メルマガ色鉛筆第156号「歌に思いを込めてⅢ」
タイトル 「歌に思いを込めてⅢ」
~ある日の各駅停車の風景~峠に挑む鉄道~
メルマガ色鉛筆編集チーム
こんにちは、メルマガ色鉛筆編集チームです。
「歌に思いを込めて」の第3回、最終回です。
今回は、特急以外はほとんどが1区画4人がけの向かい合わせ座席だったころの
お話、そして今はなき峠に挑む鉄道の物語です。
後半では、鉄道ファン、鉄道マニアでないとちょっとわからないかもという語
句や表現が出てきます。
というわけで、最後にいくつか注釈をつけさせていただきました。
鉄道は単なる移動の手段であって、鉄道そのものにはそんなに興味があるわけで
はないという方もいらっしゃると思いますが、
少しでも「へえ、そうなんや」と思っていただければと思います。
タイトル 一人旅のはずが…
♪各駅停車♪ 猫
ペンネーム 青20号(50代 男性 全盲)
ベルが鳴りやんだ。
前のほうからピーッという細い汽笛が聞こえた。
それから少し間をおいて、クッと背中を押されるような感じがして列車は動き出
した。
電車とは違ってとてもゆっくりしている。
開けた窓からは、次の列車を待つ人々の話し声が聞こえてくる。
それがだんだん早く後ろへ流れていき、列車は高崎駅を離れた。
「ご乗車ありがとうございます。信越線、普通列車の長野行きです。これから
の主な停車駅は…」。
ベテランらしい車掌の声が、車内を埋めている高校生の騒ぎにかき消されながら
もなんとか聞こえる。
「どこまで行くの?」、向かい側の席からふいに話しかけられた。
「田中まで」、ぼくは答えた。
「ふうん、知らない駅だわ」。
「どこまで行くんですか?」、ぼくも聞いてみた。
「どこでもいいの」。
「えっ?」。
「適当なところで降りるから」。
ぼくが戸惑っていると、「学生?」とお姉さんはかまわずに続ける。
「ええっと、高校生です」。
「へえ、一人旅?」。
「いとこのところへ遊びに」。
「ふうん、春休みだもんねえ」。
「お姉さんは?」。
「うん、まあ、一人旅、かな」。
それ以上は聞けない、大人の事情を感じた。
話が途切れると、どこかこもったような、ゴトンゴトンという車輪の音が心の
中まで響いてきた。
「今から一人言を言うわね」、列車が安中(あんなか)を過ぎたころ、お姉さ
んが話し始めた。
それによると彼女は東京の大学生で、
半年間片思いした相手に気持ちを伝えたところ、みごとにふられたそうである。
「だから、少し東京を離れたかったわけ」。
悲しい話に思えたけれど、お姉さんはどこかさっぱりしていた。
磯部、松井田と停まるうちに、騒いでいた高校生の一団はいなくなった。
「次は横川です。機関車連結のため5分停まります」。
横川駅は「峠の釜めし」で有名だ。
特急や急行が停まると、それを求めて多くの乗客が売り場へ駆け出していく。
けれども、この普通列車ではそれがない。
ところが、「あっ!、釜めし売ってる。私、ここで降りるわ。さよなら」、
ぼくが驚いている間にお姉さんは行ってしまった。
取り残されたぼくは窓を閉めた。
いつの間にか雨が降り出していたからだ。
客車の後ろには、これから峠を越えるための機関車が連結された。
ベルが鳴り出した。
そのベルが鳴りやむと、まず前のほうから細い汽笛が、そして返事をするように
後ろから太い汽笛が聞こえた。
それがやまびこになって何度も返ってくる。
やまびこがやむと列車はゆっくり動き出した。
1人になったぼくは、どういうわけか、フォークグループ・猫の「各駅停車」
という古い歌を思い出していた。
各駅停車の汽車は今
思い出のまちを出る
ぼくの笑いがゆがんでいるのは
降り出した雨のせいじゃない
また汽笛が鳴った。
青い客車列車は、これからいくつもくぐるトンネルの最初の一つに入った。
ペンネーム 緑のそよ風(60代 男性 眼科医)
子どものころぜんそく持ちだった私が毎年夏に静養していた温泉が長野県上田
市郊外にあり、
当時親に連れられて乗った信越線の列車は、私にとって楽しい思い出への入り口
。
国鉄最急勾配区間であった横軽(よこかる)越えの情景は、今でも記憶の片隅に
残っています。
昭和30年代の横軽越えは、まだアプト式。
今、紅葉の名所となっている碓氷(うすい)峠の眼鏡橋などを通り、26のトン
ネルを抜けて軽井沢に到着しましたが、
このわずか11キロあまりの区間を通過するだけで40分の時間を要していまし
た。
そのため、昭和38(1963)年に線路がつけ替えられ、
単線のままではありましたがトンネル数は11まで減って、アプト式は廃止され
ました。
このときから、EF63の重連を高崎方に連結しての粘着運転となります。
ただ、補機重連が後ろから押し上げる形となるため、
非常制動時の車両の座屈防止のためエアサスペンションをパンクさせての運行と
なり、かなり振動がひどい状態でした。
時速も30キロ前後とかなりゆっくりで、のんびり旅の気分を味わうにはよかっ
たかもしれません。
なお、この横軽越えは昭和41(1966)年に旧線の一部を利用して複線化
され、
こちらのほうもトンネル数が18まで減っています。
猫の「各駅停車」は昭和49年にリリースされていますので、
青20号さんが書かれているお話は昭和50年代のことだと思います。
このころは、高崎線や信越線でもまだ機関車牽引による客車列車が走っていまし
た。
高崎発・長野行きの各駅停車の客車列車を、当時群馬大学の学生だった私も高崎
駅で見かけております。
客車列車が横軽越えをするときは、
先頭の本務機EF62の機関士が最後尾の補機EF63の機関士と車内電話で連
絡を取りながらのプッシュプル運転。
まさに阿吽(あうん)の呼吸で運転されていました。
横川駅では、補機連結のための数分の間に、「峠の釜めし」を買うために乗客
の多くがホームをダッシュしていました。
窓から大声をあげて売り子さんを呼んで買い求める人もいました。
そして青20号さんも書かれているように、雨が降ってきたら窓を閉めたりと、
昭和の鉄道風景そのものの情景が展開されていました。
今は新幹線が時速200キロ以上のスピードで峠を上り下りし、
高崎・軽井沢間(横軽間ではない)の所要時間はわずか15分です。
ところが当時の各駅停車では、高崎から峠手前の横川まででもけっこうな時間
を要していました。
ですからお姉さんとゆっくり会話する時間もあったし、
列車からとび降りてどこかへ行ってしまうような、そんな気まぐれ旅も許されて
いたのだと思います。
今となっては、遠い日の思い出ですね。
青い客車列車というのは、おそらく10系客車だと思います。
車体が、国鉄色の一つである青15号(東海道新幹線の青20号とは違う色)で
塗られていたはずです。
各駅停車が途中で乗務員交替を繰り返しながらけっこう長い距離を走破していた
ことも、
昭和の車両運用の特徴です。
そんな客車列車は、昭和57(1982)年の東北・上越新幹線開業にともな
い上野口から駆逐され、
各駅停車も115系電車などに置き換わっていきました。
ちなみに、私のペンネームの「そよかぜ」は、
そのころ主に国鉄色の189系電車を使って上野・中軽井沢間で運転されていた
臨時特急の愛称です。
平成9(1997)年、北陸新幹線の高崎・長野間開業にともない、
碓氷峠の明かり区間から電車や機関車の汽笛の音はとうとう消えてしまいました
。
横川駅、今でこそ碓氷峠鉄道文化むらがありますが、当時は駅の周囲には山し
かありませんでした。
徒歩で碓氷峠を越えるには3時間はかかりましたので、とび降りたお姉さんのそ
の後が気になります。
私と同じ年代のはずですが、今ごろどこを歩いているのでしょうか?
♪♪
ペンネーム セピア色の色鉛筆編集者(60代 男性 弱視)
向かい合わせ座席が主流だったころの列車の車内では、
青20号さんのお話にあるように、同席の人の間で自然と会話が始まったもので
す。
お互いにお菓子をもらったりミカンをあげたりということもありました。
そして、先に降りる人は「お世話さまでした」と言って席を立っていきます。
長距離を走る列車では、特にそういう風景がよく見られました。
最近はやりの豪華列車とは違って、思いっきり生活感のある車内でした。
まあ、話好きでない人にはちょっと居心地の悪い世界かもしれませんけどね。
子どものころ、京都から仙台に帰省するときに乗った東北本線の急行列車のこ
とが思い出されます。
子どもでしたので、お菓子もミカンももらってばかりでしたが、それはとても楽
しい時間でした。
私の鉄道好きの原点の一つは、このあたりにあるのかもしれません。
あのころの鉄道の風景はもう二度と帰ってこないと思うと、ちょっと感傷的な
気分になってしまいます。
「峠の釜めし」のことや横軽越えのことについても何かコメントを添えたかっ
たのですが、
そうすると3通に分けての配信になってしまいそうですので、このあたりにとど
めておくことにします。
いやあ、残念、心残りが…。
♪♪
●注釈
<横軽越え>
信越本線の横川(群馬県)・軽井沢(長野県)間の区間。
この区間には碓氷峠という難所が立ちはだかっており、横川から軽井沢に向かっ
て急な上り勾配になっていました。
<アプト式>
2本のレールの間にラックレールというギザギザの歯のついた軌条を敷き、
その歯に機関車側の歯車をかみ合わせて勾配を登る方式。
<重連>
機関車を2両連結にすること。
<粘着運転>
動力のある車輪とレールの間の摩擦力によって列車を走らせること。
早い話が、皆さんの近所を走っているJRや私鉄の電車とまったく同じ走り方、
自動車も同じです。
<補機、本務機>
それぞれ補助機関車、本務機関車の略。
EF63形は、横軽越えの専用補機です。
軽井沢から横川に向かって勾配を下るときも、重連で列車の先頭に立ってブレー
キの役目を果たしていました。
また、EF62形のように、高崎から長野まで通しで列車を牽引する機関車のこ
とを本務機といいます。
<非常制動時の車両の座屈防止のためエアサスペンションをパンクさせての運行
となり…>
横軽越えでは、非常ブレーキをかけたときに列車の編成中間で車両のせり上が
りが起きないように、
乗客が乗っているにもかかわらず、空気バネ台車の空気を抜いて運転されていま
した。
こうするとどうしてせり上がりが起きにくくなるかという説明は、長くなるので
省略です。
それにしても空気の抜けた空気バネ台車、乗り心地の悪いことこの上なし、パン
クした自転車に乗っているみたいな感じです。
<明かり区間>
鉄道や道路のトンネル以外の区間。
-- このメールの内容は以上です。
発行: 京都府視覚障害者協会
発行日: 2019年5月17日
☆どうもありがとうございました。