メルマガ色鉛筆第94号「実家を片づけて」

タイトル 「実家を片づけて」
ペンネーム 淡浅葱の栞(うすあさぎのしおり)(50代 男性 手動弁)
 空き家になっていた実家を片づける。
母は5年前に、付き添っていた父はその2年後に他界している。
父の三回忌を終え、私は実家とも別れを告げることにした。
 時は止まったまま、晩年の父母との思い出が凝縮されているこの家。
衣類や食器からは父母の息づかいを感じ、道具や書籍からは鼓動が伝わってくる。
目の見えにくい私に代わって部屋を整理してくれる妻。
しばしばふたりの「ありし日」に思いをめぐらせ、手を止め涙ぐむ。
 私たち夫婦からの「母の日」の贈り物。
何にしようかと、妻とあれこれ悩んだものだった。
はじめのうちはエプロンや文箱などだった品々は、
母が伏せがちになってからはパジャマやクッションといったものになっていった。
それらはほとんどが包装紙に包まれ、使われた様子がない。
思わず苦笑してしまう。
決して気に入らなかったのではない。
ものがない時代に育った母は、「もったいない」と手をつけずにおいておいたのだ。
古いものを捨てることもなく、押し入れやタンスにはこうしてものがあふれかえっている。
 母の台所の引き出しの奥にあった小さな茶箱。
その中に、着物を着た古い女の子の人形が大事にしまわれていた。
妻からそれを知らされた刹那、
「時の記念日があの子の命日」と、小さな位牌を磨いていた母の姿が蘇る。
母は、私の姉にあたる最初の子を産後7ヶ月で亡くしていた。
その子の形見の人形を、深い悲しみとともにこの茶箱に封印していたのだろう。
そっと処分する品々の中で、この人形だけは思いを込めて供養してやることにし
た。
 盤面に大きな節のある古い碁盤。
これともお別れをしなくてはならない。
そのにおいと手ざわりに、幼かったころからの父との手合いを思い出す。
負かされて、悔しくてよく泣いたものだった。
でも後年、年をとってからの父に黒で何番か続けて勝ったあと、
白の碁笥(ごけ)を差し出された。
そのときの父の何かしらうれしそうな顔が今も目に浮かんでくる。
 目が見えにくくなって長年碁が打てなかった私は、
数年前、視覚障害者でもさわってわかる碁盤に出会った。
再び碁を打つことができるようになり、サークルや大会で多くの仲間と知り合えた。
こんなつながりも、碁を教えてくれた父のおかげなのかもしれない。
 父の寝間から出てきた20数袋の賞味期限切れの「黒糖かりんとう」。
おそらく旧き良き時代の父の好物だったに違いない。
連れ合いを亡くしてから物忘れがひどくなって、まだ家にあるのに買い物のたびに買い足してしまったのだろう。
 そういえば、亡くなるころには、私の目がほとんど見えなくなっていることも忘れていたように思う。
時折、古い手紙や写真を私に差し出してきていた。
そんなときは黙って笑って受け取り、
昔話に耳を傾けることが親不孝な息子のせめてもの償いだった。
 震災や水害で家を失くした人たちが口をそろえて言うことがある。
「家は建て直すことができるけれど、思い出の手紙や写真は戻らない」。
視力を失うということは、それに等しく悲しい思い出の喪失なのかもしれない。
手の中にあっても見ることができない記録。
記憶に残る場面だけが、淡い色鉛筆のように思い出をかすかに彩る。
 片づけを終え、家財が持ち出された部屋は伽藍堂。
自分の声が虚しく反響するそこは、私にとってもはやあの実家ではなくなっていた。
でも、思い出の場面は、感謝を込めて一枚一枚「こころのアルバム」に貼ることにしよう。
生涯、決して消されぬ父母との日々の記録として。
編集後記
 ご両親がお持ちだったものを手に取って、往時をふり返り数々の思い出を回想する。
そんな大切な時間をすごされたレポートでした。
 見えない・見えにくいために思い出の写真やビデオ動画を見ることができないのは、
ちょっぴり残念なことです。
それらは、心の中、思い出がしまってある引き出しを開けてくれます。
写真を見るかわりに、ときどき語り合うことで、引き出しが開いてくれるとよいと思います。
この先いつか、淡浅葱の栞さんがこのレポートを自ら読まれるとき、
そのときも引き出しが開いてくれるとよいと思います。
-- このメールの内容は以上です。
発行:   京都府視覚障害者協会
発行日:  2017年5月26日
☆どうもありがとうございました。


現在、シンプルな表示の白黒反転画面になっています。上部の配色変更 ボタンで一般的な表示に切り換えることができます。


サイトポリシー | 個人情報保護方針 | サイトマップ | お問合せ | アクセシビリティ方針 | 管理者ログイン