メルマガ色鉛筆第104号「私にとっての笑い、あなたにとっての笑い」

タイトル 「私にとっての笑い、あなたにとっての笑い」
ペンネーム 響き合う色と色(50代 男性 光覚)
 皆さんは、「笑」という漢字にどんなイメージをお持ちですか?
髪を長くした若い巫女(みこ)の象形から「わらう」ができあがったようです。
そんな由来の「笑」、言葉や状況から想像するとやはり明るいイメージではないでしょうか。
「笑」から連想する言葉も、微笑み、笑い声、爆笑、笑みがはじける・・・。
自分が笑うことで自分自身のいやなことを振りはらったり、
他人の笑い声から元気をもらったりすることはありませんか。
 視覚障害者になってすぐのころ、自分自身から笑顔がなくなり、
私は他人の笑みさえ拒絶していたような気がします。
でも、私はいつの間にか人と会話をして笑っていました。
私は、どうやら笑う自分を想い出したようです。
他の場所から笑い声が聞こえてくると、そのあたりにフワッとした明るさを感じます。
 今回、私は「笑い声」が聞こえる二つのエピソードに出会いました。
皆さんと共有したいと思います。
 「迷子になった視覚障害者2人」
 かれこれ6、7年前になるでしょうか。
視覚障害者団体のイベントで弱視の友人とバラ園に行ったときの話です。
 彼女は視野はあるけどぼーっとしか見えない、私は視力はあるけど視野が狭いと、それぞれ異なる見え方です。
訓練同期で親しくなり、ときどき外で待ち合わせをするのですが、これがなかなかたいへんです。
まず待ち合わせ場所で出会わない、いても見つけられない。
「どこで待ってるの!」、
「そっちこそ、さっきから待ってるのにどこで待ってるの!」と電話で言い合うと、
すぐ近くにお互いを発見。
 みどりの窓口前で待ち合わせたときは、1か所しかないと思っていたみどりの
窓口が3か所あり、
お互い別の場所で待ってたりと、毎回待ち合わせで一悶着。
その後もハプニング続出です。
その珍道中がおかしくておかしくて、ハプニングそのものを楽しんでいました。
 バラ園遠足の帰りは現地解散、ふとわれに返ると2人とも帰り道を知らないではありませんか。
そこでガイドヘルパーさんと一緒の人の後についていくと、その方はまさかのタクシー利用。
作戦空しく、今度はバス停に向かいます。
 ところが寸前で乗り遅れ、次のバスは1時間後。
仕方がないので歩いて駅に向かいましたが、駅に着くまでに聞くこと6回、やっとの思いで駅に。
私たちより1時間後にバラ園を出た仲間と合流、「なんで?」と驚かれました。
 ようやく電車に乗ってほっとする間もなく、おしゃべりに興じる2人。
そろそろ下車駅に近づいたかな~と思っていたら、
いつになっても着かないばかりか、さっき過ぎ去った駅名が出てくるではありませんか。
「えっ!、どうして?」、「あれ?、おかしいね」という私たちの声が聞こえたのでしょう。
前の席の人が振り向いて一言、
「この電車は終点に着いてから折り返しになったんですよ。
だから、次の駅で降りて反対方向の電車に乗ってください」。
ハッとして次の駅で降り、無事に目的の駅に向かいました。
 その後の車中でもまたおしゃべりに余念がありません。
「ねえ、さっきの親切な人、若い男の人だったね」、
「白杖を見てびっくりした顔してたよ」、
「あら、そうなの。それは気づかなかった」、
「もしかして、私たちの話をずーっと聞いてたのかなあ」。
「それにしても、2人で一人前かと思ったら、2人でもだめだねえ、私たち」と、
大笑いしながら帰宅したのでした。
 その後もこりずにイベントに参加し、また2人して迷子になりお手上げになって、
「助けて」の電話をして迎えに来てもらったり・・・。
ハハハ。
 時間がかかったり、目的地に思うようにたどり着けなかったりという経験をすると、
次はなかなかおっくうになるのでしょうが、
私たちずっこけペアはそんなことはありません。
なんといってもケセラセラ、「2人そろいもそろってバカだよねえ」なんて笑い
飛ばしてしまいますから。
--
 1人だと落ち込むかもしれないことが、2人だとただのおかしなネタとして笑える。
そんな親しさ、名コンビさんですね。
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 「笑い声」
 私の家の前の道は、小学校の通学路だ。
朝と午後、集団登下校の子どもたちの大きな笑い声が聞こえてくる。
「おはよう」の元気な声やはしゃぐ声、ときにはどなり声や泣き声も交じっている。
しかし、集団としては明るい笑い声になって響いてくる。
 私は、この声を20数年、毎日のように聞いている。
忙しい朝は時計がわりにして、憂うつな日には元気をもらって暮らしている。
自分の子どもが小学生だったころは、その声の中にわが子の声を見つけて安心したものだった。
 考えてみると、あのころ小学生だった子どもたちは今では20代から30代である。
人は成長し、移り変わり、月日は流れている。
家の前の風景も少しずつ変わっていく。
なのに、子どもたちの笑い声はいつもそこにある。
晴れた日には空高く、雨の日には道をはじくように。
景色と溶け合い、季節を追いかけ、笑い声が時代を越えていく。
 「平和って、こういうことなのかなあ」。
そう思ったとき、とんでもない勘違いに気づいた。
 数年前、この近くで登校途中の小学生の列に車が突っ込み、
お母さんと子どもたちの尊い命が奪われるという大事故があった。
その後、通学路が見直され、事故現場は通学路ではなくなった。
子どもたちや保護者の方々、学校関係者、第一にご遺族のお気持ちを考えたら当然の配慮である。
しかし、その通りから子どもたちの笑い声は消えてしまった。
 1年前、私は全盲の視覚障害者になった。
だから、だんだん近づいてくる笑い声を聞いて、一列に並んで歩いてくる元気な
子どもたちの笑顔を思い浮かべている。
笑い声が家の前を通り過ぎるころには、一人ひとりの笑顔がたくさんの楽しい気持ちを届けてくれる。
一人ひとりの笑い声が列をなして重なって、大きなエネルギーをくれる。
 これからは、彼らの平和な日々を祈ろうと思う。
彼らの笑い声は当たり前のようにそこにあるものではなく、愛する人たちに見守られて存在するものだから。
 ずっと、笑い声が消えませんように、その声の中に孫の笑い声を見つけられる未来まで。
ずっと、永遠に。
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 笑い声に癒される、そんなこと、ありますよね。
そして、無意識に微笑む瞬間、ほっこりしますね。
 エピソードは以上です。
 笑い声で元気をもらい、元気を与える。
私には、笑顔なのかそうでないのかを目で見て確認することはできません。
しかし、笑顔は声に現れます。
笑顔で話していると楽しそうに感じられます。
そして会話も進みます。
新しい仲間にも出会えるかもしれません。
 たいへんだったことを忘れてはいけない。
そして、笑いはそのたいへんさを乗り越えるための切り札だと思います。
 小さいころに言われた「痛みをわかる人になりなさい」という言葉が心に浮かびました。
笑い飛ばすのではなく、痛みを知って歩き始めれば、また笑いに出会えると信じてみよう。
やわらかい笑いに包まれる、そんな日々を過ごしていけますように。
編集後記
 目の前が真っ暗に感じるほど悲しかったり、苦しかったり、皆さんにもそんな
経験があるのではないでしょうか。
そんなときは、笑顔をつくることも、楽しそうな声を聞くこともつらいかもしれ
ません。
なのに、人は笑いの中に希望を見い出すことがあるようです。
導かれて知らぬ間に自分の口もともやわらかくなり、うつむいていた顔も笑い声のほうに向くようです。
 響き合う色と色さんも二つのエピソードによって、笑うことについて思いをめぐらす時間を過ごされました。
寄りそう笑みがお隣さんの心に彩りを与えてくれる、そんな朗らかなひとときでした。
-- このメールの内容は以上です。
発行:   京都府視覚障害者協会
発行日:  2017年10月13日
☆どうもありがとうございました。


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