メルマガ色鉛筆第148号「歌に思いを込めて」
タイトル 「歌に思いを込めて」
~旅と鉄道、そしてあのころ~
メルマガ色鉛筆編集チーム
こんにちは、メルマガ色鉛筆編集チームです。
今回は歌をモチーフにして、旅や鉄道、そして過ぎ去ったあのころへの思いを
書いていただきました。
この企画は3回のシリーズとして、月に一度の発行を予定しています。
第1回で登場する歌は、森進一さんの「襟裳岬」と中島みゆきさんの「ホーム
にて」です。
「襟裳岬」では、北海道旅行の思い出と亡くなられた先輩への思いがつづられて
います。
「ホームにて」では、ふるさとを離れて都会に出てきた者の心情が自身の思い出
とともに語られています。
そして、この二つのエッセイに、1人の読者が共感を込めてコメントを寄せてく
れました。
それぞれの旅と鉄道、そしてあのころへの思いです。
タイトル 9泊10日の大名旅行
♪襟裳岬♪ 森進一
ペンネーム まだ見ぬ岬の風の色(40代 男性 光覚)
社会人になって数年がたったころ、9泊10日の国内旅行をしました。
そのうち5泊が夜行列車!
今やろうとしても、時間的にも体力的にも、何よりも物理的に不可能な旅です。
ちなみにそのとき乗った列車は「北斗星」、「オホーツク」、「はまなす」、
今は昼間の特急として「オホーツク」が残るのみです。
友達の結婚式への出席、仲間との鉄道旅、そして一人旅を組み合わせたこのな
があい旅行を、
知り合いは「大名旅行」と命名しました。
でも、あの楽しかった旅行で唯一悔いが残るのは、襟裳岬に行けなかったこと。
一緒に結婚式に出席した大学の先輩にすすめられて訪れるつもりでいたのに、
列車に乗りながら森進一の「襟裳岬」を夢の中で聞いていて、降りる予定だった
駅を乗り越してしまったのです。
それで、襟裳岬は断念せざるを得なかったのです。
それから3年後、私の再就職の直前に、
先輩は生まれくるはずだった娘さんと一緒に天国に旅立ちました。
2日後が入社だった私は告別式には出席できなかったけれど、
「あの人が生きられなかった分もしっかり生きなければ」という気持ちで入社式
に臨んだことを思い出します。
だから、これまでつらいことがあっても頑張ってこられたのは先輩のおかげかも
しれません。
先輩へ
「ハンディがあっても気にしないで頑張れ」と言ってくれたあなたとの約束は
、なんとか守ってくることができました。
今度はもう一つの約束を守るために、夢の中でしか行ったことのない襟裳を訪れ、
岬の風の色を肌で感じたいと思います。
♪♪
ペンネーム 緑のそよ風(60代 男性 眼科医)
まだ見ぬ岬の風の色さん、ありがとうございます。
森進一の「襟裳岬」は、私にとっても愛唱歌でした。
「身構えながら生きるなんて ああ 臆病なんだよね」、
困難にぶつかったとき、「そうだね」と思わずうなずき自分を励ましています。
襟裳岬は私も一度は行きたいとあこがれている場所、あの突端に立って岬を吹
き抜ける風を全身に受けてみたいですね。
「襟裳の春は何もない春です」でも、ここでしか感じられないものはあると思い
ます。
機会がありましたらご一緒したいです。
まだ見ぬ岬の風の色さんが北海道に行かれたころには、
帯広から襟裳岬のほうへ向かう広尾線はすでに廃止されていたと思います(昭和
62年廃止)。
広尾線の終点・広尾駅まで汽車に乗り、
そこからバスで襟裳岬を経由して日高本線の終点・様似(さまに)駅まで行くこ
とはもうできなかったと思います。
日高本線も鵡川(むかわ)駅以南の廃止が決まり、鉄道ではますます行きにくく
なりました。
「北斗星」や「はまなす」もここ2~3年で廃止になり、夜行列車も記憶の彼
方に消えつつあります。
でも、車内放送で流れていたハイケンスのセレナーデを聞くと、今でも遠い日の
記憶がよみがえり、
あの日に帰りたいなどと思うこともあります。
タイトル 空色の切符
♪ホームにて♪ 中島みゆき
ペンネーム 雪白の月(60代 女性 弱視)
「ホームにて」が発表された1977年、
それは長距離を走る急行や特急、寝台列車がまだまだ重要な役割を担っている時
代でした。
「ホームにて」は、そういう時代背景の中、田舎から都会に出てきた者の心境を
歌った望郷の歌です。
メロディーは優しいバラードですが、歌詞は比喩が満載でまわりくどく、わかり
にくいです。
そして、解釈によっては絶望的に寂しい歌です。
ふるさとや親から離れて経済的に自立したことのない人には、心にしみない歌だ
と思います。
まだ若かったころ、連休でもない週末に帰省したことがあります。
今から思えば大したことでもないのに、煮つまってどうにもならなくて、帰って
しまったんです。
母のご飯を食べて笑顔で雑談し、ただそれだけで戻るつもりでした。
始発の列車で戻ろうとすると、めずらしく父が駅まで送ってくれて、
「しんどかったらまた帰ってこい」と。
別れ際の父の思いがけない言葉に、
顔を見られないようにして「うん…」と返すことしかできませんでした。
無人駅のホームに1人、始発の到着を待っている私。
そして朝日に輝くレール、ヘッドライトを光らせて近づいてくる空色の汽車。
このときの情景はなんともやるせなく、今も心に残っています。
そのころは、この歌のように私もかざり荷物を持ち、空色の切符を握りしめて
踏んばって生きていました。
若くて弱くて危うくて…、でも宝物のような時代です。
♪♪
ペンネーム 緑のそよ風(60代 男性 眼科医)
帯広育ちの中島みゆきには、
都会での暮らしに挫折しふるさとへ戻りたいと思う人のやるせない気持ちは痛い
ほどわかるのかもしれません。
バラード調のゆったりとした曲の中に心に染み入るような切ない歌詞がちりばめ
られ、
去っていく列車の後ろ姿を心の中で泣きながら見送る人のふるさとへのやるせな
い思いが込められています。
皆それぞれにプライドを持ち、心が折れそうになっても頑張って生きている。
この歌の主人公も雪白の月さん同様、
気持ちはふるさとへ帰る列車のホームまでやってきていながら、そこで踏んばっ
て生きているのだと思います。
でも、駅まで送り届けてくれたお父様、優しいお父様ですね。
歌詞の中に「汽車」とか「白い煙」という言葉が出てきますが、
蒸気機関車牽引の列車が国内での旅客扱いをすべて終えたのが昭和50年12月
。
中島みゆきが少女時代を過ごしたころは蒸気機関車はまだ北海道では主役だった
ので、
この曲が発表された昭和52年でも汽車のほうがしっくりきたのでしょう。
北海道では、今でも高齢の方は「(札幌駅まで)汽車で行く」と表現するそう
です。
♪♪
ペンネーム セピア色の色鉛筆編集者(60代 男性 弱視)
編集長さまのお許しを得ることもなく、編集後記はやめにして、
私もペンネームで今回の3人のライターさんの仲間に入ることにします。
というのも、今回の文章を読ませていただいて思い起こすことがあったからです
。
私がまだ学生だったころ、ちょっと好きな女の子(今はおばちゃん?)がいま
した。
彼女が、「これ、私の気持ちだよ」と言って愛国発・幸福行きの切符をくれたこ
とがあります。
北海道旅行に行って、広尾線から襟裳岬を回ってきたそうです。
切符をくれたときに思わせぶりな言葉を添えたのは、きっと悪ふざけのつもりだ
ったんでしょう。
でも、心がおどりました。
そうそう、彼女が「襟裳の夏も、何もない夏だった。でも、すごく気持ちよかっ
たよ」と言ってました。
岬の風の色さん、先輩との約束もあることですし、一度は襟裳岬に行ってみるべ
きだと思います。
そよ風さんもご一緒したいと言っておられますし…。
それからしばらくして、彼女の下宿に遊びに行ったときに、
「この歌、すごくいいよ」と言って聞かせてくれたのが「ホームにて」でした。
初めて聞く歌でしたが、「いい感じだなあ」と思ったのは確かです。
彼女も、大学に通うために親もとから遠く離れて一人暮らしをしていましたので
、
やはりみゆきさんの「ホームにて」に心を動かされたのだと思います。
この歌が収録されていたのは、「あ・り・が・と・う」というタイトルのLPレ
コード。
「・」が入っているところまで覚えているって、すごいでしょう。
この文章を彼女が読むことは、まあ、ないとは思いますが、
万が一読むことがあったら「これ、私のことかしら?」って思うのかな。
それにしても、今回の皆さんの文章が私のあのころにつながっているなんて、
なんということでしょうか。
あのころのことを思うと、なんだか心が熱くなっちゃうなあ…。
(編集部より)
広尾線には「愛国」、「幸福」という二つの駅がありました。
そして、「愛の国から幸福へ」ということで、1970年代の後半に愛国発・幸
福行きの切符が全国的に大ブームとなりました。
このブームは、大きな赤字を抱えていた広尾線の営業収支の改善に大きく貢献し
ました。
しかし、1980年代になってそのブームが去ると、広尾線はまたもとの大赤
字路線に転落してしまいます。
そして、そよ風さんが書かれていたように、1987(昭和62)年には廃線と
なってしまいました。
-- このメールの内容は以上です。
発行: 京都府視覚障害者協会
発行日: 2019年2月22日
☆どうもありがとうございました。