまうかもしれない。
すでに今、更新されることのなくなった記憶は褪せ始めている・・。
未練がましいと思われるかもしれない、それでも私はその未練を心に持ち続け、この
世界の描く美しい風景を感じ続けていたい。
夜明け、木漏れ日、雨上がり。
夕映え、月明かり、雪明かり・・。
ときに抱きしめたくなるような、ときに涙がこぼれるような、理屈ではないいとおし
さに揺さぶられながら、この世界とつながっていたい。
少しずつ視界が薄れていく中、美術館でならもう一度綺麗なものに出会えるのでは、
そう期待し、視覚障害者向けの鑑賞イベントを見つけては何度も参加しました。
でもその多くは美しい風景を説明してくれるようなものではなく、見える人にもぱっ
と見では見えてこない難解な作品を、見えない人と一緒に観ることで深く鑑賞すると
いう趣旨のものでした。
それはそれで、新たな世界の広がる興味深い体験ではありました。
反面、奇妙なものにふれたり説明を受けたりする度、胸に抱えた期待が行き場を失う
寂しさをどうしようもありませんでした。
そんな私が作品をつくったら、どんなものになるのだろう。
日頃「美術館には綺麗なものはない」と偉そうに嘆いているんだから、自分で満足の
いくものをつくったらいいじゃない。
心の中の私が煽る。
どうやって? もう見ることも、描くこともまともにできないのに?
もう一人の私が切なく呟く。
でも、弱気以上にやってみたい気持ちが勝りました。
そして、見えるかたのサポートが得られるこの機会に、今自分にできうる限りの努力
と協力をもってこの瞬間を刻もうと決めました。
それからしばらく、日常の中に作品の題材を見つけようと、綺麗と感じるもの探しの
日々が続きました。
すると不思議、ぼんやりと目に映る風景、バスの吊革や窓枠さえも芸術的要素を秘め
た存在に思えてきます。
バスの床に落ちる、窓の形の陽だまり。
白く光を反射した車窓は人の形に透きとおり、その誰かのシルエットの中を、陽を浴
びた風景がきらきらと流れていく・・。
この“にわかアーティスト”気分で過ごす日常は、世界が輝きに満ちてくる、なかな
か素敵な体験でした。
ただ、ぼんやりとしか見えないものを、しかも紙も手元もほとんど見えないのに頑張
って描いたところで、綺麗なものに昇華できるとはとても思えません。
それどころか落書きとさえ認識してもらえないかもしれません。
それでも、ほんの少しでもいい、今、自分の目に映る世界を自分にできる形で残して
おけないかと、模索を続けました。
自分の顔はどうだろう? 鏡の中にその姿を見いだすことはもうないけれど、アイフ
ォンで撮った写真は、光線の加減で見えることがある。
でも描くのはとても無理。
じゃあ、目は? 片目だけならなんとか描けるかも?
視野の狭い私の世界はとても小さい。
それなら現実の中にではなく、現実を映すなにか・・例えば小さなグラスに片目だけ
を描くというのは? それ以外の部分は淡く光を纏った世界にし、現実と非現実を交
錯させながら、今の私の見え方も投影してみてはどうだろう?
いったんそこまで考え、次にグラスを取り巻く世界について思いを巡らせてみました

視野が2度程度の私の見え方は、中心のごく狭い範囲の、コントラストのはっきりし
たものは時間をかければ認識できますが、周囲はぼんやりとした色が渦を巻くように
混在し、遠くは白い霞の中です。
それをそのままに描けば、不安や恐怖、悲しみに押し潰されそうな心の内が露呈して
しまうかもしれません。
ですが、そんな見え方の中で暮らしている私の日々を思い浮かべてみると、決してそ
のように息苦しいばかりのものではありません。
見えない日常にも楽しいことはたくさんあり、美しいと感じるものもまたたくさんあ
ります。
見える世界へのさよならの形が、見えない世界で感じる美しさへの入口ともなるよう
、今見えているものを精いっぱいの力で残し、見て感じる美しさを大切にしながら、
見えない世界で感じる美しさも表現できたら。
ただそれは、今まで見ていたものをこれからは音声で聴いたらいいよね、という単純
なものでは決してない。
作品づくりは、溢れてくる心の声との対峙でもありました。
「やったー、うまくできてる!」
月2回、全6回の予定で行われたワークショップも後半に差し掛かった12月19日

前回、2週間前の進捗共有では「2時間かけて3センチ進みました」と苦笑いで報告
したのでしたが、正確にはその3センチも、本当にできたかどうか確信が持てるのは
次回を待ってのこと。
成功率は五分五分といったところでした。
そして2週間後、無事に形となったもの――、それは自分自身で自分の目を描きたい
という私の挑戦でした。
しかも、グラスに描きたいというのが私の望み。
見えない私がグラスに目を描く、これが一発で成功するとはとても思えません。
じゃあどうする?
私が考えたのは、まずクリアファイルに目を描き、その表面にレジン(透明樹脂)を
薄く塗って、乾いたらそっとはがし、絵の具の移ったレジンをグラスに貼り付けると
いう方法でした。
レジンは、以前娘がアクセサリーなどを作るのに使っているのを見てその透明感に惹
かれ、今回ぜひ光を取り込んだ作品づくりに使ってみたいと用意してもらった素材で
した。
アクリル絵の具を筆に含ませ、いざスタート!
ところがというかやはりというか、筆先がファイルにふれる瞬間を見極めることは私
にはできず、しなやかな筆のボディ・タッチは、ファイルにたっぷりとしたシミをつ
くってしまいました。
いちばん細い筆でも無理だったので、筆で描くのは断念。
一定の細さの線を引くために試行錯誤した後たどり着いたのは、つまようじの先をほ
んの少し潰し、そこに絵の具を含ませて描くという方法でした。
次は、3センチの幅を視野に収めることができない私が弧を描く方法。
これは左手をファイルに置いて固定し、そこからの距離を感じながら描くというもの
でした。
一度目は歪んでしまいやり直し、二度目になんとか上端のラインを引くことができま
した。
円を描くのは始点と終点が合わず苦手なのですが、息を詰めて臨んだ黒目の輪郭は奇
跡的に一度で描くことができました。
色の配合は、「青7、赤2、黄1ぐらいで混ぜてみてもらえますか?」「白にほんの
ちょっとだけ赤と黄色を混ぜて、画像のこの部分に近い色にしたいんですが」などと
イメージを伝えながら、その日チームに入ってくださったかたにお願いしてやっても
らいました。
そんな具合なので、とても見えていた頃のように繊細な描写はできません。
もどかしさと、それでも一応、目らしいものを描けたことへの達成感と、それもサポ
ートのかたのおかげという感謝と、もしうまくいかなかったとしても、もう一度一か
ら挑戦するのは時間的にも無理かもしれない、どうかうまくできますように、そう祈
る気持ちと。
描き終えた目は、すべての思いを受け止め、静かにこちらを見つめているようでした

その表面にレジンを塗ってもらって軽く乾かした後、グラスの曲線に沿って立体的に
固めるため、ファイルごとグラスに巻きつけてテープで固定したところで、3回目の
ワークショップは終了となったのでした。
当初グラスの表面に貼り付けようと思っていたその目は、考えた末、グラスの内側に
沈めることにしました。
見えなくなりながらもたくさんのものを見てきた喜びも、悲しみも全部、透き通った
グラスの内側にそっと持っていたい。
心の眼差しで世界を見つめ続けたい。
そんな気持ちも、やっとの思いで描いた、埋もれてしまいそうなこの目で表現できる
だろうか・・。
アート制作の期間を通し、私はずっとあることを考えていました。
それは鑑賞についてです。
作品にはつくる側と鑑賞する側がいて、私はこれまで多くの場合、見えにくい中で鑑
賞する「鑑賞者」の立場にありました。
これからもそうであると思います。
つくり手になったからといってその視点を外す必要はない、むしろそれを活かし、豊
かな鑑賞のしかたを自ら提唱し、鑑賞の可能性を広げるチャンスにもできるのではな
いだろうか。
私は、2020年秋から数回にわたり参画させていただいた、国立国際美術館での「
視覚を使わない鑑賞ツール検討会」のことを思い出していました。
視覚障害者の美術鑑賞は触察型、対話型が主流ですが、そのどちらも、作品を知る手
がかりにはなっても、視覚的鑑賞のもたらす「心揺さぶられる体験」には至らず、作
品の放つ印象を受け取れていないと感じることの多かった私は、では他にどんな鑑賞
が可能だろう、自分ならどんな鑑賞がしたいだろう、どんな鑑賞なら多くの人が楽し
めるだろう・・と考察を重ねました。
検討会の最終回に用意していただいたさわる鑑賞ツールは、グループ討論で飛び交っ
た奔放な意見を、まさかこれほどまでにと驚くほど忠実に形にしてくださっていて、
ふれた瞬間指先から衝撃が伝わり、どんどんさわりたくなり、ぐんぐん作品に惹き込
まれていく、本当に感動的なものでした。
それまで触察は苦手と思っていましたが、単調な立体コピーにふれるのは作品のカラ
ーコピーを見るようなもので本来の印象に届かないのは当たり前、素材を十分に検討
し、丁寧に手をかけて風合いを表現されたものにふれれば豊かな鑑賞につながること
がわかりました。
今回は自身が制作者となるのだから、当然当初はさわり心地のよい、さわって美しい
と感じられるものを目指していたのですが、これが予想以上に難しい!「さわり心地
がよい」の定義は見る場合と同様に個人差はあるかもしれませんが、なめらかさやふ
んわり感といった手触り、ライン(形)の美しさ、重厚感などの質感とともに、実は
「安心してさわれること」が重要なのではないか。
最近そう考えるようになりました。
ところが制作を始めてみると、表現したいイメージとさわり心地が両立しないのです

特に安心してさわることができるかという点においては残念なほど、そっとふれ、ゆ
っくり鑑賞してもらわなくてはいけない作品になってしまいました。
でもそうした課題が、以前あれこれと考えたことを思い起こし、別の鑑賞法を提唱す
る好機となりました。
通常、鑑賞というのは一方的な受信行為であるけれど、受け止めた印象を表現し、共
有する発信型、交信型の鑑賞を楽しんでもらうのはどうだろう。
見て、そっとふれて、聴いて、心に響く印象を見つめ、それを表現する。
印象の共有によって新たな気づきが生まれ、より深い鑑賞につながる。
かつて作品の前に立ち止まった人と、今ここにいる自分と、いつかここに足を止める
誰かとが、ひとつの作品に印象を重ねていく。
それはまるで言葉の砂時計・・。
「月明かりの砂時計」。
この作品タイトルは、実は5年前、2017年に初めてメルマガ色鉛筆に文章を載せ
ていただくことになった際、ペンネームとして考えたものでした。
当時編集チームのかたに宛てたメールで、見えなくなっていく今を生きる自分の思い
をそのペンネーム案に寄せ、私はこんな風に綴っていました。
「強い日の光ではなくても、淡く優しい光に包まれて
静かに、でもきらきらと輝く一粒、一粒の砂のように
これからの一瞬一瞬を大切に過ごしていけたら。
そして、人生を振り返ったときに
感謝や優しさ、幸せ・・きれいな砂がたくさん積もっているような
そんな生き方ができたらと思っています。」
つくり終えた作品を前に、静かに5年間の歳月を振り返る。
たくさんの出会いと出来事の重なりの上に今がある。
決して当たり前ではない、どこかで倒れてしまっていたかもしれない砂時計に、多く
の方々のおかげで、今さらさらと時の砂が降り積もる。
淡い光に包まれて、感謝の音色を優しく響かせて。
★「Moonlight Hourglass(月明かりの砂時計)」は、直径約30センチのリース状
の作品を吊るしたものに、印象を共有する鑑賞ツールを添え、鑑賞されることによっ
てさらに新しい面が見えてくる、鑑賞に育てられる作品となっています。
2021年11月から2022年1月に開催された「視覚に障害のある人・ミーツ・
マテリアル」で制作された作品は2022年2月19日から3月18日までアトリエ
みつしまにて展示される他、3月14日から3月31日まで、京都福祉まつりホーム
ページに写真が掲載される予定です。
それぞれに趣の異なる作品が並びますので、ぜひ鑑賞してみてくださいね。
編集後記
 作品とは、人がこの世界に作り出して存在するようにしたもの。
鑑賞とは、作品の発するものを受け取って自分の反応とともに味わうこと。
見えない・見えにくい、というむずかしさは、ときとして人を磨き込みます。
磨かれた雪うさぎさんのレポートをお届けしました。
 ぜひ作品のほうにも直接に触れてほしいです。
鑑賞ツールのことも少し聞きましたが、すてきな内容です。
ぜひぜひ。
-- このメールの内容は以上です。
発行:   京都府視覚障害者協会
発行日:  2022年2月18日
☆どうもありがとうございました。


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