メルマガ色鉛筆第102号「ありがとう」と「ごめんなさい」

タイトル 「ありがとう」と「ごめんなさい」
ペンネーム レモンイエロー(70代 女性 弱視)
 レポートの要旨です。
 私には二人の母がいます。
私を産んでくれた母と育ててくれた母です。
私に生きる力を与えてくれた二人の母は、今も私の心の中に生きています。
どちらも私にとってはかけがえのない存在です。
 そんな二人の母への思いを、感謝の気持ちをこめてここに書かせていただきま
す。
 ここから本文です。
 73歳の私。
泣いたり笑ったり悔んだり喜んだり…、いろんなことがありました。
ここ2年くらいの間に急速に見えにくくなり、嘆き悲しみ、何もできなかった時期もありました。
今は開き直ったというのか、現実を受け止めたというのか、ジタバタせずに、
今の状況の中、自分でできることを自分でやりながら、なるべく楽しんで生きていきたいと思いながら
暮らせるようになってきました。
こんなふうに気持ちが整理できる力は、育ててくれた母にもらった力だと思うのです。
 私が10歳のとき、実母が亡くなりました。
その翌年、実母の姉であったおばちゃんが私たちの養母となってくれました。
 私は、小さいころからこのおばちゃんが大好きでした。
明治の末に10人兄弟の3番目として貧しい瀬戸内の島に生まれ、
大きな戦争を二度もくぐり抜けて生きてきた人なのです。
そのころは多くの人がそうであったのかもしれませんが、
高等小学校を卒業すると、長兄の学費のために行儀見習いという名目で女中奉公に出たそうです。
長兄がめでたく医者になってから結婚。
しかし、すぐに夫の死、子どもとの別れ、そして再婚、またまた死別と、
次々に襲う悲しいできごとの中を通り抜けた人でした。
 でも、私が知っているおばちゃんは明るいし、どーんと大きく受け止めてくれるし、優しいのです。
実母の闘病中、私がメソメソしていても、そのことには何もふれず、
手伝いをさせてくれたり買い物に連れていってくれたりしたのを思い出します。
そのタイミングの絶妙なこと!
 そのおばちゃんが、
「『ありがとう』っていうのと『ごめんなさい』っていうのは、感じたとき、思ったときにすぐに言うんですよ」といつもいつも言っていました。
「気持ちって、言わなくても通じると言う人もいるけれど、やっぱりちゃんと言わないと伝わらないものよ。
あんたがとてもうれしいと思ったら、その気持ちをすぐに素直に言うんですよ。
悪かったなと思ったら、うれしいときの『ありがとう』よりも早く『ごめんなさい』を言うのよ。
相手の人は、その言葉であんたの気持ちがわかるんだからね。
気持ちがわかったら、またお話ができるでしょ」と。
 そしてまた、私が離婚を決意したときには、「あんたがそのほうがいいのなら
お母ちゃんはなんでも手伝うよ」とだけ言いました。
その言葉どおり、子育ても仕事も全面的に支えてくれました。
おばちゃんのこの支えがあったからこそ、私は破綻することなく子育てと仕事ができたのです。
 今、思い返してみたとき、おばちゃんのことが大好きだったし、
助けてもらってありがたいとも思っていたけれど、
「ありがとう」って言ってなかったんじゃないかしら。
遅く帰ってきておばちゃんがつくってくれた食事をするときだって、
疲れた顔でもくもくと食べるだけで、「ありがとう」も「ごめんなさい」も言ってなかったわ。
当たり前みたいに振舞っていた!
どうして「ありがとう」が言えなかったの!
どうして「ごめんなさい」が言えなかったの!
おばちゃんから教えてもらったいろんなことの中でとても大事に記憶して実行していたつもりだったのに…、
本人であるおばちゃんに対してできていなかった!
人から後ろ指を差されないように子育てをしなきゃ!、仕事だって人に負けないようにしたい!と必死だった。
とはいうものの、今思うとこんな申し訳ないことってあるかしら。
30代、40代の私にとっておばちゃんのいない暮らしは考えられないほど、
おばちゃんが大きな位置を占めていたというのに。
 遅すぎるけれど、「ほんとにほんとにありがとう、お母ちゃん!」。
仏壇にお母ちゃんの好きな甘いお菓子をいっぱい供えましょう。
 二人の母は、全く違う形で人に対する気持ちの表現の仕方を教えてくれたと思います。
 実母は自分の死を予感しつつも、
その中で幼い私に作法や礼儀を口うるさいと感じるほど教えてくれました。
うるさいな、面倒くさいなと思っていましたが、今はその気持ちがありがたくて
涙が出てきます。
「この子が大きくなるまで生きてはいないだろう。だから、人にバカにされない
ようあれもこれも教えておきたい」、
そう考えていたのではないでしょうか。
 養母は、人の中で生きていくとき、どうやって自分の思いを伝えたらいいのか
を教えてくれました。
つらい哀しい自分の人生を通して、自分らしく生きていくための方法を教えてくれたのではないでしょうか。
 養母が一人言のように一度だけつぶやいた言葉が忘れられません。
「女が自分の産んだ子どもを育てられないことほどつらいことはないものよ。
神様も仏様もないのかと恨んだよ。
そして、それができない自分がどうしようもなく情けないものに思えたよ」と。
そこから立ち上がる力が、自分から発信する「ありがとう」と「ごめんなさい」だったのだろうと思うのです。
 70歳を過ぎた私の中には、今も二人の母が生きています。
その二人の母の思いを、いつか子どもや孫にも伝えていきたいと思っています。
編集後記
 私たちは、視覚障害がある・ないにかかわらず多くの人に助けられて育ちましたし、
大人になってもお互いに助け合いながら、つまりは助けられながら暮らしています。
このことには、感謝の気持ちが心の底からわいてくるのを感じます。
そして、それをいつもひしひしと感じるというのと、たまには感じるというのでは、
ずいぶんと違った毎日になりそうです。
 見えなく・見えにくくなると、日常生活の中で助けられることがたくさんあります。
これが、人が人を助ける、人に助けられるということについて考えるきっかけに
なります。
また一方では、見ることができないのを他の力で補うということがたくさんあり
ます。
これが、自分が身につけた力について、さらには人から教わって身につけた力に
ついて考えるきっかけになります。
 そうして考える中で、身近な人への感謝をひしひしと感じるようになることは
大いにあるんじゃないかと思います。
レモンイエローさんの今のお気持ちがここにあり、それが背骨となり、
その背中を見て学ぶ人がいるだろうと、イメージがつながります。
-- このメールの内容は以上です。
発行:   京都府視覚障害者協会
発行日:  2017年9月8日
☆どうもありがとうございました。


現在、シンプルな表示の白黒反転画面になっています。上部の配色変更 ボタンで一般的な表示に切り換えることができます。


サイトポリシー | 個人情報保護方針 | サイトマップ | お問合せ | アクセシビリティ方針 | 管理者ログイン