メルマガ色鉛筆第182号「俺は偽善者か?」
タイトル 「俺は偽善者か?」
ペンネーム ミスターチェックメイト(50代 男性 全盲)
レポートの要旨です。
「いつもみんなのために本当にありがとうございます」、
「なかなかできることではないですよ」、
「本当に頭が下がります」。
ありがたいことに、こういったお言葉をよく頂きます。
今回、久しぶりに色鉛筆の編集部から寄稿のご依頼がありました。
いくつかテーマの候補がありました。
迷わず「障害者、いい奴ばかりなわけがない。こんな俺もいる」に決めました。
他人を誹謗中傷することはダメですが、その対象が自分自身なら大丈夫ですよね
。
というわけで、2020年の俺トークです。
ここから本文です。
突然の事故で失明してからもう20年近くになります。
いろいろな方々にご支援頂いて、仕事も継続できています。
今では、仕事や余暇、身だしなみ等々の会の幹事やお世話役をさせて頂く日々で
す。
お願いされてお引き受けした役割もあれば、自分で会を作って動いているものも
あります。
そうした役割を担う中で、冒頭のようなお言葉を頂くことがあります。
私も感情のある生身の人間ですから、褒めて頂いて嬉しくないはずはありません
。
でも、時に何か違和感のような、何と表現してよいかわからない感情に捉われま
す。
それは、10年以上そうしたお役目を担いながら感じ続けているものです。
周りの方々は、私が自分の時間を犠牲にして、困っている他の視覚障害者のた
めに頑張っていると思っておられると思います。
確かに日々仕事で疲れている中、帰宅後、また土・日の休みを利用してそうした
活動をしています。
仲間のために動いているということも、全く違うとは言えません。
嘘でないのは事実です。
対外的にそうした説明をすることもあります。
それはなぜか?
周りの方々からそうした答えを期待されているからです。
当然そうしたことが理由であるはずだ、そうでなければならないといった空気感
や雰囲気を感じています。
これは、あくまでも自分の皮膚感覚です。
でも、「お前、本当なのか?」と自問自答します。
本当の答えは、それはきっと自分のためにしている!、自己満足のためにしてい
る!
「そうじゃないのか?、おい、お前」。
確かに、けなされるよりは褒められたいと思います。
心の中で「もっと褒めてくれ」と叫んでいる自分もいます。
「してあげたのに」、「してあげているのに」と、一番思ってはいけないことを
思う嫌な自分がいます。
だから、周りの方に褒めてもらうと、「違うねん!」って心の中で叫んでしまい
ます。
なのに、笑顔でお礼を言っている自分がいます。
時に、家内にそうした活動でのトラブル等々を愚痴ることがあります。
そうした時に、家内が必ず言う言葉があります。
「嫌だったらやめたらええやん。アナタ、自己満足でやっているのでしょう?。
だったらそれでええやん」。
家内の言葉は、いつも私の心の鏡です。
仕事でもそうです。
私は、会社に入った以上、トップを目指して仕事をしていました。
実際、トップになるのは不可能に近いことはわかっていましたが、そうした志を
持って必死で仕事をしていました。
そして、優秀な同僚達を見て、現実的なラインとしての自分の本音の目標も定め
、
昇格・昇進を積み重ねてきました。
そんな中で、不慮の事故で失明しました。
「あいつらには負けない」という思いだけで、逆風の中復活しました。
今も必死のパッチの日々です。
当然、会社の中は晴眼者ばかりですし、その土俵での勝負となります。
「お前、目が見えないのに立派やなあ」と、一定の評価をしてくれる上司、同僚
もいます。
本気で言ってくれる人間もいれば、同情の中、哀れみを持って言う人間もいます
。
失明をきっかけに離れていった連中もいました。
晴眼者と同じ土俵で勝負・・・これが建前上の説明です。
しかし、本気で考えれば、自分が晴眼者だったとしても、
勝負する相手としては大変優秀な仕事のできる同僚ばかりの世界です。
そんな建前だけでは昇格・昇進はできません。
私は復活して10年以上経ちますが、その間、昇格・昇進はできていません。
もちろんすでにそれなりの役職でしたので、簡単でないことはわかっています。
自分の目標としていたあと1段階の昇格・昇進を、今でも泥臭く、心の中でギラ
ギラと狙っています。
もちろん努力は惜しむことなく、日々全力投球です。
それだけなら綺麗事ですが、嫌な自分ということでいうと、失明したことを逆手
に取って上司とも交渉しています。
今の仕事は失明したからこそできる業務であり、失明してからの自分の広告塔と
しての活動をアピールしています。
そうしたことからいえば、視覚障害者になったことも昇格・昇進のために利用し
ている自分が存在しています。
嫌な奴ですよね。
でも、いいんです、それも偽らざる自分ですから。
人って性善説で物事を考える・・・そうした風潮がありますよね。
でも、本当にそんな性善説だけで生きていけるのでしょうか?
私にはできません。
上述のプライベートでの視覚障害者の活動でも自己満足と書きました。
もっと究極な言葉で言えば、せっかく視覚障害者になったのだから、その世界で
名前を残したい。
「あれはあの方がやったことやで」、「あの会を作ったのはあの方やで」と、
よい意味で視覚障害者の後輩達から名前を覚えてもらいたい、歴史のページに名
を残したい・・・そうした思いの中で活動しています。
そんなギラギラとした理由を聞いて、周りの人はどう思われるでしょうか?
引かれるかもしれませんね。
他人のために自分を犠牲にして、社会のために・・・そうした心地よい言葉を並
べないといけないでしょうか?
50歳も過ぎて、人間もっと丸くなって、周りから尊敬される人に!
頭では理解していますし、そうなりたいとも思いますが、今の私はまだまだギラ
ギラした上昇志向の塊みたいな存在です。
もちろん、これからも視覚障害者の様々な活動は続けていくつもりです。
そうした活動によって仲間の多くが救われるのなら、役立つことがあるのなら、
それは喜ばしいことですし、嬉しいことです。
でも本音のところは、自分のためにやっている、自己満足のためにやっている
、いやいや自分の名前を残すためにやっている。
だから言います。
「障害者、いい奴ばかりなわけがない。こんな俺もいる」と!
編集後記
ギラギラとした人間臭さ、そこに魅力を感じるのはなぜだろう。
障害の有無に関わりのない感覚がそこにあるからだろうか。
いい人像、そこに重なる部分はどこにあるのか。
嫌な奴、そこに重なる部分はどこにあるのか。
問いかけながらも潔く放たれたメッセージは、
「本音と建前、そこに自分のすべてがあるんだ!」でした。
「仲間のために」を掲げて走るには、泥臭さを偽らずに叫ぶだけの本気が必要
なんでしょうね。
肉食系男子なんて言葉がなかった時代から、
今を駆け抜ける男の粋を感じます。
-- このメールの内容は以上です。
発行: 京都府視覚障害者協会
発行日: 2020年1月31日
☆どうもありがとうございました。